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郷土史点描(7)   宮武 紳一

富浦町を訪ねて 「ハシナウシの丘」

 蘭法華の高台・リーフルカ(高い岡)には、縄文文化時代の遺物が出土し、アイヌ文化の アフンルパロ(あの世の入口)カムイミンタル(神の庭)、ハシナウシ(枝幣あるところ)、 ワカタウシ(水を飲みつけている所)や江戸期の七曲坂・茶屋跡、明治天皇御駐蹕(ひつ)の碑、 金成マツ・知里幸恵墓碑、知里真志保の碑など、登別の文化・歴史的遺跡・名勝・記念物の多いところである。
 
 また、ここに金成マツ・知里幸恵・知里真志保らの墓地・記念碑もあるのが偶然ではない。
 
 マツは、知里幸恵・長男の高央(たかなか)(通称たかお・明治四十年生まれ、現小樽商大卒)、 真志保らの母「ナミ」の姉で叔母にあたる。ところで、マツと幸恵の墓地は、富浦で、墓地の西側 道路を右に車の入る程の道を半ば進むと、すぐ右側に、十字架のマツの墓石と並んで安置されている。
 
 「知里真志保之碑は、登別本町三丁目和光園ホテル前の道を西南方の山側を登りつめた高台 左側に設置されている。此の碑を訪ねて、遠く旭川、札幌、また伊達・室蘭・苫小牧方面からくる 人も多いが、何時(いつ)も「道が分からない」と言われるのも困る。
 
 その真志保の碑のところがハシナウシで、海の幸に祈りを捧げる神聖な祭りの場所であった。
 
 偉い黒狐がいて、海の時化(しけ)や災害の予告をしたり、大津波があって、世界中の殆(ほとん)どが 水の下になったが、此の岡の上にお膳ほどの広さが残ったお陰で、人間が絶えることなく存続する ことが出来た、という言い伝えもある。特に此処(ここ)の「海の幸をもたらす神」は、小鳥の姿で 現れるので「木の枝を『ぬさ』にしてお祭りをした枝幣の場所であった」と、知里・山田の「いわゆる 地獄穴について」の中で記されている。
 
 
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 知里博士が、生前「海の見える川のある丘に住みたい」と語っていたので、室蘭中学校時代 (現室蘭栄高校)知里さんと登別から同じ列車で通った、宮武清一らが中心に、山田秀三・ 藤本英夫や八木義徳・三枝三郎ら多くの同級生の協力により建立され、昭和四十八年六月九日 (命日)に建立の除幕式が行われたのである。「海の見える、川のある丘」とは、登別本町二丁目で、彼の 父母、姉兄達が育ち、金成マツの家のあった登別川の縁北側の辺(あた)りである。ランボッケ岬や青い 海、登別川やフンベ山、ポンアヨロ岬を展望することができたハシナウシの地は彼が好んで 逍遥(しょうよう)し、物思いにふけった縁(ゆかり)ある岡なので、此の地を選び、和田産業 社長の善意で建立地が提供されたと云(い)われる。
 
 碑文「銀の雫降れ降れまわりに」は、知里博士と特に親交のあった山田秀三先生が、博士の 文から選んだものである。原文は姉の幸恵が残した「アイヌ神謡集」うち「梟(ふくろう)の神の 自ら歌った謡」の冒頭部分であるが、全文は、幸恵が旭川時代に祖母モナシノウクから伝聞したものを 素晴らしい文に和訳したもので、文を手にした金田一京助を感嘆させ、更に柳田国男らも「最高の 口承文学、世界に誇るべき叙事詩」と賞讃している。
 
 幸恵の本文は「銀の滴降る降るまわりに」と連体形であるが、彼の文は碑文のように「降れ降れまわりに」 と命令形である。この訳し方は、「一層完全なものにして姉の名を残したい」という考えであるが、 「一生を民族苦難の中で過ごし、熾烈(しれつ)な闘いの中で生き続けた複雑な思いの現れ」の ように感じます。
 
 幸恵の一生は、上京後間もなく僅か十九歳で終わる。登別の川、海や山、自然を愛した彼女の 望郷の念は幼児のように高まり、帰郷を祈るが、病は既に重く、願い空しく 此(こ)の世を去ったのである。
 
