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郷土史点描(15)   宮武 紳一

「郵便前夜」その1

 明治6年(1873)札幌本道が、北海道開拓の先駆けとして開設しましたが、ただちにアメリカの西部劇にでるような4頭だての 荷馬車が疾走するという勇ましい状況ではなかった。
 
 相変わらず、荷物を背負って歩く人々や、馬にそのまま荷物をつけて運ぶ駄馬方式が通常であった。
 
 北海道開拓に必要な交通運輸の発展に、開拓使長官黒田清隆が明治11年にロシアに渡り、ロシア型の乗馬車・乗ソリ・馬具を購入。 またロシア人技術者を雇い入れて北方型の交通整備にのりだし、札幌本道の我が町登別にも乗馬車が走るようになったのは明治14年以降 のことで、日本の交通・運輸制度は欧米に比べて非常に遅れていたことがわかる。
 
 理由はいうまでもなく江戸幕府の鎖国政策や大名の統制にある。
 
 大名が大量に迅速に、人や物資を運搬することは軍事的に危険なので、道路幅も狭く、関所を設け、宿駅をつくり、不審な旅人は人別 改めなどで調べる。江戸防備の目的から、東海道を横断する河川に橋を架けずに、渡船・徒歩で渡らせる。川渡し人足が、肩車や台座で運ぶ 「大井川の渡し」などは有名だが交通不便も甚(はなは)だしかった。
 
 
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 海上輸送も、3代将軍徳川家光の寛永令の規定で、海外渡航の禁止、500石(約75トン) 以上の造船を禁止したが、幕末になりロシアやアメリカの大型船・蒸気船をみて驚嘆し禁止令を 解いたものの、風まかせの本柱の帆船は大型船の千石船といっても150トン程度のもの、 動力船でないので太平洋岸航路は危険で航海は困難を窮めていた。
 
 仕方がないので、イギリス・アメリカ・ドイツなどから、大型船を借りたり、小型動力船を購入 したが、例えばイギリス蒸気船テールズ号を品川から函館・根室や宗谷まで借用した運送契約金 が1万2千500両で、1両を約3万円としても3億7千500万円という莫大な額に 政府は目をまわして驚いた。
 
 明治初期、仙台・四国方面から登別に移住したときに利用した汽船の庚午丸(こうごまる)・ 辛未丸(しんびまる)はイギリス製、稲川丸(いなかわまる)は清国製、矯龍丸(きょうりゅうまる) はアメリカ製で、すべて中古の動力船であるが、北海道の開拓に太平洋岸航路は欠くことができないので 政府は高額な値段で購入している。
 
 陸上や海上交通の発達が遅れているので通信業務も不備であった。
 
 幕末に、箱館奉行所から江戸に御用状(書状)を送ったが往復に60日余もかかり、緊急事態に間に合わない。 飛脚(ひきゃく)・駅伝に頼むといっても、通信・運輸の系統が国内的に確立していないので、役所の 通信でも、旅行者に書状の持参を頼む「幸便(こうびん)」に頼っている状態なので遅れるのも当然であろう。
 
 
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 北海道の開拓を進めるために移住者の利便をはかり、人や物資流通のための交通 ・運輸・通信の強化は必然的な要求であった。
 
 このような中で、欧米の通信や運輸を視察して、近代的郵便制度創設に着手したのが 新潟県出身の駅逓(えきてい=宿場から宿場へ荷物を送る役目を司どる上級役人 )の前島密(ひそか)で、イギリスのポストから「郵便」の名称や「切手」の名称を つけ、遠近を問わず切手の全国均一料金制を採用し、飛脚にかわって西洋風の郵便制度 を、官営で発足させた優れた人物である。
 
 北海道で、初めて郵便機関が開設したのは、明治5年7月の函館郵便役所で、函館から 森、森から船で室蘭・幌別・千歳・札幌・小樽や、函館から福山・江差・熊石方面などに 道内22カ所の郵便取扱所が開設されるようになる。
 
