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郷土史点描(5)   宮武 紳一

登別の川を訪ねて フシコベツ(古い川)

 昭和十年頃、祖父が一時虎杖浜に居住していたので、祖父を訪ねて国鉄幌別駅から 阿与呂(アヨロ・虎杖浜)駅まで幾度か往復したことがある。
 
 登別駅では、昭和八年まで稼働した電車がバスに代ったので既に見られない。
 
 名物、わさび漬けとひょうたん飴の立ち売りの声を後に汽車が出発すると、すぐ北側は 葦原と背の高いヤチハンノキの群落がフシコベツを包む約三十~四十メートルの高台まで続いていた。
 
 川は深い谷地原に被われて見えないが、アヨロトンネル前八十メートルがフシコベツの鉄橋で、 此処だけが柳や葦原に被われた谷地川が見えた。南海岸側も川は深く埋まり水面よりも 葦原の筋となって続いているのが見える。左手がアヨロ岸壁、右手はフンベの岸壁に挟まれた 狭い部分は、既に海岸になり砂原が切れているような部分がフシコベツ川口で海が見えた。 私の知っている昔の伏古別である。
 
 フシコベツは、アイヌ語でフシコ・ペツ、古い川・古くからある・もとの川という意味で、 登別川のもとの川がフシコペツであると知里博士が説明している。
 
 
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 それにしても、近くにある大きなヌプルペツ(色の濃い川)があるのに、フシコペツの 名称が江戸時代の資料によくでるのは、ほろべつ場所と、東しらおい場所・あよろ場所との 境界であったからで、今日の登別市と白老町の境界も港から国道三十六号線までは大凡 江戸時代と変っていないようである。(東蝦夷地海岸図台帳)
 
 寛文九年(一六六九)は、アイヌの英雄シャクシャインが松前藩の抑圧に決起した年であるが、 津軽藩隠密の情報による記録に「のほりへつ小川有り、えともより是まで金子市左衛門 商場なり・・・」と、のぼりへつ小川がフシコベツを指し、室蘭のエトモから登別フシコベツ までが、松前藩士金子市左衛門の知行地としている。
 
 また、田草川伝次郎と言う人の日記に「アイロより山路をフシコベツに至ると小川に境杭があり、 これより母衣別(ほろべつ)領ノボリ別」と川を境界にして杭もあったことを記録している。
 
 フシコベツがどのような川であったのか、を書いた資料として安政二年(一八五五)長沢誠至の前記 海岸図台帳がある。
 
 
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 「七月三日早朝ホロヘツを出舟してフシコヘツに着き、陸に上って測量したが、 川口から戌(いぬ)に一分(西北西)百三十二間(約二百四十メートル)は谷地(やち) 深く、馬に乗って進んだが、少し行くと馬の背も水にひたる程に埋まり、此処から 丑(うし)の方向百九十二間(北北東、約三百五十メートル)の山際までは湿地帯の 樹木と葦原」と現在の登別東町一、三、四、五丁目の低湿地帯は、此のような情景 であったようである。
 
 同じ頃、市川十郎の「野作(えぞ)東部日記」によると「伏古別(ふしこべつ)は、 保侶別(ほろべつ)・白生(しらおい)の境で、登別より此の辺山間の沢地、悪水はき かたき地で葭(あし)・茅(かや)のみ茂った所が多い。フシコは昔というアイヌ語で、 登別の古川であるから昔の川という意味である」と知里博士と同様、昔の登別川が フシコヘツとみている。
 
 次にフシコペツの源流を登別神社西側からみると、常松の沢・秋田の沢(共に住居者 地名)、ルトラシコツ(道がそれに沿って登っている沢)の沢があり、旧八幡神社から 中登別に通じる滝本金蔵の旧道東側に、フシコベツの本流チャラシナイ川がフシコペツエトコ 百ニ十四メートル山側から流れている。
 
