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郷土史点描(3)   宮武 紳一

登別の開拓と動物たち その2「ウマとのかかわり」

 明治二年(一八六九)幌別郡(登別市)は仙台藩家臣片倉邦憲の支配地になるが、移住した当時の 郡内の馬数は会所の所有馬だけでも四百頭余いたようで、特に会所(幌別町一・二丁目)の裏側、来馬川 周辺の原野に野生化した馬が相当数生息していた。
 
 大量の野生馬は、大群をつくり、移住者が苦労して開墾した畑に簡単な馬除垣をたちまちに けり壊して乱入、畑作物を食い荒し駆け回る。大勢で追えば逃げるが止めると来るという有様。 普段おとなしいと言われる馬も、野生化し集団化して数百頭が群走する様子は本当に恐ろしい、 とも記録している(丈草の記)
 
 入植当時、時間も資金もなかった片倉家家臣団は交通・通信・運輸の手段、農耕・林業など登別の 開拓には絶対に良馬の飼育が必要であることを話し合い、丈夫な牧さくで取り囲む放牧場を 作ることになった。
 
 このようにして翌三年、鷲別村字ペシポッケ(崖下の所の意味で室蘭市輪西町、当時は鷲別村に 編入されていた)牧場に人・荷物を運ぶ駅逓馬四百余頭以外の馬を移し、管理所を設け、特に夜間は 管理人を二人置き馬の脱走を防ぎ、産馬係は南部から買い入れた良質の牝馬五頭で野生化した 牡馬から生まれる馬の改良を計り、良馬の生産にも努力した。
 
 ところが、明治五年(一八七二)室蘭港の開港と、同地から札幌に通じる札幌本道(国道三十六号線 に相当)を開道することになり、牧場通過のため開拓使から牧場廃止の命令がだされ、俄かに幌別村 札内原野(千歳町・冨浦丘陵地)に移される。
 
 
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 また一方、当時は登別は道内でも馬の産地、馬の飼育に適した所とされ明治六年 北海道開拓使の官営牧場として「登別牧場」が開かれ脚光を浴びる。有名な七重 官園から牧馬が、翌年札幌方面から公用馬二百三十頭が冬飼いのため移され、牧場 取り締まりに片倉家旧家老斎藤理左衛門(禄高六十石)が任命された。
 
 幸先の良い登別牧場であったが当時登別地方は積雪多く、また牧場の範囲が白老郡 竹浦町西南のメップ川地方に及ぶと、谷地・沼・川も多く地形も悪い。それに片倉家や 開拓使の管理する良馬より野生化した馬が当時千七百頭余も群せい(登別町史)していたと 言われ、野生馬対策と広大な牧場の管理面の問題で良馬産出も難しいと判断されたのであろうか。
 
 明治十年(一八七七)登別牧場廃止、千歳の漁牧場へ明治十一年には日高の新冠牧場に 官営牧場が移されることになるが、登別牧場廃止後も登別牧場跡や来馬・富岸・鷲別来馬 (新生・若草・美薗町)などで飼育が進められ、民有馬は八百余頭に及んでいる。
 
 道産馬は、本来南部系の馬が、厳しい冬の北海道という環境下で自然淘汰されながら 強い馬だけが生きて繁殖したものである。寒気・粗食に耐え持久力も抜群、小形であるが 小回りがきいて当時の開拓者には貴重な存在であった。
 
 しかし、乗馬や重量物の運搬に酷使するようになると形も良く大形で馬力のある 外来馬にかなわなかった。開拓使は良種類の牡馬、外国種も貸しつけて交配させ、 道産馬は不良馬として牡馬の去勢を奨励したので馬の多い登別では大変だった。 去勢をしたら死んでしまう、いくら駄馬でも大事なものまで切りとることもあるまい、 との同情論から背の低い道産馬はのりやすいが改良馬は背が高くハシゴが必要だ、という 反対論もあったらしい。道産馬の受難の時代が続くのである。
 
 
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登別の開拓と動物たち その3「ウマとのかかわり」

 登別でも馬の改良を急速に進めたのは日露戦争の時からである。
 
 戦争のための兵器、軍需物資の大量輸送、乗馬用に大形で力の強い軍馬が 求められた。然し国内に頑強馬が少なく、戦争遂行上の大きな支障になったので 軍指導で改良が強化され、軽種馬はアラブ・サラブレット系、重量種馬(輓馬用) はフランス系のペルシュロンなどが導入され、大形で力強い馬に急変するようになる。
 
 登別も農業者、一般飼育者が優秀馬の生産に意欲を燃やし、毎年馬の品評会を開き、 競馬場も千歳町の市営陸上競技場付近に設け、祭典行事に町の中を競馬する という盛況ぶりであった。
 
