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郷土史点描(8)   宮武 紳一

新生町を訪ねて=湿原植物の宝庫=

 上鷲別町の丘陵地に続く山側斜面と、JR室蘭線の北西に広がる大湿原地帯を整備し 新しい町として、誕生したのが「新生町」である。
 
 約三十年前は、新生町五丁目、六丁目の山麓や丘陵地は雑木や深い笹に被われ、 低地帯は長靴でズブズブと沈む歩けないほどの谷地未開墾地として放置されていたが 山麓の望洋団地や新学田道路を中心に住宅が建ち、現在の道道上登別室蘭線(通称中央通り) 沿線は室蘭や道内からの商店移住も多く目を見張る程の発展ぶりに驚くばかりである。
 
 統計的に見ると昭和五十年の世帯数一六五戸・人口六五九人、昭和六十年世帯数一、一四三戸・ 人口三、九二〇人、平成五年二月の世帯数一、六〇四戸・人口五、一九〇人と登別市内の 若草町と共に昭和五十年以降最も伸びている地域である。
 
 新生町の町名は、昭和四十九年四月一日登別市内の町名・地番を改正し、三十七町百十七 丁目が設定された時からで、約六十年前の昭和九年以降は、上鷲別町と富岸町の一部に含まれ、 大正八年(一九一九)以降は、ほとんどの丘陵地がトウボシナイ、平地帯はワシベツライバ・ カロベツ・トンケシの字名であった。
 
 
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 トウボシナイは、「トプ・ウシナイ、竹・群生している沢」で、ワシベツライバは、「ワシベツの古川」 の意味。幾度か紹介のとおり現在の富岸川は上鷲別川と合流し鷲別川鉄橋付近で鷲別川に流入していたが、 新生町大湿原地帯の主流でもあった。カロベツは、良く分からないが、カラペツ(作る・川)の訛(なま)り と思われ、沼地の辺りに自生するフトイ・スゲ・ガマなどに織物の材料や、クルミ・ハンノキの木皮など 染料の材料場所かと思われる。トンケシは、「沼尻の末」で沼沢に関係している。
 
 考古学的にみても、中央通りの低地帯を囲んで新学田通りの高い地域は縄文時代の遺物が 散在するので古代人活躍の跡である。
 
 大正四年(一九一五)から亀田公園付近に入植し、開拓に従事した小林太郎さんは、明治 三十四年(一九〇一)生まれ、十五年程前初めて昔のお話を伺ったが、入植時の新生町は、 前記の植物が生い茂る湿地帯で、少しの雨量でも沼状になり、満足な道や家も造られず「馬の 草刈り場にしか利用できない土地であった」と話してくれた。
 
 低地帯がこのような状態なので、道は、明治三十一年の参謀本部図によると山際のが学田道路 が早くからあったが、広葉樹林に丈なす下草と蔓(つる)類を絡(から)ませ馬車も通れない 細道なので、利益の多かった「炭焼(すみやき)」の炭を俵につめ、馬の背に駄鞍(だくら)を つけて両側に荷をつける駄載(ださい)運搬(ダンツケと言った)で鷲別や室蘭方面に運んだという。
 
 
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 いずれにせよ約六千年前は、気候が温暖になり海水面が三~六メートルほど上昇したと 言われる(縄文海進)ので、新生町方面は浅海になり海退後陸地化したが、標高の高い 砂丘に遮(さえぎ)られて富岸川も西に流れ鷲別川に合流する始末。湿地の河川が自由に 遊び回る遊水池状の沼沢地になっていた。
 