 多くの沢川や湧水をもつフシコベツは大湿地をつくり、フシコヤチ・ホロヤチの旧行政 字名が示すように水も悪く登別駅前の開発に大きな影響を与えていたのである。
 
 
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登別の川を訪ねて ポンアヨロ川

 登別市で、意外と知られていない川に「ポンアヨロ川」がある。
 
 何しろ、川口が白老町虎杖浜にあるので無理もない。
 
 登別市内で見えるのは、登別駅から汐見坂を登別温泉方向に進み道央自動車道の ガードを過ぎて、大きく西側に曲る左手登別東インターとの間にやや水量の多い川 がある。これが「ポンアヨロ川」で三愛病院付近では川底まで見える。
 
 川は中登別市街入口の「湯の香橋」で道道倶多楽湖・公園線に沿い、登別ゴルフ場・ 緑風園の南東を流れ、クマ牧場のある四方嶺(五四九メートル)、クッタラ火山外輪 の岸壁に源流をもち登別市内を流れている。
 
 「ポンアヨロ」とは、小さなアヨロ(矢・そこに・群在する)というアイヌ語地名で 川口はアヨロ燈(とう)台南西にある。
 
 この川は、登別側虎杖浜隧道(ずいどう)約百メートルの地点を北西にのぼり、虎杖浜 臨海地区を通り、道央自動車道橋梁を過ぎた辺りで白老町虎杖浜から登別市内に入り流れている。
 
 
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 川が二つの行政区を流れる場合それなりの問題がありそうだ。
 
 江戸時代、ホロベツ・シラヲイ場所、南部藩幌別・仙台藩白老支配の時代、 片倉邦憲支配の幌別群もフシコベツが境界であった。
 
 登別東町壱丁目で川が北進した地点から、やや直線的にクッタラ火山外輪 (アイロ沼)に方向を定めていたらしい。然し川は勝手に移動するので平野地 での境界も落ちつかない。況(いわん)や登別東町高台から北西側は未開の地である。
 
 不明のまま現在の十八メートル赤鬼像・花のトンネル桜並木・日中戦争時は 陸軍省の馬事訓練所で今のユートピア牧場近辺など、中登別にあるポンアヨロ 北東部は白老側であると主張され、幌別・登別総代人の幌別郡側と白老郡との 話し合いが続いた。
 
 結果的に明治三十年(一八九七)現在の登別漁港内にあったフシコベツ川に添い、 前記登別東側一・三丁目から北上して四方嶺、クッタラ火山を結ぶ地点で合意し ポンアヨロ川近辺が境界でないことを白老側も納得し和解決定をしたのが現在の境界である。
 
 
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 登別市と関係深い「ポンアヨロ川」の源流は前記の通りである。中登別町 バス停留場小林商店裏の湧水も、北方探険家松浦武四郎の詠じた「カムイワッカ の水」として、程近い「湯の香橋」の下流でポンアヨロ川に合流している。
 
 江戸時代、登別温泉の硫黄採掘は、寛政九年(一七九七)松前商人の森瀬治兵衛 が南部藩の許可を受けて従事し、その後生島文右衛門、安政五年には近江商人の 岡田半兵衛が温泉道路を開削して幌別まで運び船積みして箱館へ送っている。箱館 奉行の堀利煕(としひろ)・村垣淡路守らが家来を連れ来泉するなど中登別は 幌別場所の主要な道路。
 
 また、江戸幕府の命令で北方警備に当たっていた南部藩は、中登別で官馬の飼育をしている。
 
 明治六年(一八七三)開拓使官営の登別牧場の範囲は、登別から白老町竹浦西方に及び、 ポンアヨロ川は中登別放牧場の格好の水呑み場であった。
 
 大正十四年(一九二五)登別駅から登別温泉まで、電車が走るようになったが、電車 軌道は、登別駅から登別東町一丁目を斜めに虎杖浜臨海地区高台にのぼり、 ポンアヨロ川沿いに北上し、わかさいも本舗登別店北側に出て、通称登別温泉通りを 中登別市街まで川の北側に併行して走っていたのである。
 
 昭和九年(一九三四)登別市の前身幌別郡は、百余の字地名が十五に統合されたが、 現在の中登別町地区ポンアヨロ川北東の大部分が、幌別郡登別村字ポンアヨロの 字名であったのも川名から頷(うなず)くことができる。
 
 
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登別の川を訪ねて ワシベツ川(波立つ川)