 
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富浦町を訪ねて 「御駐蹕(ごちゅうひつ)記念碑」

 登別小学校前の旧札幌本道から蘭法華(らんぼっけ)高台に上り、札内方面へ 進む道路右側に「明治十四年御駐蹕(ごちゅうひつ)の地」と刻まれた、約五メートル 余の記念碑と説明板が立っている。
 
 今から百十年前、東北・北海道を巡幸された明治天皇が、登別地方を通った時、 この冨浦の地で休息されたのを記念して、明治四十四年(一九一一)高橋千代助ら 十五人の青年会、他の発起人六十六人らにより建立されたものである。
 
 それにしても、明治天皇の行幸は公的行事で八十八回に及び四十日以上の巡幸は五回、 北海道巡幸時は、七十二日余と最高の日数を示している。
 
 明治元年九月、東京に向けて京都を出発した時は、官僚や大名を従えて、 供奉(ぐふ)するもの二千三百余人。莫大な金品を民衆に贈りながら進んだ。
 
 これは、京都から東の京(みやこ)、東北遷都(せんと)を含んだ特別の行事であるが、 明治十一年の北陸・東海道巡幸にも右大臣岩倉具視はじめ、参議・宮内・内務の高官、 書記官・陸軍将校や騎兵、巡査ら総勢八百余、輦(れん)車・車馬・乗馬・徒歩の 大行列で七十日余の期間であった。
 
 
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 南は九州、北は北海道まで国内くまなく巡幸した理由は、言うまでもなく、 長期間続いた武家政権を倒し、明治維新の「王政復古」に基づく天皇制国家の 確立にある。
 
 ところが、明治前期、九十三パーセント余の平民は、村役人・郡代・代官は 知っているが、天朝様を知る者は数少なく、その努力の一例に多くの盛大な巡幸が行われた。
 
 北海道には、明治九年七月函館まで来られたが、道内は未開の地なので数日 にして離道している。
 
 明治十四年の巡幸は、北海道開拓史十年計画の終了前年で、拓殖の成果を見て いただく為に、開拓使長官黒田清隆の強い要請で実現されたが天皇二十九歳であった。
 
 七月三十日、北白川宮・有栖川宮(ありすがわのみや)ら皇族、それに大隈重信・大木高喬( おおきたかとう)ら高官を含め、約三百余が東京を出発、東北への旅に向かう。北海道に着いたのは 八月三十日。小樽の手宮に上陸、東京・横浜間、大阪・神戸間についで、我が国で 三番目に開設した鉄道の特別列車で札幌に向かい、住民大歓迎の中で竣工間もない 豊平館に入られる。北海道巡幸の地は、道南地方に限られていた。理由は、札幌から北東の 大部分は道路もない未開の地。巡幸の前年、月形村に樺戸集治監が設置され、政治犯など多くの 囚人による悲惨な道路づくりや炭鉱開発も始めたばかり、道央や道東北など巡幸どころ ではなかった。
 
 
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 九月四日、午前七時、白老出発。八時十五分敷生(しきう)村(竹浦)・九時十五分 阿与呂(あよろ)村(虎杖浜)に到着、それぞれ小休止され、好天に恵まれて 愈(いよいよ)登別に巡幸される。
 
 これからは、当時の「函館新聞」や開拓使の「御通輦(ごつうれん)沿革略記」などを 参考にしたい。
 
 「白老・幌別両郡の境(さかい)の細流(フシコペツ)」を過ぎ登別村あり。戸数5戸・ 人口十五人(和人人口)次に登別川あり、是(これ)より蘭法華(らんぽっけ)にさし掛かる。 十余丁(千十メートル)の間、坂路曲折にして馬車を通ずるにやや不便を覚ゆ。此の間 御輦(ぎょれん)を徐々に上らせ給う。同十時三十分坂の頂き蘭法華(らんぽっけ)村にて御 小休(おこやすみ)」とある。当時の道路は、明治五年に造成した札幌本道で登別東町の 勝間商店北西側から登別小学校前を通り、冨浦高台に進む立派な道が今日も残っている。
 
 登別小学校辺りから、急な坂道になるので「大勢であと押しして坂を上った」と云うが、北海道 拓殖誌によると、人の引く車、特に天子の御車である「御輦(ぎょれん)が進まなかったので、 アイヌの人達数十人が推輓(すいばん)し奉った」と記録している。
 
