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郷土史点描(9)   宮武 紳一

片倉家との関わり その2

 仙台藩主伊達政宗に仕え白石城主として後に一万八千石を拝領伊達家一家として繁栄を誇った 片倉家も奥羽越(おううえつ)戦争で主家と共に朝敵賊軍として敗戦する。
 
 家禄も召し上げられ、米五十五俵だけの支給は片倉家の生活も困難である。いわんや家臣一千 四百二戸(奥羽盛衰見聞誌=おううせいすいけんぶんし)七千五百余の家中を養うなど考えられない。
 
 現実に、片倉家の要地刈田(かった)郡も南部藩領となり、白石城も引き渡され、南部家臣も白石 に続々と移住してきた。勿論藩士の入居先は片倉家家臣の屋敷建物であった。
 
 また、東北地方の戦後処理や中央の国家権力を地方に浸透させるため、白石城に按檫使府(あんさつしふ) という役所を設け、新政府の役人も片倉家中屋敷に入居するようになった。
 
 片倉家の旧臣にとってはっきりしていることは、屋敷建物は没収南部氏支配のもとに 「百姓」になるか他の方法を求めるかである。
 
 
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 一方、明治の新政府は、日本とロシア共有のカラフト(サハリン)で大国ロシアの進出に 抵抗しきれず、北方領土の警備と確保は大変な状況にあった。
 
 明治二年、蝦夷地を北海道と改め十一国八十六郡を設置、政府の統治権の及ぶ行政区としたが、 九州・四国を合計した以上に広い北海道の人口は、僅かに五万八千余(登別市は現在約五万七千人弱)、 首都を目指す札幌の定住者は九戸十三人という当時の状況である。
 
 ロシア侵攻の防備に北海道と樺太(からふと)の移住開拓は緊急課題であった。
 
 北海道開拓使(樺太開拓使)を新政府に設けたが金がない。太政官は、ついに「蝦夷地開拓のことは 今後諸藩、士族・庶民に至るまで志願の次第を申し出た者に相応の土地を割り渡し開拓を仰せつけるもの である」と布告した。
 
 この事を、上京中の片倉家旧家臣斎藤良知(りょうち)・横山一郎が知り、亘理(わたり)の伊達邦成 (くにしげ)の家老田村顕允(あきまさ)と会い、「既に伊達家復興のため北海道移住に生命をかけて いる」との決意に感銘した良知は応援にきていた日野愛憙(あいき)・渡辺順らと急ぎ帰国、旧主邦憲(くにのり) と出会い仙台伊達家家臣の亘理伊達家(伊達市)、同じ角田の石川家(室蘭市)の動きも報告、蝦夷地 移住の必要性を説き、邦憲も意向に応じたので、旧家臣団の意向をまとめるべく準備し、初代景綱(かげつな)創建の 傑山寺に八百余が集合、片倉家及び旧家臣の存亡をかけての討議が繰り広げられた。議論百出、結果は移住賛成の 跋渉派(ばっしょうは)と在地帰農派(きのうは)に分かれる。跋渉派は、「(一)旧主片倉家三百年の名門と主従関係 を保ち武士の誇りを保つ(二)蝦夷地を開拓し「北門の砦」となり警備に当たり勤王の志をもって賊軍汚名を返上する」
 
 
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 帰農派は、「(一)主君は伊達家家臣として保護される。(二)三百年来の父祖伝来の地であるから、例え百姓になっても 墳墓(ふんぼ)の地を守りたい」などということである。結果的に、封建社会の理想を説く道理派の主張が通り、移住開拓に 盟約する者の総計六百二十四戸に達したので民部省(みんぶしょう)に「移住嘆願書」を提出、片倉邦憲も東京に招かれ、太政官 より「幌別郡一郡の支配」を仰せつかることになった。
 