 家畜商人が良い馬を求めて登別に来るようになると「登別馬」の名も一層高まった。
 
 日本の大陸進出とともに軍用馬の需要は増大し、登別からも改良された優秀な農耕馬が徴用 されていくことになった。昭和六年(満州事変)の馬の頭数一三一一頭、昭和七年( 満州国建国)は一一六五頭とやや減少しているのも、軍馬徴用のせいである。
 
 昭和十五年、陸軍は中登別に馬事訓練所を設け軍人階級最高の陸軍大将小堀某(ぼう)を派遣し 軍用馬育成を計ったので、此の頃も町中馬の飼育に意気盛んであった。
 
 
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 昭和二十年の敗戦で、軍の馬事訓練所は農林省の家畜衛生試験所となるが、 これも札幌市の羊ヶ丘へ移転する。
 
 戦後、馬の生産は低下し食糧難による馬の密殺が続き、一頭が約十万円の 高値で売られるなど、頭数は激減する。
 
 農業、運搬業、他の産業部門で貴重な動力源の馬も戦後農業の近代化、自動車 の普及など出番がなく登別も馬車、馬橇の姿、「馬追い」の声も遠いものになった。
 
 北海道で、馬肉は食用として馴染みは薄いが九州では「馬肉がなければ正月の 馳走でない」と言う所も多い。
 
 捕鯨王国日本にとって捕鯨の禁止は、猶一層、鯨肉に代って馬肉の食用化が進んだようである。
 
 昭和六十三年度、北海道からも移出し、食用馬に育成された九州の馬肉生産は約 四千トン。同年外国(アルゼンチンなど)から輸入された馬肉は五万六千トンであると言われる。
 
 
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 鯨肉に代った馬肉が、東京や他の大都市でグルメ時代とは言え大消費されて いる状況は、ドサンコにとり腰が抜ける程の驚きである。
 
 明治の一時期、開拓使はドサンコ撲滅論を唱え、馬肉普及法を普及させ、ドサンコを料理 しようと指導した。ところが開拓者の反応は「北海道では無数に生存していた鹿を 全滅せしめ、今は馬を食い尽くそうとしている。遠からず北海道に馬鹿(ばか)は 居なくなるだろう」と言うほどの馬への愛着ぶりであった。
 
 登別の開拓と言えば、開拓者の汗と血の滲む苦闘が語られるが、開拓者を支えたのが 馬の存在で馬の苦難の歴史でもあろう。
 
 平成二年の統計によると、登別の馬飼育戸数十九戸、百五十七頭で、その中に北海道 和種馬(ドサンコ)も二頭いる。旧のようにならずとも心の救われる思いがする。
 
 
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登別の開拓と動物たち その4「シカとのかかわり」

 むかし、登別の自然は市内を流れる川が大きく蛇行(だこう)し、川岸も 深い樹草に被(おお)われ、三日月湖や葦(あし)の茂る大湿原をつくり、沖積土 の肥沃地はニレ・ヤチダモなどの広葉樹林が、丈なす下草とブドウ・コクワなどの 蔦(つた)を絡ませながら、昼なお暗い密林をつくっていた。
 
 山麓(ろく)・高丘地・山岳部にかけてカシワ・ナラなどの疎林、針・広葉樹 の原始林と続き、下草の笹原で深く被われていた。
 
 その自然林の中に、ヒグマが横行し、シカが群れ、キツネ・エゾタヌキ・エゾリス などが樹間を渡り歩き、タカ・ワシが巣をつくり、トンケシ・ワシベツの湿原にもツルが 舞っていた。原始の密林地帯を構成した登別地方は、野生動物の宝庫でもあった。
 
 一般的にシカを「ユク」と言うが、知里博士のアイヌ語で“ユク”と言うのは本来「獲物」 の意味で、食料としての獲物では圧倒的にシカの数が多かったので、獲物(ユク)の 代表「シカ」が「ユク」になったと言う。
 
 登別地方にも、アイヌ語「ユク」の地名が二か所残されているほどシカは沢山(たくさん)生息していた。
 
 
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 古くは登別の遺跡から、Tピットと称される長さ二~三メートル、深さ・幅とも 約一メートルの溝状の穴が発見されているが、動物を獲る落し穴、特にシカの 落し穴(脚の骨折)と考えられるし、登別唯一の貝塚のある鷲別遺跡跡からシカの 骨が発見されている。
 
 江戸時代の資料に、天明年間(一七八一~一七八八)の幌別場所の産出物は、 干しサケ・干しタラ・シナの木の縄・サケ秋味とともにシカの皮が運上され、 安政四年(一八五七)もサケ・イリコ(煮たナマコ)・フノリ・イワシなどの他、 シカ皮が同様に産出されている。明治元年(一八六八)ホロベツ場所産出の見積高は、 シカの皮五千枚、シカの角五百貫(一八七五キロ)が計上されている。数はやや 誇張的だが、おびただしい程のシカが生息していたことがわかる。
 