 明治四十年頃の大洪水で鉄道線路が切断されるという大災害により、富岸川を現在のように 直流させ、河川を整備し灌漑(かんがい)も行われて現状に至っている。
 
 昔、新生町には、白い花が円錐状(えんすいじょう)に咲くサビタ(ノリウツギ)の木が多く あった。樹皮の中の部分は和紙を漉(す)く時のノリになる。昭和初期、本州の和紙生産者が サビタの中皮を買いに来るので、仕事の合間をみて中皮をむいてためておき売ったという。 沢川にマスがのぼり魚類も多く、野草や湿原植物の宝庫。春にはミズバショウが大群落をつくり、 夏にはエゾカンゾウ・ハナショウブ・カキツバタ・クロユリなど、エゾリンドウが咲くころは 秋の気配を感じる。自然の豊かな時代から、今の新生町をみると「浦島太郎みたいだ」と語った 小林太郎さんも九十二歳で他界。思いで話の実感だけが今も心に強く伝わってくる。
 
 
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長屋が走る「陸蒸気(おかじょうき)」

 今から百余年前の明治二十五年(一八九二)、北海道炭鉱鉄道(室蘭線) の停車場が市内で初めて登別・幌別に開設された。
 
 鷲別は明治三十四年、冨浦駅は昭和二十八年で登別・幌別停車場は、道内・ 国内でも開設の古い駅である。例えば、東海道線の全線開通は明治二十二年、 東北本線の上野、青森間は明治二十四年、函館本線は明治三十八年(一九〇五) の開通である。
 
 北海道に鉄道が早く開設された理由は、アメリカ人地質学者ライマンの調査に より「北海道は日本における石炭の宝庫」と、おり紙をつけ、幌内炭山の石炭を 「本州へ一時も早く運び出す」ということからであった。
 
 当時の日本は、欧米諸国に比べ三等国並の弱小国。近代国家を目指す明治政府の 施策は「殖民興業富国強兵」で近代工業の発展に北海道の石炭は欠くことができない 重要資源ということから室蘭港から、京浜への移出をライマンやケプロンが早くから 提唱していた。
 
 
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 小樽港に遅れをとった室蘭港であるが、太平洋沿岸への物資輸送、道央・ 道東の開拓、軍事的にロシアとの国防上の問題など、国の施策に合う立場から 実現したのが北海道炭鉱鉄道の開設であった。
 
 この鉄道開設の舞台裏に、北海道開拓の問題点もあるので少し触れると、創立 者代表は薩摩藩士の堀基(ほりもとい)で土佐の坂本龍馬と行動を共にした人物。 薩摩の黒田清隆のもとで開拓使書記官を務め、明治二十一年(一八八八)黒田清隆 が内閣総理大臣になると黒田首相に取り入り、北海道開拓使時代からの公営事業、 鉄道と炭鉱払い下げの約束を取り付け新しく北海道炭鉱鉄道会社の設立を計画した。
 
 そのため、前太政大臣三条実美(さねとみ)らを通して宮内庁に入り込み、皇族・ 華族らの名前を利用し、資本金六百五十万円の前記会社を設立したのであるが、北海道 開拓に与えた薩摩閥の影響は大きい。
 
 政府問題は後日にして、北海道炭鉱鉄道が敷設され室蘭(輪西)幌別・登別・白老・ 苫小牧などに停車場が設置された。停車場なので、駅長でなく場長(じょうちょう)、 車掌は車長(しゃちょう)であった。
 
 
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 幌別停車場は幌別町五丁目二十番地付近、登別停車場は明治二十九年陸地 測量部図をみると、登別川の西南側にあり、両停車場とも現在と異なった場所に ある。停車場の舎屋も小さく質素な建物で乗車場のプラットホームはないので 荷物も人も低い線路わきから乗車し、乗客・荷物のある限り旗の合図で列車は 停車している。炭鉱鉄道の運搬車なので、北海道最初の機関車義経・弁慶・しずか 号やアメリカのピッツバーグボーター社製(百八十から二百馬力、十五・五トン) の機関車より、一回り大きい九〇四〇型などのアメリカ輸入車が力強く動いていた。
 
