郷土史点描(9) 宮武 紳一
片倉家との関わり その2
仙台藩主伊達政宗に仕え白石城主として後に一万八千石を拝領伊達家一家として繁栄を誇った
片倉家も奥羽越(おううえつ)戦争で主家と共に朝敵賊軍として敗戦する。
家禄も召し上げられ、米五十五俵だけの支給は片倉家の生活も困難である。いわんや家臣一千
四百二戸(奥羽盛衰見聞誌=おううせいすいけんぶんし)七千五百余の家中を養うなど考えられない。
現実に、片倉家の要地刈田(かった)郡も南部藩領となり、白石城も引き渡され、南部家臣も白石
に続々と移住してきた。勿論藩士の入居先は片倉家家臣の屋敷建物であった。
また、東北地方の戦後処理や中央の国家権力を地方に浸透させるため、白石城に按檫使府(あんさつしふ)
という役所を設け、新政府の役人も片倉家中屋敷に入居するようになった。
片倉家の旧臣にとってはっきりしていることは、屋敷建物は没収南部氏支配のもとに
「百姓」になるか他の方法を求めるかである。