 早速、支配地受領のため先発隊が派遣されるが、以後片倉家の旧筆頭家老本澤直養(もとざわちょくよう)の「胆振国幌別郡御 支配所出張萬記録(ばんきろく)」をみよう。
 
 本澤は、明治二年(一八六九)十月九日熱海勝(あたみまさる)と他に二人の商人を連れ白石を出発した。陸路東北地方を北上、 青森県下北半島の大間から函館に着いたのは二十九日である。函館の開拓役所で事務手続きと片倉景範(かげのり)公を待ち、 十一月十七日函館出発、二十二日長万部から静狩まで進み、深雪の中をアイヌ人らの先導で急峻な静狩・礼文華(れぶんげ) の山道を越え虻田・有珠を過ぎ、室蘭(崎守町・元室蘭)出発は二十五日の十時過ぎ、午後六時に片倉家支配地幌別会所にやっと着いた。
 
 白石出発から幌別まで四十六日間、気象・船乗りの都合で函館十六日の滞在もあるが、海陸の苦難の道中に二十七日もかかっている。
 
 旧暦の十一月二十五日は現在の新暦で十二月二十七日、厳冬を迎えて雪の舞い上がる支配地「幌別郡」への着地であった。
 
 
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片倉家との関わり その3

 中央町六丁目の刈田(かった)神社境内に地上からの高さ三・三メートル、碑石の高さ約二メートル、 幅七十五センチ、厚さは二十一センチの仙台石で作った立派な開拓記念碑がある。
 
 建立の由来は、明治二年に幌別郡の支配を命じられた旧白石城主片倉邦憲が家臣・家族と共に 移住し開拓に従事したが、その父祖の功績を後世に伝えようと子孫の有志らにより大正十五年 (一九二六)片倉家と由緒のある刈田神社境内に建立したものである。
 
 題字は正五位男爵の片倉家十四代健吉、碑文は北海道帝国大学総長で正三位勲一等の佐藤昌介の 書いたもので、碑文の一部を紹介すると「幌別の地たるや、壌土は草昧(そうまい)にして巨樹(きょじゅ) うつ怫(ふつ)とし熊羆(ゆうひ)は跋扈(ばっこ)し豹狼(さいろう)は跳哮(ちょうこう)す。 開拓の業、豈(あに)容易ならんや」で「巨木や蔓(つる)草がうっ蒼と繁り、昼でも暗い密林の中を ひぐま、おおかみが横行し吠えている状況の中での開拓は大変で生易しいものではない」という 入植時の状況・経緯を書いている。
 
 白石を出発してから四十六日を経過、小雪降る幌別に到着した時は年の暮れも迫った十二月二十七日。 それでも、片倉景範・本澤直養ら十余名を迎えた新領地幌別郡では、幌別場所支配人金兵衛や永住人 東海林栄蔵・滝本金蔵・河村丑太郎らの他、役アイヌの人九名を入れ総勢十六名が出迎えた。
 
 
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 翌二十八日は、雪も少し降ったが、幌別会所前通りを検分し、支配地の地形・産物・植物 などを聴取。二十九日は、好天気に恵まれ、馬で登別の伏古別(ふしこべつ)まで行き、幌別・白老郡 の境界を巡察し「是(これ)より西ホロベツ領・是より西片倉小十郎支配所」と、大きな 境杭二本に墨痕(ぼっこん)鮮やかに記し、建立した。
 
 境杭の長さは、ホロベツ領が一丈六尺(四・八メートル)幅一尺六寸(四十八センチ)の大きな もの。片倉小十郎支配所杭は一層大きく図示されているが長・幅は分からない。
 
 それにしても、片倉家は室蘭郡との境界を定めていない。室蘭郡支配者角田領の石川邦光(旧二万 一千石)も有珠郡との境界に杭をたてたが、幌別郡との境界杭をたてていないのも不思議である。
 
 理由としての第一は、江戸期を通して幌別・室蘭場所を同一人の場所請負人が両場所とも取り仕切る ことが多く、境界は厳密でなくてよかった。江戸末期・明治初期の岡田半兵衛・徳田種之丞らも両場所を兼ねて いる。第二に南部藩のホロベツ・モロラン直轄時代の境界もチリベツであったり、現在の高砂方面に移動したりで 土地の状況や経過も明確でない。また、冬の季節を迎え、北海道移住に際し両家家臣団の親密な関係も あったので強引に決定できなかった。
 
 明治三年(一八七〇)未確定の境界を決めるべく開拓使黒沢正吉が派遣されてきた。彼はフシコチリベツ橋 (東室蘭駅西方)に磁石を置き、見通しのきかない霧の中で決めた。(添田龍吉辛酸録)と言われ、以後 明治三十四年(一九〇一)まで境界紛争が続いたのである。
 