 御休憩中、冨浦飲料株式会社付近の湧水を献上したので「御膳水」と呼ばれ登別でも 「由緒ある名水」として今も活用されている。
 
 
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富岸町(トンケシチョウ)を訪ねて 昔のトンケシ

 市内の珍しい行政地名「富岸(とんけし)」町がある。ふり仮名のとおり読み方は 「トンケシ」である。
 
 トンケシの地名は江戸時代の資料、松浦武四郎の「廻浦(かいほ)日誌」森春成らの 「罕有(かんゆう)日記」、市川十郎「野作東部(えぞとうぶ)日記などに初めてみえる 市内で現存する地名の一つである。通常は平仮名でとんけしと書いてあるが当て字で 「通計志(とうけし)」の漢字も見られる。
 
 その後、明治二年幌別郡を支配し開拓を始めた片倉家臣もトンケシと記録しているが、 明治五年(一八七二)幌別郡は幌別・鷲別・登別の三村から、蘭法華(ランボッケ)村・富岸 (とんけし)村を加え五村としたこの時から、漢字の行政地名「富岸」が誕生した。
 
 むかしの富岸地区は、トンケシ・イワリカナイ・カロベツ・トウボシナイ・ワシベツ・ ライバ・トリエ・ハマなどアイヌ語地名と和名が混同していた。昭和九年(一九三四)複雑な 郡内字名を十五字に統合。更に現在の町名・地番に改正したのは、昭和四十九年四月で、 この時富岸町から分かれて青葉町、大和町二、若山二~四、栄町一・三・四、新生町二~六丁目 の新しい町が独立誕生し、富岸町一~三丁目と山間の富岸町が残されたのである。
 
 
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 さて、「富岸」の地名は、アイヌ語のト・ウム・ケシ(沼・尻・の末)の意味であると 知里・山田先生が説明されているが、永田方正の蝦夷語地名解では、「沼の端(ハシ)」で、 地名語の用い方として「沼の尻・うしろの意味がある」と訳した知里博士らに、 トンケシの地形を考えた重みがあるようだ。
 
 いずれにせよ、大昔のトンケシは、海進時代の跡なので、海退後浅い湖沼として残り、 その後も川や高台から土砂が流出、堆積され更に、陸性植物が群落をつくるようになって 陸地化が進んできた。
 
 このような状況は、鷲別町国道沿線や、鷲別機関区西南側に大きなコブのような砂丘が 続いていたことや、鷲別岬から幌別にかけて海岸の汀(なぎさ)線から、特に二、三百の地点で、 海浜に沿った砂丘や砂地中の濃縮された砂鉄が採取され、特に鷲別から富岸までは無選鉄で磁鉄鉱 含有率九十八パーセントの高品位の鉱床を誇ったなど、昭和十八年から同四十年頃の砂鉄ブーム が引き起こしたドラマを知る人も未だ多いことだろう。
 
 このような自然の形成の中で、昔のトンケシ・ワシベツ・現在の若山町、新生・若草・美園など、 鉄北の低地域は、富岸・鷲別大湿原地帯と言える湿地帯であった。
 
 
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 考古学的にみると、前記地域の西北側五~二十メートルの山麓高台地域から、縄文時代の土器、 石器類が低地帯を囲むように出土し、彼らの生活の場所であったことを裏付け、学術的には、 道埋蔵文化財発掘の遺跡が知られている。
 
 さて、江戸時代のトンケシの資料に「此処(ここ)も、むかし大村なりしが津波のため、みなふく没 せしと」また「通計志(とうけし)と言える鮭漁場」やこの頃「小休所」が設置されていたことも記録されている。
 
 但(ただ)し、此(こ)の時代は、海へ直流する「富岸川」は存在していない時で、この川は前記 鉄北の低地帯を通り、美園町二・鷲別町三丁目北側あたりで鷲別川に合流し、明治期以降ワシベツライバ川 と呼称されて流れていた。
 
 此(こ)のワシベツライバ川は、トンケシ川・西トンケシ川などを合流して水量も豊富、本流や沼沢地には 幻の魚イトウやマス・サケも上り魚類も多く、鳥類が飛来し、鹿などの動物や野草も豊富、江戸時代に コタンがあり、和人の小休所が設けられたのも伺い知れる。
 