 明治三年(一八七〇)幌別郡(登別市)に移住した片倉家家臣らは、食糧がなくて 困りアイヌの人達に頼んでシカ狩りをさせたところ、六百四十頭余の大量のシカを 捕獲したので充分に栄養をとることが出来た。また翌年、函館から食料を満載した長吉丸 が座礁し、再び食料難となり、家臣らはアイヌ人の協力で狩りをしたが三日間で 二十頭余であった。厳しい自然に立ち向かうアイヌ人の素晴らしい狩猟技術が分る。
 
 それにしても大変な数量である。シカ狩りは、登別周辺・冨浦岬・オピラカシ (片倉町)・鷲別岬など崖を利用した「シカ落し」があり、コタンの共同狩猟である。
 
 ガケ下に男達が槍・弓・棍(こん)棒などを持って物陰に身を忍ばせて待っている。 よく訓練されたアイヌ犬を連れた熟練者に女・子供まで平坦地で草を食べているシカを 遠巻きにして少しずつ輪を縮め、崖の方に導いて一斉に叫び声をあげ、犬をけしかける。 驚いたシカは逃げ場を失い崖下に転落するのを捉(とら)えるのである。
 
 同じように深い川や泥沼に追い入れたり、一・二頭を海に追い出し、弓・槍・棍棒で 倒すことは、胆振、日高の海岸地方で盛んに行っていた方法である。
 
 
 
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登別の開拓と動物たち その5「シカとのかかわり」

 登別に夥(おびただ)しい程のシカが居たことは「その4」で紹介のとおりで、 当時の人達の衣・食生活は、多くのシカに依存していた。クマもシカを食べ、オオカミも シカを追って生活し、まるでシカは大地や自然の川のように当然あるものと されていた。そのせいか、おいしい肉や皮を届けてくれるシカを「鹿神(ゆくかむい)」 として祭る地方はシカの少ない宗谷地方だけと言われている。(更科源蔵のコタン生物記)
 
 元来、野生の草木を食べるシカは、夏は全道に分布するが冬の日本海側は豪雪地帯なので 下草を得られず、太平洋岸の胆振・日高・十勝・釧路の南東側太平洋岸に移動してくるので、 登別地方も特にシカの生息地であった訳である。
 
 明治(一八六八~)になりシカ猟に鉄砲を使うようになると大量に殺戮(さつりく)し、 明治八年まで毎年六万枚のシカの皮が全道で産出され主にフランスに輸出していたようである。 登別でも札幌本道開設後(明治五年)郡内の山中に入ってシカ猟をする者が多く猟師、商人が 多数入山し賑わったが、乱獲に対する処置として狩猟に鑑札を渡し狩猟期を定め課税した。
 
 当時、登別居住者でシカ猟に使う火薬の量は、大体四十五キロというが、開拓従事者には 農業開拓と馬の飼育が本命でオオカミ、ヒグマ対策に当てたようである。
 
 開拓使は、シカがまだ減少する様子がみられないので明治十一年(一八七八)石狩郡 船場町にシカ肉の缶詰工場をつくり(植苗村美々に移転)シカの内臓と血液から火薬原料 の硝石をとるという熱の入れようであった。登別で狩猟されたシカも商人の手によって 送られ缶詰にされたに違いない。
 
 
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 然し、翌明治十二年に大異変が起こった。
 
 この年は全道的に、特に太平洋岸も稀(まれ)にみる大雪が積もり南下したシカも深雪で 思うように移動出来ず、笹などの下草を食べられずに餓死するものが多く、 そのかず数十万頭、また人里に出ては捕獲され殺された。天明四年(一七八四)にも 同様の豪雪で大量のシカが死亡。アイヌの人達も食料に窮し、三百から四百人餓死した という記録(東遊記)以来の出来ごとである。
 
 七万六千余頭のシカの缶詰工場の生産も、明治十三年は僅(わず)か二万余個となり同年休業になっている。
 
 登別地方で、この冬死んだ数の記録はないが春になるとシカの死体が腐り、登別市内の 川や沼沢地は悪臭のため川水が使用に耐えられぬ状態が続いたと伝えられ、明治十四年・十五年 四国讃岐(香川県)から移住開拓した人の記録では、大木を倒し下草を刈り 耕作しようとしたら、シカの骨や角がごろごろ転がり出て邪魔になった程と説明している(丈草の記)。
 