 登別市内では「幌別郵便取扱所」が、現在の幌別町1丁目11番地付近に開設し、駅逓取扱人 の松谷金弥が郵便取扱役に命じられた。
 
 
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神の山 カムイヌプリ

 幌別の町から、西北側をみると両袖を開いたような美しい山がそびえている。
 
 幌別駅から富士町の幌別鉱山軌道跡を登別高校・郷土資料館の辺りまで進むと、眼の前の 山は大きくそそり立ち、行く手を阻(はば)もうとしているように見えるが、 これが高さ750.1メートルの神の山「カムイヌプリ」である。
 
 「カムイヌプリ」とは神の山という意味で、道内では神秘的な湖、摩周湖の東南壁に突き出た 荒々しい火の山のカムイヌプリや日高の浦河町・三石町の北方、日高連峰に神威岳(かむいだけ)などがあるが、 共に超人間的で神聖な神の山を意味している。
 
 幌別川の入口、ポロペツプトや川岸、ポロペツ海岸にあったコタン(部落)からみえるカムイヌプリは 秀麗(しゅうれい)で際立って高く、神霊が存在して、神が動植物に姿を変えて、ポロペツコタンの人々に 自然の恵みをたっぷりと与え、多くの幸運をもたらす「神の山」としてアイヌ文化時代から 呼称されていたものであろう。
 
 事実、カムイヌプリの山麓で平野地は自然の宝庫で、衣服を提供するオヒョウ(アッ・ニ、紐をとる木) やツルウメモドキ、焚火になるハルニレ(チキサニ・我らがこする木)、弓矢になる木、家造り、丸木舟や 道具を作る木、食料を与え生活を支える樹木・野草が多い。
 
 
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 カムイヌプリの奥の源流から多くの支流を合流し豊かに流れる幌別川は、 秋はサケの大群がのぼり産卵し、チライ(イトウ)、ウグイ、ヤマメなどの魚類や、 カムイの深い山・川の周辺の林には、オオカミ・ヒグマ・シカ・テン・エゾタヌキ・ カワウソ・ウサギなど、鳥獣類が多く自然の宝庫であった。
 
 登別地方では、カムイヌプリやワシペツ岳・ライパ岳などの山の上手(かみて)を 支配する神はオオカミ神で「ヌプリパコルカムイ」の尊称で呼ばれ、山の中腹から 下手(しもて)を支配する「キムンカムイ・山の神」がエゾヒグマであった。もちろん、 本州地方のホンドオオカミや月の輪グマのように貧弱でなく、大きくて堂々としている。
 
 ポロペツコタンの人々は、自然の豊かなカムイヌプリを仰ぎ見てその日の狩猟の方向を 定め、豊かな一日であることに祈りを捧げ、男たちはカムイヌプリの懐(ふところ) の中に、神の恵みを求めて入り込んだ。
 
 明治3年(1870)白石城主の片倉景範(かたくらかげのり)主従が幌別郡に移住したとき、 食料に困りアイヌの人たちに狩猟を願ったところ、ヒグマ8頭、鹿630頭、ウサギ50余、 その他キツネなど大量の収穫があり肉や毛皮の豊富さに驚いている。
 
 さて、シサム(和人)からみたカムイヌプリの呼称は、江戸末期の蝦夷地探検家や幕府役人は 「ホロベツ山・幌別山」などと書いている。例えば、安政3年(1856年)から同5年にかけて 巡検した目賀田守蔭(めがたもりかげ)の延叙歴検真図(えぞれきけんしんず)の南部領 ホロベツには「ホロベツ山」。また「野作東部日記(えぞとうぶにっき)を著(あらわ)した 市川十郎は、幌別会所前浜(幌別町2丁目)から「亥の二十六分縨別山」と測量し、命名している。
 
 
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 幌別山と呼ばれたカムイヌプリも、大正・昭和中期までは、なぜか「鷲別岳」と 呼んでいた。幌別側からみて、カムイヌプリの西側に鷲別岳が稜線続きに見えるので 911メートルと高い方の鷲別岳を混同して呼んだらしい。
 
 アイヌ文化時代のカムイヌプリの名称は、江戸時代の記録から消えたが、明治5・6年 北海道開拓使の「胆振国幌別郡全図」に「幌別岳一名カモイノホリ」。別資料絵図に 「神岳」の記名を発見した。
 