 
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 さて、幌別郡支配も一年間の計画を家老本澤直養の「幌別郡出張萬記録」でみよう。
 
 一、旅人は役人・平人とも旅籠屋(はたごや)に宿泊する。多数の時、会所利用。
 一、人馬の継ぎ立ては会所で扱う。
 一、幌別川・登別川・ランポッケの通所を容易にするため千五百両かかる。当分金の見通し もないが漁業利益で勘定する。
 一、漁業は莫大な金が必要なので、希望者に漁場を貸し与え、年の出産高に十五パーセントほど課税する。
 一、硫黄(登別温泉)は南部藩支配の折りに掘り尽きたので六・七年は生産の見込みがない。
 一、海風を防ぐため、海岸通り一帯の伐木を禁じ土手を築く。
 
 その他、アイヌの人達の東西場所への出稼ぎ、炭焼きや畑作技術の指導などで生産を高め利益を上げることを考えている。
 
 幌別郡支配地で一応の業務を終え、本格的移住のため帰路についた家老本澤直養ら四人は、新暦 一月六日幌別郡出発、白石城下到着二月二十二日。渡道四十六日、帰路四十八日の困難な旅であった。
 
 それに、移住の難問題は山積みし緒(しょ)に就いたばかりなのである。
 
 
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片倉家との関わり その4

 片倉家十二代景範・家老本澤直養(もとざわちょくよう)ら主従が、厳冬の中で支配地幌別郡の 拝領業務を終えて無事白石に帰ったものの、肝心の北海道移住家臣団の取りまとめが遅々として 進んでいない状態であった。
 
 藩祖片倉景綱(かげつな)創建の傑山寺(けっさんじ)に八百人余の家臣を招集し白熱した討議の中で、 移住盟約者六百二十四人の賛成で決定したものの「父祖伝来の墳墓の土地・屋敷を捨てて渡道するなど 考えられない」とする移住反対派の勢力も強くなりその数も増加傾向にあったのである。
 
 移住の具体的決定のみられない状況に業(ごう)を煮やした政府側も「移住決心者もぐずぐずしていると 異論に負け、生活もますます困窮し移住できないので、厳重に取り調べ移住計画を実施せよ」と移住の 督促、移住の強制を求めてきた。
 
 調査の結果、移住者三百七十七戸、帰農者二百四十七戸、その他出奔者、未決定者など複雑な状況の中で 移住は実施される。残留組の帰農者は武士の身分を剥奪(はくだつ)された、一般農民なので「姓を廃し 帯刀を許さず、武士の姿をしてはならぬ。村役人(百姓)の命令に従い勿論旧主君との主従関係はない」などの 命令も相次いで出された。
 
 このような中で第一回の移住が明治三年(一八七〇)六月二十五日、二十一戸六十七人、職人十三人が 松島湾の寒風澤(さぶさわ)から帆船鳳凰(ほうおう)丸で出帆、七月一日室蘭村(元室蘭)に上陸し幌別に到着した。
 
 移住者は、早速幌別村(幌別町)に七十五坪、鷲別村に三十坪の草造長屋を建て共同生活をしながら、 幌別村は来馬川で東西の来馬に分け、一戸五千坪に区画し本澤直養外十四戸、鷲別村に須田弥平左衛門外五戸 が移住し開墾に従事する。
 
 
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 十一代の君主邦憲(くにのり)公も六月二十二日仙台屋敷を出発、七月二十三日幌別に到着。 幌別郡と増支配地となった東部室蘭郡を視察し、二十三日間滞在して、八月十五日帰国している (奥羽盛衰見聞誌=おううせいすいけんぶんし)。
 
 第二回移住は明治四年三月、四十五戸百七十七人・職人十五人が石浜港から汽船猶龍(ゆうりゅう)丸に 乗船し九日出発、十二日碧龍田(へきりうた)村(ペケレオタ・室蘭市陣屋町)に上陸した。
 