 海を走る蒸気船に比べて汽車は陸(おか)を走るので「陸(おか)蒸気」と言われ、 また人の乗る客車は、立派な長屋に見え「それ、長屋が走る」などと大騒ぎ。 「子供はもちろん大人まで仕事を放り出し、物珍しげに鉄道沿線に集まる者多く、 子供らは汽車通過の前後、軌道上において遊戯をなし、軌道に伏せて車両の響きに 聞き入り、中にはトンネル内を走り抜け煙の臭(にお)いを嗅(か)ぐ」など 危険な行為が多かったので、本庁から注意の布達が発せられたが、当時としては 本当に驚異の的であった。
 
 乗車の賃銭は、登別から室蘭まで上等は四十四銭・中等三十一銭・下等で十八銭 などと、開設当時は三段階に分かれていた。登別から幌別まで下等は七銭である。
 
 幌別 輪西うち過ぎて
 はや室蘭に 着きにけり
 青森までは 海ひとつ
 海胆(うに)は この地の名産ぞ
 (鉄道唱歌二十番)
 
 室蘭発車すりゃトンネル越えて
 輪西 鷲別 幌別と
 一等名所の温泉場サノサ
 などと、鉄道に寄せる歌もあるが発足当時、東京米価十キログラム六十七銭 に比べると安い運賃ではなかった。
 
 
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登別に敷設された「北海道炭鉱鉄道」

 登別沿線をもの珍しく走るようになった陸(おか)蒸気・北海道炭鉱鉄道は、登別・幌別 停車場を過ぎて終着の室蘭停車場に到着する。
 
 停車場の場所は、当時の輪西村、現在の新日鉄仲町第一門付近。港のある現 室蘭に設置されなかった理由は、明治二十三年(一八九〇)政府は室蘭港を第五 鎮守府と定め三年後には軍事港に指定するなど軍事的理由があった。
 
 輪西に設けられた室蘭停車場から鷲別までの路線は、現在の新日鉄構内を一直線に走り 構内側は海岸、輪西市街側に屯田兵舎が見られ、現東室蘭から鷲別付近の鉄北側にも 屯田家屋が点在していた。それにしても、鷲別から登別までの鉄道建設工事は困難であった。  
 例えば、室蘭のトンネル工事は、三か所あるが、登別停車場を中間に蘭法華(らんぼっけ) トンネル(二二二メートル)・伏古別トンネル(六一〇メートル)の二か所。 当時北海道にはトンネル工事経験者がいなかったので、京都の疎水(そすい) トンネル設計監督者田辺朔男(さくお)博士を招き工事指導をしたが、手掘りで湧水・崩壊 事故続きの難工事、それに鷲別川・幌別川の架橋やトンケシ・現大和町などは大湿地で、 機械力がない人海戦術での埋め立て工事は大変であった。
 
 
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 話が変わるが、明治中期から大正・昭和初期にかけて北海道開拓史上悪名を残したのが 「土工部屋制度」で、アイヌ差別・囚人労働とも人間弾圧では同様である。あらゆる 意味の前借金により、厳重監視のもとに重労働を駆使され、特に明治期は、官権の力が 酷使の現場に及ばない完全な無法地帯。何人が働き、何人が死んでいったかを明確に伝える 数字はない。飯場頭(はんばがしら)が生殺与奪(せいさつよだつ)の権を握るいわゆる 「タコ部屋(へや)・監獄部屋(かんごくへや)」の土工制度が特に鉄道工事に一般的で あった(新北海道史巻四)。
 
 此の時の北海道は全くの労働不足。九州、四国を合わせたよりずっと大きい地域に、明治二十年は わずかに三十二万余の定着人口しかいない。労働不足に原始林伐木や湿地の埋め立て、厳冬の作業など、 特殊事情の中で、道路・鉄道建設は国の重要政策である。道内季節労働者はもとより、 東北・北陸・東京・大阪・四国地方と全国的に労働者が狩り出された。
 