 トンケシコタンが「津波で覆没(ふくぼつ)」と書いた武四郎の記録も、知里博士「えぞおばけ列伝」の トンケシの「兎(うさぎ)と津波」を引き合いに出すと、面白い意味がありそうだ。
 
 
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富岸町を訪ねて 「津波と兎(うさぎ)」の伝説

 カムイヌプリから山の稜線を南の方へ緩やかに下った所は、キウシト(カヤ・群生する・走り根) といい「長く美しい山の走り根・山鼻である」と、知里・山田先生が解説している。
 
 この走り根は、冨浦から鷲別にかけて最も鉄道に近い現在の若山町二丁目で終わるが、昔は国道の南側 まで続いていたと思われる。
 
 この高台の西側は現在も富岸町であるが、東側の若山・青葉・緑町も「トンケシ」であった。因(ちなみ)に、 昔のトンケシ川は南高校側から流れる川であるが、現在の富岸川は、前号紹介の通りなので参考に見てほしい。
 
 さて、松浦武四郎の「廻浦(かいほ)日誌」にトンケシは「むかし大村なりしが、津波のために覆没(ふくぼつ) せしと」とあるが、偶然にも知里博士の「えぞおばけ列伝」に、富岸の津波のことが登別の貴重な伝説として 残されているので紹介したい。
 
 
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 「胆振国幌別郡内に、富岸という部落がある。ここは昔、大きなアイヌ部落があって、 六人の首領が住んでいた。
 
 ある時、日高のトヌウオウシという人がここを通ったら、丘の上に兎(うさぎ)が一匹 立っていて、沖の方へ手をつき出して、しきりに何物かを招き寄せるような身振りをしていた。 彼はそこで、トンケシの部落に向かって
 
 オレプンペ 津波が
 ヤン ナ 来る ぞ
 ホクレ キラ 早く 逃げろ
 と叫んだ。
 
 六人の首領たちは、たまたま酒宴をしていたが、いっせいに立ちあがって
 
 ホッ へん
 オレプンペ 津波なぞ
 ヤン チキ 来てみろ
 タプネアカル こうしてやる
 アンノアカル ああしてやる
 
 と言いながら、刀を抜いてふりまわしていた。
 
 トヌウオウシは呆(あき)れて、そのまま一目散に虻田の部落の方へ走り去った。そのとき 彼の背負っていた鞄(かばん)が背中のうしろで一直線になったまま落ちなかったほど物凄(すご)い 速力だった。彼が有珠の部落まで来たとき、はるかうしろで津波のまくれ上がる音がした。 この津波で古い富岸の部落は滅びてしまったという。」物語にある富岸の丘は、前記のキウシト であろうか。兎の大将が仲間を呼んでいたのである。
 
 
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 金成マツさんの“ポンウパシクマ(なぜなぜ話)”に出てくる兎は、今のように小さいものでなく、 鹿のように大きく呪(じゅ)術も得意で悪いことをしたので、人間の始祖である人格神アイヌラックル に懲らしめられた物語である。
 
 また、兎と波の関係は知里博士のアイヌ文学に、別に伝わる「波を鎮める呪法と呪文」がある。 海岸で抱いた赤ん坊をあやしながら岸に打つ波をみせて
 
 オオタカタ 浜辺で
 イセポ うさちゃん
 ポンテルケ ぴょんととぶ
 ポンテルケ ぴょんととぶ
 
 と歌う。海上に白波が立つのを「兎がとぶ」といい、漁にでて沖で兎の話をすると波が出て 海が荒れるので絶対に兎の名を口にしないという伝承も登別地方で語られていた。
 
 津波の物語は、寛保元年(一七四一)渡島大島の大噴火によりトンケシ・ワシヘツ・ホロペツアイヌが 「津波で全滅」と記録した松前藩の「福山秘府(ふくやまひふ)」を松浦武四郎が紹介したのか否か、また トンケシの「兎と津波」の物語もこれらと関係するのかは分からないが真に意味深い伝承である。
 