 鷲別岬は標高百七メートル、此処(ここ)には登別唯一の貝塚遺跡があり、 江戸幕府直轄時代の狼煙(のろし)場、安政二年(一八五五)以降は異国船 見張りの南部藩警衛番所跡、明治中期は幌別郡(登別市)三村と室蘭郡輪西、チリベツ ・チマイベツ村を統合した六村の「鷲別戸長役場」が設けられた名立たる所である。
 
 この鷲別岬(鯨岬)の東北側真下に川口をもち、鷲別岳(室蘭岳)ふところ 深くに水源をもって流れているのが「鷲別川」である。
 
 流路延長が十一・三キロ。幌別川十七・六キロに次ぐ登別市内の大きな川である。
 
 現在、上鷲別富岸川・上鷲別川・室蘭市の水元沢川・奥鷲別川などが鷲別岳からの本流 に合流しているが、日本製鋼所・室蘭市に送水しているので見る通りの水量である。
 
 現在の富岸川は、昔から独立した川のように見られているが、実は明治の中頃までは 「ワシベツライバ川」と言って、富岸・新生・若草町など鉄北の低地帯を流れ、鷲別駅 北東鉄道線路近くで鷲別川に合流していたので、今よりも随分と水量は多く、 鉄北は大湿原地帯、鉄南は野性の鷲別川が大きく蛇行して広がっていた。
 
 
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 さて、鷲別川は勿論(もちろん)「わしべつ」の地名から命名されるが、 記録に見えるの約三百二十年前である。
 
 寛文九年(一六六九)アイヌの英雄シャクシャインの蜂起(ほうき)は悲惨な 結果に終ったが、松前藩の対処方法を密(ひそ)かに調査した津軽藩の資料 「津軽一統志」に「わしへつ、やち也(なり)、川有り、シシャインの持分、 家五・六軒」と記されているのが最初であろう。
 
 その後、松前藩が幕府に献上した地図(一七〇〇)に「わしべつ」の地名がみえ、 宝暦年間(一七五一~六三)の蝦夷地の村名に「わしへつ・ほろへろ・のほるへつ」 天明元年(一七八一)の「松前志」に「ワシベツ・ホロベツ・ノブルベツ」などと 「わしべつ」の地名も次第に明らかになってくる。
 
 次に「わしべつ」は此(こ)のように江戸時代からの地名であるが、語源はどうであろうか。
 
 漢字「鷲別」からの印象は「鷲・川(ペツ)」でむかし鷲別岳の山奥に入らなくても、 羽根を開くと二メートル余もある「おおわし」が数多く棲(せい)息していたし、 古い文献にも鳥の「わし」を意味したものがあった。
 
 
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 江戸末期の「蝦夷地名解」にアイヌ語で昔「カハチリペツ」と言ったが、 和人が和語とアイヌ語を交えて「ワシヘツ」と唱え「カパチリは鷲」、 「ペツは川」で「鷲川」と書いている。それが後の開拓使発行の「北海道志」 に「鷲別村は鷲別川の東にあり、海に面してカハリベツとよび鷲の意味である。」 になり、昭和十三年発行「駅名の起源」では「アイヌ語カパチリペツ、鷲のいる 川」と本当らしく書いている。
 
 異なった説には、アイヌ語の立場から、上原熊次郎の「蝦夷語地名解」に 「わしべつはハシユベツなり、此(こ)の川尻へ流木の寄る故地名にする」 と言い永田方正の「北海道蝦夷語地名解」は「わしべつはハシユペツ・柴川」と 訳している。いずれにせよ「谷地に生育する低い木、灌木(かんぼく)の群生する川、 小さな雑木の柴の川」などの意味である。ところが、アイヌ語の語源研究を進めた 知里真志保博士は、幌別で生活したジョン・バチェラー博士の「わしべつは波の川・ 河口の大波の川」であると称(とな)えた説から語源は、チウ・アシ・ペツ(波・立つ・ 川)で、チワシペツになりチが前略の形で「ワシペツ」になったと決定されている。
 
 鷲別橋から川口・海の方を見ると、上げ潮や波の高い時はぐんぐん川口から上流に波が 入り込み「波立つ川は語源どおりだなぁ」と頷くことができる。
 
 
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登別市の境界 ワシベツ川

 鷲別川は、美園町三・五・六丁目で室蘭市と境界を分けながら、室工大の奥、日鋼鷲別水源地を 過ぎ渓流となり、九百十一メートルの鷲別岳(室蘭岳)山頂東側に源流をもって流れている。
 