 募集屋は周旋屋(しゅうせんや)・人夫曳(にんぷびき)、この手先が「ポン曳(び)き・蛸釣(たこつ)り」 と言われる人達。紳士風の男が金儲(かねもう)けの話をされ「まずは一杯呑みながら」と 酒屋に案内。「北海道に行かないか、朝は八時から昼三時まで働いて二円五十銭、食事は雇主 もち、酒代もでる」との甘言に募集屋川村組に案内され明け方まで呑まされそのまま上野駅から 車中の人。車中で四・五円の前貸しに弁当のときは酒を呑んだり歌ったり、景気のよい出鱈目(でたらめ) 話と酔心の無頓着さで北海道に来る。
 
 時季四月残雪あり。密林に覆われた四囲の景色もすごく、家屋は丸太の粗材を・板敷きむしろ。 一部屋三十人ずつ入ると鉄の錠が下され、昼なお暗い中にやせこけた人達の顔も不気味な ほど、外に拳銃、柏の太いこん棒をもつ身体の大きい棒頭が数人見張りをしていた。
 
 
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 さて、鉄道建設工事における「土工制度」は北炭室蘭線が最初と言われるが、このことは 後日にして、登別地方の当時の地域状況や工事の様子を追ってみよう。
 
 当時、鷲別駅はなかったが現在の駅の東室蘭側は、鷲別岬から日の出市場・高砂町方向に 丘が続いていたので、これを広く切り崩して線路を設定する。現在の鷲別駅東北側は、鷲別川が 蛇行し三日月湖や深い川跡の沼沢をつくり、現在の富岸川や上鷲別川などが 美園町二、鷲別町三丁目辺りで鷲別川に流入していたので、少しの雨でも水があふれ 湖のようになる。また、鷲別町四・五丁目の国道とJR間に高い砂丘が続いていた(明治 四十三年参謀本部図より)。
 
 鷲別川鉄橋付近の旧地名は「鷲別村ドロカワップ」である。アイヌ語の「ウカオプ」は 小山の名前だったというが、ちょうど砂丘が重なり合っている状態に「ト・沼・ ル・路」の「沼への路」を考えると夢もあるが、泥(どろ)を思わせる和人の呼称 はどうであろう。それにしても大変な湿地帯であった。
 
 
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北海道炭鉱鉄道の難所(登別のトンネル工事)

 鷲別駅東側鉄橋付近が、ドロカワップなどと印象的によくない地名がついたのも 泥炭層・海成粘土の沖積層が美園・若草・新生町方面に広がり、この大湿地帯の川水 が鷲別川鉄橋付近に流れ入り鉄南では砂丘に遮(さえぎ)られた泥沼地なので名称通り工事も 大変であった。
 
 さて、鷲別から登別市内の鉄道敷設の様子を追ってみよう。
 
 明治二十九年(一八九六)陸地測量部図と五十年後の昭和二十二年の米軍航空写真を 見ても、海浜汀(なぎさ)線から約二百メートル点に国道があり、平行した 北側に鉄道が走る状況は大和町二丁目まで変わらない。鷲別機関区付近から栄町・ 大和町二丁目にかけて砂丘も発達していたので鉄道は順調に設置された。
 
 ところが大和町二丁目を過ぎた地点は、鉄北の登別南高校西側や吉鷹牧場のある 青葉町山麓から流れるヤンケシ川(陸に上げる川)、山田・知里博士はフレペツ (赤い川)、明治二十九年図はトンケシ川と呼称しているが、緑町・若山町から 大和町一丁目にかけて谷地川が流れ、幌別川も蛇行して、多くの湖沼や湿地をつくり 鉄道の土盛り工事は困難を極めている。
 
 
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 このようなことで、日本初の洋式馬車道・札幌本道も大和町一丁目から現在の鉄道を わたり(札幌本道踏切)陸上自衛隊・登別大谷高校前の中央通りを東へ進み、中央町三丁目 から現在の国道へ通じている。若山町一・二、緑町二・三丁目南側に三・ 四程の古砂丘が連なっていたからである。
 
