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郷土史点描(16)   宮武 紳一

知里真志保の顕彰碑を訪ねて

 昭和36年(1961)に52歳の生涯を終えたアイヌ語学の世界的学者、知里真志保を称えた「顕彰碑(けんしょうひ)」が、 彼の母校である登別小学校校舎前に移設された。
 
 顕彰碑の建立は、登別に住む室中同窓生を中心に、地元有志や多くの人たちにより、郷土の誇る偉大な言語学者の偉業を讃え、 その功績を後世に伝え、また霊を慰めたい、という趣旨からで、13回忌の命日にあたる昭和48年6月9日に蘭法華の高台にたてられた。
 
 アイヌ語地名研究の第一人者で北海道曹達株式会社の社長・会長を務めた故山田秀三氏の寄稿碑文もあり、4メートルにおよぶ 黒花崗岩の碑石も立派である。
 
 真志保の碑の中心に、姉幸恵が18歳の時に東京の金田一京助に送ったアイヌ神謡集の、梟(ふくろう)の神の自ら歌った謡(うた) 「銀の滴降る降るまわりに」の文が記されているが、しかし碑文には「銀のしずく、降れ降れ、まわりに」になっている。
 
 このあたり、真志保がアイヌの過去の歴史を代表して熾烈(しれつ)な戦いに挑んでいた表れがあったと推測されるが如何(いかが)であろうか。
 
 
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 さて、真志保が登別小学校に入学したのは大正4年(1915)で、ほぼ現在の位置に 約230平方メートル、70坪の木造校舎があった。この年、登別と登別温泉間に馬車鉄道 が開通し登別駅前も賑わいをみせはじめたころだが、電燈(でんとう)のないランプ生活の 時代で、登別小学校開校百周年記念誌の大正11年3月卒業生の写真は、男女とも着物姿「 夏は下駄(げた)か手作りの草履(ぞうり)、冬はわら靴で通学した」という当時の卒業生 たちの思い出話がある。
 
 真志保の小学校時代は、彼の同窓生らの聞き取り調査を、点描22・23号で紹介したが、 ひょうきんで他愛のないイタズラをしていた天真爛漫な少年であった。
 
 さて、偉大な言語学者を育(はぐく)んだ大地の周囲を巡検してみよう。
 
 登別小学校前の、冨浦の高台から登別本町1・2丁目の境を通り登別東町の国道へぬける道路は、 124年前に開設した「札幌本道」そのままの道のりである。
 
 また、登別小学校の北西側はサケがのぼる豊かな登別川が流れ、上流へサンケ(キムンタイ・紀文台 の高台から川の方へはり出した出っぱり)の西側は「イチャヌニ」といわれたサケやマスの豊かな 産卵場で、むかし、川の両岸は深い森に囲まれ、学校の辺りから西にかけて、カツラが群生している所 の「ランコウシ」の地名があった。現在も、登別小学校の校門をトンボ広場に進むと、右手の一段と低い 川原に面するところに、見事なカツラの大木が2本見えるのも地名を実証している。
 
 
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 学校は、旧札幌本道からみて一段高い位置にあり、春や晩秋も樹の葉のない季節には、 校舎の窓からも、川を挟んだ対岸の川沿いの彼の家からも、真志保の言う「海の見える、 川のある丘に住みたい」場所であったように思う。
 
 海の執着は、登別川の流れる前浜でのハタハタ漁の記録や、登別小学校の南側高台は、海の 幸を祈る祭り場のハシナウシで、更に西へ進むと、我が国でも珍しい竪穴式のアフンルパル (あの世の入り口)の伝説の場所、また登別駅前南側のフンペサパ(鯨・頭)も海に 関わり伝承の豊かな地域である。
 
 登別に実在した、アイヌの呪法(じゅほう)や呪文・歌謡(遊戯・踏舞・熊狩踊り・祭り・ 舟歌など)や謡(うた)われる叙事詩・散文物語など、数多く紹介した真志保の学問的 考証は、他の追随を許さない深さがある。
 
 登別小学校の周辺や登別川を挟んだ対岸は、偉大な姉幸恵や金成マツも過ごし、数多くの 文学を結晶させた生活の原点であり、顕彰碑を是非訪ねてもらいたいと思う。
 
 
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比田井天来揮毫の頌徳碑 その1

 去る10月18日、東京から書道の大家といわれる方々を中心に8名の書道家 たちが登別温泉に来られた。
 
 比田井天来(ひだいてんらい)の門下生に、書聖(しょせい)といわれた桑原翠邦(くわはらすいほう) ・金子鷗亭(かねこおうてい)らがいるが、今回は桑原翠邦の師範代を務めた浅沼一道(いちどう)氏、 金子鷗亭の息子で日展審査員などを務める金子卓義(たかよし)氏、その他5名も中央で活躍中の気鋭の 面々で、天来の孫にあたる天来書院の代表、比田井和子氏も同伴され、登別から書宗院 (しょそういん)理事の舛甚錦州(ますじんきんしゅう)氏、それに登別の観光事業でご活躍の君島勝氏が 世話役をなさっていた。
 