 彼らの住居は鷲別村に小片五郎右衛門外十戸三十四名、富岸村明珍(みょうちん)清太夫外二戸 七名、幌別村来馬・浜(幌別町)・小平河岸(おびらかし=片倉町)に斎藤良知(りょうち)外二十六戸 百ニ十五名、蘭法華(ランボッケ=冨浦町)佐野源蔵外三戸十一名らが分住し開拓することになった。 (日野愛憙著「片倉家北海道移住開拓顛末」)
 
 それにしても、第三回移住予定百五十六戸六百十二人は、第二回出発後の三月十七日開拓使の貫属(直属) となり、旧家老佐藤孝郷(こうきょう)に引率され、我が国最初の太平洋横断に成功した旧徳川幕府の 咸臨(かんりん)丸に乗船、途中木古内沖で座礁、第二班の庚午(こうご)丸に函館から乗船し 小樽に上陸して札幌郡白石村・手稲村に入植。片倉家家臣団は幌別郡と白石・手稲村に分離移住となったのである。
 
 
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 因(ちなみ)に、有珠郡に移住した伊達邦成も開拓使貫属として札幌付近の移住を勧告されたが、 家老田村顕允(あきまさ)は「伊達家は主君が家族をあげて旧臣を従え、君臣ともに移住の決意である。 今般申し出の実施は、誠に恥ずかしい事なので武門の面目にかけて主従と共にしたい」と丁重に断り 貫属の資金援助と虻田郡の増支配を受けていた。
 
 幌別郡の支配については、東海林栄蔵の掘立小屋を草囲いし開拓役所と集議所(しゅうぎしょ)に仕立てたが、 これが登別の役所の前身で、組織も庶務(学事・戸籍・郡民の願い届け)開墾(監察・刑事など)会計・ 病院係など設置し執務規則も決めるなど計画は綿密であった。
 
 移住者の住居は、お長屋と呼ぶ草ぶき長屋の共同生活。家族間の仕切りは簾(すだれ)一枚なので笑えぬ 悲喜劇もあったらしい。しかし彼らの結束は強く、室蘭に通ずる道路の開削(かいさく)は札幌本道の基本となる 偉業を果たし、農業規約による農業開拓鷲別村ペシボッケ(輪西方面)に馬の放牧場をつくり永住の地と定め 幌別・鷲別に墓地。旧領地の刈田峯(かったみね)神社の祭神を分霊した刈田神社の創建。幌別教育所の設置は、 登別市教育の源で登別創業の基礎を築いた功績は大きい。
 
 
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明治十四年御駐蹕の地を訪ねて

 蘭法華(らんぼっけ)高台の御駐蹕(ごちゅうひつ)記念碑は49ページで紹介したが、 登別小学校前から高台までの札幌本道坂道は、幌別郡・白老郡の屈強なアイヌの人達数十人の 力を頼み前方から御輦(ぎょれん)を引き緩やかに登った。
 
 露払(つゆはら)いの下士は別にして、天皇旗を振りかざした近衛士官を先頭に多くの 騎馬で御輦を囲み、侍従長以下宮内省の高級役人や北海道開拓使長官黒田清隆以下の大行列である。
 
 蘭法華高台の御小休所(おこやすみどころ)は「柱粱(ちゅうりょう)ソノ他悉(ことごと)ク 虎杖(いたどり)ヲ以テ造ル」と記録にあるので枯れたドングイを横板代わりに使う簡素なものであった。
 
 当日の九月四日は、秋空の晴天なので高台からの幌別鷲別鯨岬の海岸近くまで深い樹林に蔽(おお)われた 景観と、室蘭方面トッカリショから遠く南の太平洋、恵山岬・駒ヶ岳も眺望し「眺覧曠遠(ちょうらんこうえん) なれど」として素晴らしい景色を褒(ほ)めている。
 
 冨浦の御膳水も献上され、約三十分休憩、十一時十五分出発。大凡(おおよそ)現在の 国道三十六号線(旧札幌本道)沿いに幌別に向かい、昼憩行在所(あんざいしょ)に御着輦 (ごちゃくれん)したのが十二時五分なので相当の速足である。
 