 幌別から登別までは、オカシベツ・モセウシナイ・登別川などもあるが、海岸・山麓に近い ことから鉄道敷設は順調であった。それにしても問題がないわけではない。
 
 幌別町一・二丁目は江戸時代から干鮭(ほしざけ)・鰊(にしん)・獺(かわうそ)、鹿(しか)、 貂(てん)などを生産した幌別場所の中心地で、会所も設置され周囲にアイヌの人達も 集約されていた。片倉家家臣が移住した拠点もこの幌別村字ハマ。当時此処から北西側は 森林が連なり、刈田神社は幌別町一丁目、当村の字ハマに設立。鉄道用地から中央町二丁目 千光寺南側の字ハマ裏に共同墓地も設置、明治十九年墓地は小平河岸(おびらかし=来馬墓地) に移転したと言われるが、移転不十分のまま、鉄道が敷設された。
 
 次はトンネル工事であるが、室蘭線三か所のうち登別を中間に二か所のトンネルがある。
 
 蘭法華トンネルは、坑夫・土砂出し人夫・支柱坑夫・手伝い人夫など、延べ人数二千五百人。 明治二十三年(一八九〇)十一月六日起工、翌年一月十九日に貫通して十二月二十日レンガ積み など内壁も完成している。
 
 
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 難所は約六百メートルの伏古別(ふしこべつ)トンネル。登別側の伏古別山から アヨロ、虎杖浜に至る台地上の地質はクッタラ火山の砂礫(されき)層である。 ところが、トンネルの南西部は伏古別の谷地、キタヨシが背丈以上に茂り、ヤチハンノキ に覆われて見境もつかない。高台はカシワ・ナラ材などがうっそうと茂り、トンネル上部は クッタラ外輪と中登別からの水豊かなポンアヨロ川が流れている。 台地北東部もアヨロ川が流れアヨロ湿地帯と言われる所である。坑夫・土砂出し・支柱人夫 など延べ人員約三千四百人とあるが、用具はツルハシ・スコップ・クワなので過酷な手作業。 支柱はトドマツの丸太材を約九十センチごとに木皮の縄で枠組みし、松明(たいまつ) を照らしながら掘り進む。砂礫は畚(もっこ)でかつぎ出すが、トロッコも利用された。 激しく湧水が噴出するのは、掘削の先頭だけでなく、土圧の緩んだところに地下水系が 噴流し支柱が崩れた。逃げる間もない大惨事である。
 
 過酷で危険な仕事の先頭にたつのは、タコ部屋に狩り集められた土工夫達で逃走 防止のため春夏は赤フンドシを腰に締めるだけ。畚かつぎで肩は腫れ上がり、休むと情け 容赦なく棒で殴られ、病気で倒れたら身体中こ突き回され行くところは病室と言う 死体収容一歩手前のところであった(北海道鉄道百年史)。
 
 国道三十六号線虎杖浜隧道(ずいどう)の竣工は昭和三十六年。このころ暗いトンネル を車で通ると「誰かの影が後ろに見えた」とか、霊がさまよう噂話がまことしやかに 吹聴された。伏古別隧道(ふしこべつずいどう)工事の言い伝えが不思議に 甦(よみがえ)ったものであろうか。
 
 
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片倉家との関わり

 幌別郡の地たるやー幌別川がその中央を流れるアイヌ人家屋が点在しているが、 その他の家屋にいたりては古来より通行屋と称する木造柾ぶきの一家屋と東海林 栄蔵なる者が営む掘立小屋一棟あるのみ。路と言えども海岸に沿うて屈曲せる小路なり。
 
 今から百二十五年前(一八六九)賊軍として敗戦し、白石城は接収、領土も没収 された片倉家と家臣らは、主家再興の為に「蝦夷地開拓移住を志し、併せて北辺 の守りに就き勤皇の実効を奏して賊軍としての罪の万分の一を償いたい」など 請願をしていたが、之に対し「胆振国のうち幌別郡の支配」を太政官からの仰せつけ かったので、支配地受け取りのため、もと家老本沢直養ら九名は白石を十月九日 出発、四十六日もかかり、苦労して着いた片倉家の新領地「幌別郡の情景」を表したのが 冒頭の文である。
 