 書道家たちの来泉の目的は、登別温泉第一滝本館の正面入口を過ぎた三叉路から地獄谷方面の道路に面して 建っている滝本金蔵と栗林五朔(ごさく)の功績を称えた頌徳碑(しょうとくひ)の「碑文の筆跡」を 特別の和紙に写しとり(拓本)に来たのである。
 
 頌徳碑は、自然石の台座の上に黒御影石の堂々とした立派なもので誰でも気づく大きさである。
 
 
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 驚くことに、頌徳碑の表文字は頭山満(とうやまみつる)である。彼は福山藩出身で 明治の藩閥政治に反抗して投獄され、出獄後は超国家主義の玄洋社(げんようしゃ)を結成、 大アジア主義を唱え、特にロシアの中国・朝鮮進出に反発し国権論を唱え、朝鮮独立運動家や 孫文の中国革命を支持、日本の大陸進出に政・財界を動かした明治・大正・昭和初期の 右翼の巨頭であった。このような人物の名があることの関わりも興味深い。
 
 さて、碑の裏面の文字が問題の書で、前記の書聖などを弟子として輩出させた明治から 昭和初期の書道界の重鎮であった比田井天来の書である。
 
 碑文の文字は、字画をくずさない楷書(かいしょ)にちかい隷書体(れいしょたい)で、 字は約7~8センチ大・271字が刻まれ、昭和13年7月とある。
 
 天来は、同年の2月から4月末まで入院し、秋ごろから体調が思わしくなく、昭和14年 1月4日不帰の客となっているので、登別温泉の頌徳碑の書は、一時健康を恢復(かいふく) したときに「精魂をこめ一気に揮毫(きごう)した碑文としての最後のものであろう」ということを 懇親会の席で代表の浅沼一道氏が話された。比田井天来という書道界の重鎮の見事な書を刻んだ 碑は、登別にとって素晴らしい文化財である。さて、称徳碑は登別温泉の開拓に大きな功績を残した 滝本金蔵翁・栗林五朔翁を讃えて建立したものである。
 
 
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 滝本金蔵は文政9年(1826)武蔵国の本庄村(埼玉県本庄市)の農家に生まれ 江戸に出て大工になったが、小田原の茶屋の滝本左多に婿入りし、安政5年(1858) 登別に来たという。以後の金蔵は、幌別場所請負人岡田半兵衛の開いた後を受けるような形で 登別から温泉までの道路を開削し登別温泉に湯宿を造るなど、登別温泉の開拓に74歳の生涯 を終えるまで尽力している。湯宿を「湯元の滝本」と正式命名したのが明治18年(1885) 、「滝本館」となったのが2代目金之助が家督を継いだ2年目の明治33年で、登別温泉の 名声と共に滝本館の名が全道・全国に高まってきた。栗林五朔の名は、室蘭で長く知られた 名であるが、登別との関わりを知らない人が多いと思う。
 
 しかし、登別温泉と登別間に馬車軌道を敷き、ストライキや脱線事故のため蒸気機関車にしたが、 円筒の煙や火の粉が飛び散り乗客も大変。遂に電車を走らせ登別温泉の近代化をはかったり、 登別に製銑所(せいせんじょ)を造り世界に誇る銑鉄(せんてつ)を生産したこと。更に上鷲別と 中登別のユートピア牧場で名馬ライスシャワーが菊花賞・天皇賞で入賞する。五朔以来の登別との 関わりである。
 
 さて、頌徳碑の金蔵・五朔・頭山・天来の関係はどうであろうか。
 
 
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比田井天来揮毫の頌徳碑 その2

 登別と深い関わりのある栗林五朔(くりばやしごさく)が、大望を抱いて新潟から函館に 僅(わず)か5銭の金をもって渡ったのが明治22年(1889)、24歳のときである。
 
 函館で製蝋(せいろう)会社を営んだが、函館商人の力が強いので、天然の良港をもち 北海道炭鉱鉄道敷設の噂のあった室蘭での事業を考え、明治25年、同地に移転し雑貨商を営んだ。
 