 河口から美園町一丁目までは勿論(もちろん)登別市内を流れているが、室蘭との境界は歴史的に 複雑である。
 
 鷲別岬突端から山頂を縦断(鷲別神社裏)丘陵及び国道に沿って(現国道から中央卸売市場方向の 道が旧国道であった)約四百メートル、やや東に曲って丘陵に沿い鷲別川にでて川を遡(さかのぼ)り 鷲別岳に至る、と規定されているのが現在の境界で、このように決まったのは九十二年前の明治三十四年。 ところが登別市の前身幌別郡設置は明治二年(一八六九)で、室蘭市との境界も翌年決められている。 三十余年後に再度改めたのも理由がありそうなので考えてみたい。
 
 もともと、江戸時代の境界は大まかで、松前藩時代「エトモよりノホリベツまで金子市左衛門の商い場」 と一つ場所であったり、ホロベツとエトモ・モロラン場所が独立しても、場所請負の商人が両場所を 合わせてもった時代も多かったので、場所の境界はさほど煩(わずら)わしくなかったようである。 然(しか)し境界が無い訳ではない。
 
 
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 文化六年(一八〇九)の「母衣別(ホロヘツ)場所様子大概書」に「母衣別 は鶴別(ツルヘツ)まで二里十七丁、フシコヘツまで二里二十丁」と書かれ、この時代 は室蘭のチリベツが境界であった。
 
 ところが、安政三年(一八五六)の資料になると「チリベツは、ホロベツ・モロランの 古い境界で、当年チリベツから坂を五・六丁上った所に新境界があった」と記録している。 約六・七百メートルである。
 
 此の地点は大よそ文化女子大室蘭短大西方の尾根付近で、知利別や室蘭の湾、鷲別の 鉄南・鉄北、鷲別岳方面も一望することができ、鷲別岬まで緩やかな丘が続いているのも 見えるので此の辺りを境界にしたのも頷(うなず)ける。
 
 更に「川有り、幅三・四間、橋あり、ライバという也(なり)、当年是(これ)より 七丁上なるホロヘツ・ムロラン境を此処(ここ)に移したるとかや、標柱あり」となっている。 これは美薗町と室蘭市高砂町に流れる鷲別川である。
 
 
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 このように境界を移動したのは、高砂町側に南部家の飼料場を設けたことにも 理由がありそうだが、北方警備の中心南部藩出張(ではり)陣屋が構築され、エトモ岬 、室蘭岬(崎守神社前)にニラミ場を設け、追直に遠見番所・鷲別岬に警衛番所を 建て、勤番の武士は持ち場一帯を警備する。チリベツ東側の尾根の境界付近から、 緩やかな丘伝いに鷲別岬の警衛番所へ直行する野道も整備された。この道が鷲別側 からの「ルーパロ・道の入口」で「東蝦夷日誌」にみえる。境界移動も警備の統轄からであろうか。
 
 海岸側は約十年前の資料に「ワシベツに至る、川有り、川の両面エトモ・ホロベツの 境なり」と記録されている。
 
 明治二年、片倉家が幌別郡の支配を命じられた時、東は登別・虎杖浜の境界フシコベツ としたが、西の室蘭側に境界を定めていないのは、経過として不明な点があったからでしょう。
 
 明治三年、片倉家は境界の範囲を願い出て、室蘭郡支配の石川家代表と立ち合い、 開拓使官吏のもとで決定することになった。
 
 石川邦光の重臣、添田竜吉の記録によると、「明治三年三月、天朝様よりフシコチリベツ川 中央を以て双方境界と定め・・・云々」。即ちに輪西町南高台・東室蘭駅、室工の北側楽山、 室工大の西側天神山を結ぶ南東側の凡(すべ)てが鷲別村に編入されたのである。それにしても 霧の日の測定や官吏の横暴さで、しこりを残す結果となった。
 