 このようにして、片倉家と旧家臣の幌別郡(登別市)開拓が始まった。主家の 片倉家は明治四十年白石に引きあげたが、登別市には白石城を形どる資料館・刈田 神社境内にある開拓記念碑・片倉町の町名などが残され、今年は登別市と宮城県 白石市が姉妹都市提携を結んでから十周年を迎えるなど絆は一段と深まっている。
 
 白石城主片倉家とはどのような家柄で、何故幌別郡の開拓に従事したのか、概略は 前記の通りであるがもう少し考えてみよう。
 
 
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 時代は少し昔にさかのぼる。
 
 片倉氏の姓は藤原氏から分流した「加藤」の姓を居住地「信州片倉」に因(ちな)んで 「片倉」と改姓し南北朝時代は南朝側といわれるが厳密には後年の仙台藩主伊達政宗の 祖父晴宗に仕えてから系統も明確になるということであろう。
 
 片倉氏の初代片倉小十郎景綱は十九歳の時、九歳の伊達政宗に仕え、伊達氏を東北一の 雄藩に育てあげた優れた人物である。
 
 今から約四百年前、大阪の石田光成らと江戸の徳川家康が戦う、天下分けめの関ヶ原の合戦が おこるが、その前ぶれの戦いが東北で徳川側の味方をした伊達政宗と、上杉景勝の間に開始される。
 
 此の時、政宗の家臣であった片倉景綱の長男十七歳の重綱は、上杉方の居城「白石城」を 攻撃し城の西南石垣をよじのぼって「白地に黒鐘」の片倉軍旗をうち振りながら一番乗りを 声高らかに名のりあげ、奮闘し白石城は落城する。
 
 この白石城攻略の手柄によって伊達政宗から初代の片倉景綱は白石城を賜り、禄高も一万八千石、 代々伊達家の家臣として仕え、伊達家重臣席の中で一家に所属していた。
 
 また、江戸時代に、徳川家に仕えた大名(藩)の中で、城をもてない無城主もいたのに、 伊達家の家来(陪臣=ばいしん)片倉家が白石城主であるのも特例で、徳川家康の厚い信任が あったからであろう。
 
 
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 さて、江戸時代も終わり近くになると、日本の政治情勢は外国船の来航から大混乱におちいり、 外国を打てという「尊王攘夷運動」から「倒幕運動」に進展し、遂に幕府側と天皇中心の新政府側とで 鳥羽・伏見の戦いが始まり、 徳川家十五代将軍慶喜(よしのぶ)は朝敵となって敗戦、江戸城を明け渡すことになる。
 
 此の時、東北地方の大名は、朝廷に降伏を表している会津藩を救うため、仙台藩を中心に片倉家の 白石城に集まり新政府側に請願していたが、周防(すおう=山口県)の漁師から出世した 新政府側の下参謀世良修蔵(せらしゅうぞう)は、陳情した仙台藩六十二万石伊達慶邦(よしくに) を一喝する高慢さ、飽くまでも「武力制圧」を唱えたので世良の暗殺が計画され、福島の遊女屋 「金沢屋」で遊興中、仙台藩士瀬川主膳(せがわしゅぜん)らに捕えられ翌日寿川(ことぶきかわ) の川原で世良修蔵斬首、首は白石児捨(こすて)川に投げられた。
 
 新政府側の要人暗殺により奥羽越戦争になるが、兵器に劣る東北軍は随所に敗れ仙台藩も降伏する。
 
 敗戦の結果、仙台藩六十二万石は二十八万石に厳封。家来の白石城主十一代片倉邦憲(くにのり)は 一万八千石から米五十五俵の現物支給。栄光に輝く白石城も没収、南部藩領となり彼等の支配下で 「武士を捨て百姓になれ」という事であった。
 
 

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