 事業の経過を簡単に述べると、明治26年日本郵船の代理店となり、続いて北海道炭鉱鉄道社長の 井上角五郎の援助で、室蘭港の石炭荷役事業、後に母恋の日本製鋼所・苫小牧の王子製紙工場の建設 資材の一切を引き受け、特に海運事業で進展し、大正11年には自社船・傭船(ようせん)など52隻 を駆使、本州・朝鮮・樺太・南方方面へと進出している。
 
 一方、滝本金蔵が、登別・登別温泉間に4人乗りの客馬車を走らせたのが明治24年で齢は66歳。 温泉の開発に精根を傾けながら明治32年(1899)74歳で他界した。ところが、後継の2代目 金之助も3年後に没し、金蔵の妻左多も病没。滝本館は金之助の妻ハマが女手一人で奮闘したが、 このような中で栗林五朔が登場する。
 
 実は、滝本ハマ(旧姓木下)の実兄に木下成太郎(しげたろう)が居た。彼は東京帝大(東京大学) に入学し、後に北海道政界の長老と言われ、中央政界の衆議院で木下太閤(豊臣秀吉にちなむ)と 称された人物。父の木下弥太郎は、但馬国(たじまのくに=兵庫県)豊岡藩の家老で、明治15年に 幌別村オカシベツ(千歳町)に入植し、登別との関わりが深い。滝本金之助とハマの結婚も、このような縁 からである。
 
 
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 栗林五朔は、前記の実業家としての活動もあるが、彼も道議会議員・衆議院議員として、 木下成太郎と同様に政界で活躍、年齢も一つ違いで知友の仲にあった。
 
 五朔は、ハマの実兄からの要請で「運送屋が温泉や湯宿を買うのはお門(かど)違い」と、 他の経済人からも忠告を受けたが「運送屋も金に足が生えて散りやすい、北海道が発展し 温泉に価値がでるとお互いに繁栄する。利益がなくとも悔ゆることはない」と言って、大正 2年(1913)10万円で土地・旅館浴室の建物・道路・橋梁石垣・温泉及び引湯施設・ 水道など、温泉の諸権利を買い取った。
 
 当時としては莫大な権利であったので「五朔が、登別温泉のまちをそっくり買いとった」と 郡内や近隣町村で騒がれたほどである。
 
 さて五朔は、当時の交通機関が乗合い馬車で悪路の泥道を走り外湯の入浴も自由放任、不潔感 があり、温泉の整備・近代化のためにと登別温泉軌道会社を設立し、大正4年12月、 馬車鉄道を開通させた。乗車賃は片道25銭、登別・温泉間を約1時間で走る。
 
 その時の、珍しい情景を書いた「登別温泉唱歌」が残っているので「汽笛一声新橋を・・・」の 節で歌いながら温泉路を辿(たど)ってみよう。
 
 
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 帝国鉄道室蘭線 上り下りの汽車の旅
 アヨロランボッケ隧道(とんねる)を潜(くぐ)れば早くも登別
 北海一の温泉場 此処(ここ)より降りて
  一里半 湯あみがてらに山道を
  客待ち馬車へと 乗り替えぬ
 駅より走(は)せて十餘丁 汐見坂より
  見渡せば 海のあなたの恵山岬
   太平洋岸 波静か
 何時しか海も見えずなり 紅葉橋やら十字橋   渡り渡り手今は亦(また) 妻恋坂にと かかりけり
 越ゆる断崖絶壁を 横ぎり走る三・四丁
  左に深く鹿の沢
  流れもけわし 薬川(くすりがわ)
 此処ら辺りは紅葉谷 秋の景色は
  最(いと)も良し  七飯の坂や赤岩を
  過ぎて 錦の清水あり
 温泉場の香り高々と 辿(たど)り辿りて
  仏坂 乗りたる馬車は一時間
  早(は)や 温泉場へ着きにけり
 
 
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比田井天来揮毫の頌徳碑 その3

 栗林五朔の盟友、中澤宇次郎の当時の記録によると「温泉と登別の交通機関は円太郎馬車のみ。 路は泥濘(でいねい)の悪路、加えて外湯は入浴し放題の放任主義で、不潔・不快・不整理は甚だしく 「霊泉登別」の名を辱(はずかし)めていた」と記録されているが自由な情景も窺(うかが)われる。
 
 落語家の橘家円太郎が、高座で馬車の馭者(ぎょしゃ)の真似をして人気を博していたことから、 乗合馬車を「円太郎馬車(えんたろうばしゃ)」と洒落(しゃれ)でいわれるようになったが、 滝本金蔵創設のラッパを吹き鳴らして走った円太郎馬車は悪戦苦闘をし、中登別から時代村の中を 突っ走り、登別本町2丁目の旧道を通っていたのである。
 