 
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登別市の境界 片倉家旧臣ムロランを拓く

 今から約百二十年前、北海道の第二次移住問題で、家臣団との折り合いがつかず、室蘭郡の 支配を解除された仙台藩角田の石川邦光(二万一千石)に代り、幌別郡の片倉邦憲(くにのり)が、 現在の室蘭市幌萌・本輪西町より東・南の室蘭の大部分を支配するようになった。
 
 それにしても、室蘭は港の奥が深く北海道でも二つとない天然の良港であるから、港を開くのが 第一であると論じた片倉家家臣らは、港の調査を兼ねて、漁港を開こうとし、 幌別在住の東海林栄蔵に命じて調査に当たらせた。
 
 東海林は明治三年(一八七〇)八月、アイヌの人達五人を連れて舟で鷲別岬を過ぎ、室蘭 トッカリショ(アザラシ岩)に泊り、翌日室蘭港に入り、シツクシ(祝津町)に草葺(くさぶき) の小屋を建て、漁港の中心はトッカリモイ(緑町。海岸町付近)と定めて高橋 徳兵衛なる者に貸付け漁場として与えた。
 
 続いて、鷲別村からトッカリモイ(チカ・入江)へ陸上道路を開削しようと、旧家臣河田新太郎 に命じ、片倉家移住者住人と、アイヌの人達二十人を募集し、馬と人の通れる程の山道を作らせたのである。 この路は鷲別からイタンキ大通りを汐見トンネル(栄高校南)をう回し鶴ケ崎中学校の上に出て、大凡 (おおよそ)現在の室蘭観光道路を御崎町に出ている。何れにしても室蘭半島を貫く最初の道路で、 後に説明する「札幌本道」の基本になっているから大したものである。
 
 
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 また、明治三年十月、鷲別村字ペシポッケ(崖下の意味)に駅逓常備馬四百余頭以外の 野放し馬を収容する放牧場(輪西・みゆき町)を造り、南西は室蘭郡・幌別郡との境界 ウクシパウシ(大沢町三丁目)、南東はイタンキのタコ沼方面の大谷地(東町)に馬柵を設け、 看守番屋をつくり、鷲別村移住の須田弥平左衛門・半沢蔵松らが管理に当った。
 
 このように、幌別郡(登別市)に入植した片倉家家臣らは、加増された室蘭郡の開拓に尽力 するのであるが、明治四年の廃藩置県をもとに、大名などの領国支配は廃止され、片倉家の 幌別郡・室蘭郡の支配地も開拓使のもとに返上し、領国の夢も消えてしまった。
 
 それにしても、東京から北海道を結び、室蘭から札幌と結ぶ「札幌本道」は最も重要な 陸上の高速道路で、我国最初の「洋式馬車道」として明治五年着工されるが、アメリカ人技師 ワーフィルドは、室蘭を一望できるホシケサンペ(測量山)にのぼり、三角測量の基点を定めて 測量し、第一番の杭を打ち込んだのがトキカラモイ。港を整備し初めて船着き場の桟橋 (さんばし)が造られたのもトキカラモイであった。
 
 そのトキカラモイは片倉家家臣が苦労して開拓した、室蘭郡最初の農漁場であり、札幌本道 は彼らの開削した山道が原形であった。
 
 
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 官舎・倉庫・旅館・病院や道路の開設のために土地は収容され、日野愛憙が 役人として残る以外は札幌郡に引き上げ、アイヌの家二戸も、米二俵で移転された。
 
 札幌本道建設のため、鷲別村ペシポッケ牧場も廃止されるが依然として、現在の 輪西・みゆき・大沢町三丁目などは幌別郡鷲別村の行政区域内であった。
 
 また、室蘭には輪西屯田の名称で、明治二十年(一八八七)、二十一年に、 屯田兵二百二十戸の入植をみるが、現在の高砂町・宮の森・日の出・中島町三丁目 の屯田兵舎約九十戸は行政区としては幌別郡鷲別村に有りながら、資料や活動跡が 全くないのは残念である。
 
 屯田兵制度は、兵部省(後の陸軍省)管轄なので超法規的措置と思うが、幌別郡・ 室蘭郡の先住の開拓移民とは、必ずしも容認された状態になく、反目・確執があって、 行政上の不都合が現実的なものとして残されていたようである。
 
 

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