 とにかくシカにとっては、自然が与えた大悲劇の年であった。
 
 次に、登別にシカが多く生息していたという謂(いわれ)を地名などから考えてみたい。
 
 登別温泉は、江戸から明治時代に硫黄山、登別硫黄山、温泉場、湯の滝、滝の湯などの名称も あったが、明治初期「鹿の湯温泉」ともよばれていた。
 
 古い資料では、松浦武四郎の三航蝦夷日誌に「奇とするは、獣鳥類ともに此処に 来り、沐することは度々見侍ると・・・云々」と記し、獣や鳥が登別温泉川で湯浴(ゆあ)み するところを幾度も見ている様子をアイヌの人達から聞いて、これは本当だ、と納得している。 北から大移動したシカの大群も、自然の霊感によりほどよい温泉川の中で傍ずみ、休息をし傷を療していた。
 
 
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登別の開拓と動物たち その6「シカとのかかわり」

 登別に「登別温泉唱歌」という珍しい歌が残っている。
 
 現在、知る人は少ないが温泉のまる美屋の小林くにさん(七十五歳)に伺うと、 子供の頃お母さんがよく唄っていたということである。
 
 帝国鉄道室蘭線 上り下りの汽車の旅
 ランボッケ隧道(ずいどう)を 潜(くぐ)りて早くも登別
 北海一の温泉場(東洋一)  此處(ここ)より降りて一里半
 湯あみがてらに山道(やまみち)を 客待ち馬車へと乗替(のりか)えぬ
 駅より走(は)せて十余丁 汐見坂より見渡せば
 (中略)
 越ゆる断崖絶壁を 横ぎり走る三四丁
 左に深く鹿の澤(さわ) 流れもけわし薬川(くすりがわ)
 此處(ここ)ら邊(あた)りは紅葉谷 七重の坂や赤岩(あかいわ)も
 (以下略)
 
 歌は、明治三十三年(一九〇〇)の鉄道唱歌によく合う。
 
 歌詩をみると、客待ち馬車とあるが、滝本金蔵さんが客馬車・円太郎馬車 (昔豆腐屋さんが使った角笛のようなものを吹き鳴らして走った)が通ったのは、 今から百年前の明治二十四年(一八九一)、歌詩の汐見坂は明治三十四年に完通 したので、この後の時代の歌ということになり、小林さんのお話と年代が合うようだ。
 
 
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 登別温泉唱歌については後日述べたいと思うが、歌詩の中で「左に深く鹿の澤」と 表現した文は、現在の紅葉谷の道路ではなく登別温泉中学校の方から下りる旧道から 谷を臨み見た情景である。この沢が昔から「シカの路(みち)」であったことが語り 伝えられ忠実に「シカの澤(さわ)」として地名に残され歌詩に表れなかったものと思われる。
 
 この「シカの澤」を実証するのが山田・知里先生の「幌別町のアイヌ語名」で、クスリ エサンペツ川(地獄谷・大湯沼などから流出する温泉川)添いにシカの名のついた地名が 二例残されている。
 
 シカが何時も越える場所の意味の「ユクテルケウシ」と、シカが何時もそこへ入って のたうちまわる所の「ユクペサウシ」である。
 
 ユクテルケウシは、前記紅葉谷から温泉の方に下った所で、現在の登別温泉町無番地、 戸数四・五戸、温泉唱歌の「鹿の澤」のある地点、またユクペサウシは、新登別大橋から 下流をみると千歳川浄水場があり、カルルスから流れる千歳川(ペケレペツ・明るい川) と色の濃い温泉川の合流地点である。此処から温泉川を少し上ると右手の丘の上に低湿地帯 があって、春から夏にかけてシカが水を呑みに集まると昔から言われる所で、ユクペサウシの 地名は湿地に足を入れたシカが深みに嵌(はま)り、もがいている状態を言ったのであろう。
 
 
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 道内にはユク(シカ)に関わる地名が多い。天人峡の勇駒別(ユコマンペツ・ シカが山の方に行く川)、鹿越・鹿追(シカ狩りをする所)、久保内(クオナイ・ 鹿をとる弓を仕掛ける沢)、ユクトラシ(シカの登っていく所)などである。
 
 約百三十五年前、虎杖浜(アヨロ)から夜道をきた島義勇(しまよしたけ)は、 クマ・シカの声を聞きながら登別温泉に到着、温泉川の渓流と山静かな月夜の中で 「シカの鳴き声谷間四方に響き、面白き景色なり」と著書入北記に記録している。
 
 筆者も冨浦から中札内へ行く途中、見事な角(つの)をもった牡シカ四頭の群を 見たのは五月末のこと、それにしても登別にシカに関わる資料やアイヌ語地名 が残っているのは特筆に価することである。
 
 

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