 シノピリカ・カムイネ・モシリ偉大にして美しく、神々しいわが大地を抱く「カムイヌプリ」 の名が、登別に復活しているのである。
 
 夏山シーズンなので「郵便前夜」を一回お休みし、「カムイヌプリ」を紹介しました。
 
 頂上からの景観も素晴らしく、登別山岳会の案内も親切。幌別ダムバス停から車で3合目 登山口まで行くことができます。
 
 
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「郵便前夜」その2

 登別市内で、郵便局の前身の幌別郵便取扱所が設定されたのは明治5年(1872)のことである。
 
 この年に、北海道の中心的郵便役所が函館の開拓使海関所(かいかんじょ)内にでき、付随して 室蘭・幌別や札幌・小樽の東廻り、松前。江差の西廻り郵便取扱所が全道で22カ所設けられたので、 登別は道内で最も古い郵便制度の歴史をもっていることになります。
 
 郵便取扱所は、一般的に開拓使が設けた駅逓所(えきていしょ=宿場から宿場へ荷物を送る)に併設 されたものが多いので、幌別も旧会所が駅逓所となり、当時、駅逓に関わりのあった松谷金弥が取扱人になったのでしょう。
 
 郵便制度は、一般的に飛脚屋(ひきゃくや)などに任せていた運送方法を改め、書状に切手をはって (初めは裏側)書状箱(ポスト)に入れると政府が運ぶという仕組みである。最初の切手は4種類で、 龍の画がある「龍切手」と呼ばれたが、政府の駅逓寮から出された注意書に飛信(ひしん=至急) 逓送(ていそう)切手が“本物か偽物かよくよく確かめろ”と書いてある。
 
 
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 一方、飛脚屋は仕事を脅(おびや)かされ、結束して料金を半額以下にして対抗したが、 結局「小包と郵便為替」の運送権を政府から与えられ、他は一切禁止されて貨物の輸送機関 となり、合同して「陸運元会社」を創設、今日の日本通運・マル通の前身となった
 
 さて、幌別郵便取扱所の入口にかけられた郵便箱は、一般的に長さ60センチ・幅30センチくらいで、 投函された書状は、室蘭港(現室蘭駅の方)、本室蘭(崎守町)、白老に分けて運送するが、 「郵便」という言葉も意味が分からずピンとこない。
 
 東京で「郵便」と書いた箱(ポスト)を町の辻に置いたときに、文字を読める気どった紳士が、 腕組みをしながら真剣に考え「郵便」を“垂(た)れ便(べん)”と読んで、便所と間違えたらしい。 それにしても差し入れ口は高いし「珍しい便所だな、西洋人にむくかもしれないが、日本人に 合わない」と首をひねりながら一人言を言って立ち去った・・・という笑い話が残っている。
 
 また、郵便箱にいくら経っても手紙を入れる人がいないので、この状況をみた外国人が、暇なことを、 “日本の郵便箱”と言って例えたというが、明治を迎えた文明開化の郵便制度一つにしても普及 するまでは大変であった。
 
 
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 都会でもこのような状況なのに、郵便取扱所の開設した幌別郡の人口は、明治13年頃まで約 500人余で、札幌本道沿いの民家は別にして深い森の中に入植者は散在し、道路も満足になく 何処で生活しているのか分からない。入植者の生活も安定していないので住民の集配物も無に 等しいものであった。
 
 しかし、北海道開拓を急ぐ政府や開拓使の御用状・公文書は、札幌・函館・東京へと頻繁で、 幌別郵便取扱所から前記の室蘭・白老の取扱所へ昼夜の別なく直ぐに届けなければならない。
 
 室蘭港まで19.7キロメートル、本室蘭まで15.7キロメートル、白老まで26.8キロメートル。 明治5年に通った札幌本道の両側は、昼でも暗い林が続き、水量豊富な幌別川の橋も既に流出して川を 渡るのも困難であった。ヒグマやオオカミや集団を組んだ山犬(野犬)が出没する。冬期間の 積雪や吹雪で道は消滅する。昼夜や豪雪雨に関わらず御上(おかみ)の御用は厳しい。
 