 
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 当時の幌別村戸数百三戸、四百十人の人数である。それにしても九州・四国を合わせた以上に 広い北海道の総人口は、現在の釧路市の約二十万人に少し多い二十二万余り、札幌は八千人であるから 程々の村である。郡内創立の公立幌別小学校も、此の年六月幌別町一丁目の片倉家旧家臣矢内信任 (やないしんにん)の邸(やしき)に設置され、日野・本澤の旧家老邸も使われた。国道沿いの 幌別町一丁目の現汐見公園前付近に郵便局(後に幌別町二丁目汐見公園付近に移転)、郵便物・ 荷物運送の駅逓所(えきていしょ)なども設けて郡の中心であった。
 
 明治天皇はじめ高官らの大行列が昼憩された幌別行在所は、当時の刈田神社(幌別町一丁目六番付近) の東隣り幌別町二丁目八番地付近で、片倉家旧家臣西東勇吾邸である。
 
 此の時幌別駅(宿駅のある所)の入口に「幌別小学校の教員生徒整列奉迎(ほうげい)し数多(あまた) 拝観に出でたり」と函館新聞(明治十四年九月十九日)にあり西東邸で昼食を摂(と)られた。
 
 天皇の昼食内容は不明であるが明治十四年巡幸資料「御巡幸雑記(ごじゅんこうざっき)」によると 「沿道御泊・御昼駅ナドニ於テ、左ノ通リ備品相整ヘ置キ先回リ本省各課官員ヘ現品引キ渡スベク候」 と布告している。
 
 因(ちなみ)に、天皇御昼憩の場合、宮内省内膳課で準備する一食分は、御膳米一粒撰(えら)び上白一升 (一・五キログラム)醤油上品五合(〇・九リットル)味醂酒(みりんしゅ)上品五合、酒上品五合、 魚鳥三種程、精進物(海菜・野菜)二種程、塩上品五合、氷二十斤(きん)程(約十二キログラム)で 「水無キ地方ハ雪ニテモ苦シカラズ」とあるが、宮中用は冬に製氷させ大量に保存していたようで 夏は大いに利用していた。
 
 
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 その他調理場用具のテーブルや流し台・水桶・マナ板・焚炭(たきすみ)・煙草盆・ 茶具など木材は檜(ひのき)材で日常用品を入れると大変な準備である。
 
 宿泊の場合は、一粒撰び上等白米二升五合(三・七キログラム)醤油上品一升・酒上品一升五合 などとすべて二倍以上を準備、それに調度品は八折屏風・火鉢・風呂は大釜のなるべく古いもので 湯の濁らないもの、その他白木の提灯台(ちょうちんだい)・ローソクの燭台(しょくだい)・行燈 (あんどん)など数十ずつとこれは紹介の一部であるが侍従武官を入れると膨大な数量になり 豫(あらかじ)め厳格に準備する訳である。
 
 「聖上(天皇)ニハ、幌別駅西東勇吾方(かた)ニテ御昼餐(ごちゅうさん=昼食)ヲ召(め)サセ 給イ午後一時四十分同所ヲ御発輦(出発)西東勇吾ヘオ手当金五十円下賜(かし)アリタリ」とある。
 
 幌別川・自衛隊前道路から国道に出て午後二時三十分鷲別町六丁目の御小休所に到着。現在の記念碑の 地が事実と黒澤友義氏も證明された。御膳水は鷲別町一丁目大岩病院付近の天然湧水を献上。その後御輦は イタンキ海岸沿いに鷲別村字別志発気(べしぼっけ=鶴ケ崎中学校上高台)で小憩。観光道路を通って 幌別郡と室蘭郡の境界ウクシパウシ(大沢町)から御前水に抜け新室蘭の山中万次郎宅に午後五時 四十分到着した。室蘭港は軍艦迅鯨(じんげい)日進ほか数多(あまた)の艦船が出迎え、祝砲・ 狼烟(ろうえん)をあげ、その威容さに村民はただ驚くばかりと記録にある。
 
 
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幌別町を訪ねて「会所のあったホロベツ」

 登別市内には、約二百余数の古いアイヌ語地名が残されているが、この数は道内でも最も多い地域として 誇れることである。勿論、知里真志保・山田秀三先生らの「登別町のアイヌ語地名」の研究にある。
 
 その地名の中で、登別地方の行政的地名の中心として栄えた所は現在の「幌別町」である。
 
 幌別の名称は、アイヌ語の「ポロペツ・大きい川」の意味で、道内にも浦河・古平・枝幸・北見にホロベツ の地名はあるが、江戸時代から幌別場所の中心で運上屋も置かれていた。
 