 さて、富岸の開拓は明治中期以降に本格化するが、富岸小学校や富岸神社の設置も軍事と拓殖を かねた士族屯田との関わりがありこれも興味深いものである。
 
 
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富岸町を訪ねて 「旧屯田兵の開拓地」

 富岸の開拓は、明治初期に片倉家の旧家臣鈴木留吉・西東勇吾らが馬の放牧を行ったが、 平野地は沼沢地で馬は野地眼(やちまなこ)に落ちて足を骨折したり、ホグマ・ヤマイヌの 被害もあり、広大な原始の地で管理も行き届かず、海岸では季節的に漁業も行われたが、 開拓は放置された状態であった。
 
 ところが、明治二十四年(一八九一)香川県人磯野直七さん一家が国道沿に入植した頃から 屯田兵を退役した十余戸の人達が家族と共に富岸に入り、開拓の鍬(くわ)を振るうことに なるのである。
 
 屯田兵制度の歴史は古いが北海道に関しても、近世の江戸時代にロシアの北方進出の 脅威に対し、八王子千人同心百余名が寛政十一年(一七九九)勇払と白糠(釧路地方)に 移住し警備開拓に当たっていたが結果は翌年で十九名の死亡者を出すという悲惨さであった。 また、文化九年(一八〇八)樺太の警備に着任し、同地に屯所した津軽藩士二百五十余人中 百二十人が寒気と食料不足で死亡している。
 
 明治以降も、武力を背景にしたロシアの勢力は、日本人との共有地樺太に進出し日本人の 殺害・放火・暴行事件が相次ぎ、結果的に日本は樺太を放棄し千島全体を日本領として 妥結した「樺太・千島交換条約」で、一応安定するが、ロシアとの対立は 日露戦争終結まで続いている。
 
 
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 とにかく、北方警備と北海道開拓が、政府の思うように進まない状況での苦肉の策が、 軍事と農業開拓を兼ねた屯田兵制度であった。通称「輪西屯田」と言われた兵の入植地は、 鷲別村と輪西村(輪西兵村給与地配当調)で現在の室蘭市高砂町・宮の森・日の出・ 中島町三丁目などの全部、又は一部が鷲別村の行政区にあったので、約九十戸が幌別郡 所属ということになる。
 
 名称の輪西屯田は、最近室蘭屯田とも呼ばれているが、本輪西・港北・中島・輪西地区は 昔からワネウシ・ワニシで輪西村に所属していることによる。
 
 幌別郡内の屯田兵給与地は、鷲別村トーボシナイ(トプシナイで竹が群生している沢の 意味・美園・若草・新生町山側)、イワリカナイ(山を廻っていく沢の意味で新生・西富岸 山手)カロベツ(若山町四丁目西側)、その他札内もあったが、現役・後備役を終えた 石井方淑・竹中源兵衛・井元佐吉・副馬富五郎・篠原兵次郎ら十余名は、富岸に兵村給与地を 与えられ、入植したのは前記の通りである。
 
 ところが、屯田兵の出身地は、気候の温暖な福岡・佐賀・兵庫・愛媛県なので、輪西屯田時代 に少しは寒い気候に馴れたが、当時の富岸の低地帯は、現在の富岸川(ワシベツライバ川) が大きく蛇行し新生・若草・美園町に流れ、泥炭の大湿地帯を形成し農業には適さない土地だった ので、その後巨大な広葉樹林に丈なす笹などの下草やブドウ・コクワ類の太い蔓(つる)が絡み 昼でも暗い密林である富岸川流域の西高地、富岸学田の方が開拓の中心であった。
 
 
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 学田の地名は、札幌を始め全道各地にあるが、小学校や大学などが所有した田畑で 学校運営の資金の代わりに与えらえたものである。北大の前身札幌農学校は六学田をもち 面積は六千ヘクタールもあった。
 
 現在の鷲別支所前通りの鉄道踏切も「学田通り踏切」、美園町から山麓を富岸に進む通りも 「鷲別学田路線」の名が残っている。さて、富岸町一丁目にある「富岸神社」は、屯田兵 退役後富岸に入植した方が中心に明治三十九年富岸三丁目の山麓に建立したもので、中嶋 神社の祭神を守護神としている。富岸小学校も明治二十九年屯田兵村ゆかりの、私立 塵別(ちりべつ)尋常小学校富岸分校として、旧神社下方に開設されていたのも特異な存在であろう。
 
 

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