 途中も危険なので、荷物が多く急ぐ場合は、人数を増やしたり駄馬送(だばおく)りをしたらしいが、 初めは馬送りの料金を開拓使は認めない。内容はよくわからないが、幌別郵便取扱役の松谷金弥の 「逓送仕上げ表」は赤字になっているので、上納金の減免と手当の増額などを、開拓使に嘆願している。
 
 
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「郵便前夜」その3

 今から、約125年前に開設した幌別郵便取扱所は、旧会所(通行屋)を駅逓所にしているので、 その場所は現在の幌別町1丁目3番地付近の旧国道とJR室蘭線の間にあったようです。
 
 この建物は、登別温泉から硫黄を採掘し、登別温泉に湯治小屋を初めて建てた幌別場所請負人の 岡田半兵衛が安政5年(1858)に新築した175坪(578平方メートル)に及ぶ 広い建物(岡田家事歴書)の一部を郵便取扱所に使用したらしい。
 
 幌別郵便取扱人は、前号で紹介した松谷金弥(まつやきんや)である。彼は、幌別郡の漁場持ちで である山田文右衛門の代理人なので社会的権限や経済力もあった。
 
 また、漁場持ちというのは、江戸時代の「場所請負人」が、本来は商人でありながら、蝦夷地を 支配した松前藩と結び、地域住民を服従させ、生産物や流通を独占して巨利をあげていたので、明治政府は 強大な独占権をもつ商人の場所請負制度を廃止し、開拓使の権限強化のため、申請者に改めて許可する 「漁場持ち」制度に改めたのである。
 
 しかし、現状は、場所請負人の系統を継ぐ漁場持ちが、生活品の取り扱い・税の徴収・政府の命令伝達 や駅逓の業務を行っていたので、幌別郡(現在の登別市)の場合も漁場持ちの山田文右衛門が駅逓取扱役 であるが、彼は幌別郡にいないので、帳場役の松谷金弥が郵便取扱役になったのであろう。
 
 
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 ところが、明治5年(1872)の記録に、幌別郡内に事実上居住した日野愛憙(ひのあいき)・ 小杉房吉も、コンブ・サケの漁場持ちの許可を開拓使から受けている。
 
 昔のような特権もなく、収奪もできず、利潤の旨味(うまみ)もなくなると不在地主のような 山田文右衛門や帳場役の松谷金弥の立場も弱くなり、郵便取扱役に対する開拓使の財政補助も少ないので 経営の維持も困難になってきた。
 
 明治8年(1875)郵便法が改正され、全国の郵便役所・郵便取扱所はすべて郵便局と改名、 幌別郵便取扱所も幌別郵便局となるが、この年、幌別漁場持ちの山田文右衛門が罷免(ひめん)、 松谷金弥も幌別郵便取扱役をやめたので、片倉家旧臣で幌別郡に土着した日野愛憙が、駅逓頭(えきていがしら) の前島密(まえじまひそか)から郵便取扱役を命じられ、彼は自宅(幌別町2丁目25番地付近)を 郵便局として開業し、郵便業務に専念する。
 
 当時の全国の郵便局は、1等から5等郵便局にわけられ、幌別郵便局は5等であったが、郵便局が 設置されているだけでも大したもので、明治14年には4等郵便局に昇格した。
 
 
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 また、日野愛憙の月俸は50銭で、筆・紙・墨料50銭で合計1円を支給されていたが、 当時、米10キロが25銭としても薄給のようである。
 
 その後、幌別郵便局は、明治29年に為替・貯金事務・小包郵便事務を取り扱うようになった。
 
 明治期に設置された市内の他の郵便局は、明治32年(1899)現在の登別東町3丁目に 登別郵便局と明治33年に鷲別郵便局が幌別郵便局の郵便受取所として開設。明治41年(1908) 登別村字湯ノ滝(現・登別温泉町46)に無集配3等郵便温泉局が開設した。
 