 明治二年蝦夷が北海道になり、十一国八十六郡を設けたときは「幌別郡幌別村」なり。開拓役所・戸長役場・ 村役場庁舎も幌別町に設置されていた所である。「ポロペツ」の地名(川名)はアイヌ文化時代からあったのだろうが、 意外なところに名前がでた。
 
 寛永十六年(一六四三)オランダの船長フリースが「黄金の国ジパング」の探検に乗り出し、蝦夷地胆振地方の 近海を通った時、エルモーニ(室蘭エトモ)、ケープエロエン(エリモ岬)などと共にポロペツを「パラピッツ」と 記載し、後にヤンソニウスの世界地図に紹介されたのである。この時の航海長クーンも実測した訳でないが、 大凡の地形・地名を調べていたのであろう。それにしても「幌別」が十七世紀の世界地図に紹介されていたのは珍しいことである。
 
 
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 さて、幌別にはシャクシャインの蜂(ほう)起で大奮闘したアイヌの英雄チメンパがいた。
 
 蝦夷における和人の交易商品量が増大すると和人の数も増え、場所請負人の通詞(つうじ=通訳人)・帳役や 番人が横暴となり、威圧や搾取(さくしゅ)などで対立、ついに和人勢力の駆逐で立ち上がった「 シャクシャイン戦争」が一六六九年におこる。
 
 シャクシャイン蜂起は、東蝦夷地(太平洋側)は幌別から釧路地方白糠。西蝦夷地(日本海側)は 歌棄(うたすつ)から祝津(しくずし=小樽湾西北)の間で二百七十三人の和人が殺された。
 
 シャクシャイン軍は、日高から松前に向けて進撃を開始すると松前藩は大慌てで幕府に報告、津軽藩から 鉄砲・弾薬を借り、南部藩、秋田藩も出兵準備を命ぜられ、九州島原の乱以来の大騒動であった。
 
 チメンバはホロベツアイヌの首長で登別・室蘭地方の実力者、シャクシャインの縁類にああたる。蜂起に あたり、既にエトモ・アブタ・クンヌイにいたり山越えして寿都(すっつ)や磯谷(いそや)方面のアイヌに 立起を促し味方につけていた。
 
 結果は、近代兵器鉄砲と弓矢の差でクンヌイ・オシャマンベの戦いでシャクシャイン軍は敗走。 松前軍味方のアイヌの話ではチメンパは戦死している。
 
 
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 ところが、寿都からクンヌイへの報告ではチメンパは生存し、七・八名で寿都の兄弟の処に身を寄せて 再起を謀(はか)っているとのこと。松前藩は早速三百五十余の兵を差し向け討ち取ったと資料にある。 その後チメンパの母・弟も捕らえられクンヌイに連行されたと津軽藩の隠密が藩主に逐一報告、幕府にも 松前藩の暴政が知らされいたようである。
 
 この乱後の資料によると、多くは山中や他地方へ逃避し、松前藩への反抗から人も絶えたと思われる。
 
 乱後百数十年、外国船が渡来し北方の進出に驚いた幕府は蝦夷を直轄とするが、文化三年(一八〇六)の 「母衣別(ほろべつ)場所様子大概書(たいがいしょ)」によると幌別場所も幕府の直轄になるので、松前藩 時代の運上屋も幕府の行政的機能を備えた「会所」となり、御雇(おやとい)支配人・番人九人に下宿一 (約六五坪)、板蔵(いたくら)二(三六坪)、葦蔵(よしくら=三二坪)・妙見稲荷(みょうけんいなり) 宮一(三坪)蝦夷家三十軒で百四十八人、舟は二十三艘(そう)もあった。
 
 これが五十年後の安政四年(一八五七)になると、会所・通行屋、板蔵五・備米(びまい)蔵・制札(せいさつ= 禁制の高札)。勤番所・馬屋・妙見稲荷社もあり、蝦夷家五十二戸二百六十人になっている。ロシア進出 による北方警備で、南部・仙台藩士の人的・物的緊急移送に備えて、幌別の会所には草履(ぞうり )三百足・松明(たいまつ)数百本・馬七十二頭を備えていた。
 
 

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