 明治34年3月の当時の記録によると、幌別郵便局の区域内戸数が709戸・人口2千804人、 区域はカルルス・サツナイ・オカシベツ殖民地(千歳町)・シリマンベツ(片倉・桜木・川上町)・ トンケシ(富岸町) ・屯田給与地(富岸町)・学田(がくでん=美園・若草・新生町の一部)・トウボシナイ(美園・ 若草・新生町の山麓部)、それに、白老村字敷生(しきう=現竹浦)・ポンアヨロ(登別港町から 白老町字虎杖浜に続く海岸地帯の村落)に及ぶ、広い地域に跨(またが)っていた。
 
 
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「郵便前夜」その4

 今から約95年前、明治34年(1901)の幌別郡の戸数は709戸、白老郡のアヨロ(虎杖浜)に及ぶ広い 範囲の幌別郵便取扱所の郵便物の1年間の引受は約5万2千通、配達は約7万7千200通、小包の引受274個、 配達は898個であった。
 
 因みに、平成7年度、登別郵便局の通常郵便物の引受は約256万通、配達は589万通、小包引受約3万個、 配達は5.5万個で、富岸・鷲別地区も含むが、他に登別駅前郵便局・登別温泉郵便局も 独自に集配業務しているので、登別市内では相当な数量になることを登別郵便局より説明を受けました。
 
 昔の数量と比較できない事情はあるが、それでも、他の府県から農業目的で移住する者も増え、明治28年には オカシベツ殖民地(千歳・幸・新栄町)や来馬付近(常盤・柏木町地区)の土地が解放されたので 「移住希望者が急増し郵便業務も増えた」と記録している。
 
 郵便物の移送業務も迅速になってくるのは、鉄道の開設と蒸気船の発達にも関わりがある。
 
 
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 明治25年、北海道炭鉱鉄道の開設で、幌別と登別に2停車場が設けられ、幌別停車場で郵便物の 郵送扱いをするようになる。汽車の発着は1日6回で、片道3回だが郵便物はある程度の数量を ためてから発送したらしい。
 
 それでも、東京と青森間740キロメートルの東北線が全通したのは明治24年、青函航路113 キロメートルを渡航して函館に到着。函館から森までは逓送脚夫の足、森から室蘭まで小型の船便で、 室蘭・幌別間は脚夫の運搬、北海道炭鉱鉄道が開通したといっても、各家に配達されたのは、東京から 15日~20日以上の日数。それでも当時はずいぶんと早く便りがとどくようになったものである。
 
 さて、郵便制度が整ってきたが北海道は、依然として中央政府からは遠隔の地にある。この本州と北海道の 間をぐんと縮めたのが電信(電気通信)の普及であろう。
 
 電信は、電流を断続したり変調変化させて文字化したもので、1837年アメリカ人モールスによる 符号が電信の始まりである。
 
 日本には、1854年黒船でペリーが来航した時に、遥か遠く離れている人に話が通じたことでびっくり 仰天し「キリシタンの魔法だろう」と言ったものの、こんな便利なものはない。明治になり、東京と横浜間 に初めて電線が架設された。
 
 
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 北海道でも、明治5年札幌本道開削の時に、函館・森・礼文華山道を越えて 室蘭・登別・千歳・札幌に至るまで電信柱が立てられ電線も順次架設されている。
 
 日本に初めて電信が登場した頃、相手の「話がいつ通っていくのだろう」とか、「書いた 手紙が針金を伝わっていくのだ」と言って電線を何時までも見上げたり、電線に風が当たり 音がすると「魔法が今通っている」とか相手方に話が通じるのだから「弁当も運んでくれるだろう」 と考え、弁当箱を電柱にぶら下げたが運んでくれない。「やはり金を払わないからだろうか」 と感心したり、仕まいには、「電信線は未婚者の生き血を塗ってつくるものだ!」というので 娘たちの歯を黒く染めたり、眉を剃り落とし既婚者のようにみせたという噂が、当時、まじめに 本州地方で話されていたが、電信は誠に不思議な装置であった。
 
 北海道はそれ程でなかったが開拓使は心配して「電信線に障害を及ぼすような不心得者は 厳罰に処する。また心得違いをおこさせぬように厳重に取り締まりをせよ」と各村の 戸長宛に通達している。
 
 登別では明治41年(1908)幌別郵便局で電報取扱いを開始し、同局へ出かけて通話する 電話事務取扱いは1917年からである。
 
 

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