 さて、五朔を中心として大正4年(1915)開設した当時の写真(前号掲載)をみると、馭者や車掌 は制服・制帽の颯爽(さっそう)とした出(い)で立ちである。
 
 普通道路に比べて軌道は滑らかに走るが、客車の定数は10余名。標高差約200メートルの坂を1頭 の馬で引くのは仲々苦しい。2頭・4頭で引けばよいが軌道幅が狭く勝手に走られては大変なので 牽引(けんいん)馬は1頭である。扱い方で馬鹿にするなと腹をたてられたらどうしようもない。
 
 
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 事実、翌年の6月9日、引き馬が大暴れして馬と車輛の連結部分がはずれ、客車が坂を逆に疾走して カーブで脱線、乗客の負傷者7名という事故が起こった。幸いに、死者の出る大事故にはならなかったが、 実は事故の前日、お忍びで皇族の東伏見(ひがしふしみ)宮殿下が馬鉄を利用し、登別温泉にきていたのである。 馬鉄の脱線事故で皇族が災難にあったとしたら、当時は大変な事件で「不幸中の幸い」と関係者は冷や汗を 流し、胸をなで下した。
 
 また、馬鉄の馭者がストライキをおこし、終列車の客2名が徒歩で来泉するという問題もおこった。
 
 列車数も少なく、登別の終着時間は明確でないが、大凡(おおよそ)室蘭着は午後7時半なので午後6時半 過ぎであろうか。9月1日というから日暮れも早くなる時期である。
 
 「生きものは駄目だ! 生きものは絶えず問題をおこす」ということで、大正6年3月「馬を蒸気に改める」と 臨時総会で決定、8月には6トンの蒸気機関車2輌と客車を購入、試運転をし路線のカーブや高低差の減少・軌道の修復 などと改良の工事をすすめていった。
 
 
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 大正7年(1918)5月1日、待望の蒸気機関車による軽便鉄道が開設した。
 
 高圧の蒸気で作動する機関車だから水が必要で、特に登別と温泉間は山坂が多く 距離も長いので機関車の途中の給水が必要である。その給水所が江戸期、カムイワッカ (神の水)の地名で知られる今の中登別町で小林商店付近である。
 
 小林商店は、明治37年カムイワッカで小店を開いたが、蒸気機関車の給水所として 約20分程は停車するよになると、お茶や駄菓子などを扱い、乗客から、通称「中茶屋」 として親しまれるようになった。
 
 当時の写真をみると、駅名の掲示板もあって「神威若(かむいわっか)」の名が横書きに 記されているのも見える。
 
 停車時間をいれると、約1時間余。春の浅緑、夏の深緑、秋の紅葉、川辺を縫って走る 車窓からの情景は素晴らしい旅情があり、馬鉄時代に比べて大正8年には2倍の8万2千余人 を運び、登別温泉の人気は全国的に増々高まり、政財界人・文芸界の有名人なども 多く来泉するようになった。
 
 ところが、蒸気機関車にも問題があった。温泉と登別間は坂道も意外に長く難所も多い。
 
 機関車は、10人乗り客車3輌の牽引力があるといわれたが、客の乗車人数と坂道によっては  計算通りにいかないし来泉者は1人も残せない。満員の客車を引っ張るための問題がまた起こってきた。
 
 
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比田井天来揮毫の頌徳碑 その4

 明治44年生まれ、数え年87歳でお元気な中登別の小林信(しん)氏のお話によると「中登別の 『神威若(かむいわっか)』の停車場は、現在の小林商店の南側で、軌道は現在の道路中央を通り、軌道の 南側に木造の大きな貯水槽が設けられ、カムイワッカの木を貯水して蒸気機関車に給水していたようです。
 
 さて、登別から温泉までは、標高200メートルの山間を縫って長い坂道を通っていく。大正6年(1917) の陸地測量部図にある軌道をみると、登別駅の東側からマリンパークを北に進み、当時の遊覧坂(現在の国道方向) に沿って虎杖浜臨海温泉区に上り、ポンアヨロ川の川岸を通り、わかさいも登別東店のすぐ北側に出て、 これからは現在の温泉への道路に沿うように紅葉谷の方向に上っていった。
 
 蒸気機関車が坂を進む場合、石炭を多くくべて火力をあげ蒸気を高圧にするが、石炭の投げ入れが多いと 不完全燃焼になり、真っ黒い煤煙や火の粉を機関車の煙突からまき散らし、客車の窓へと入り込む。暑い夏は 尚更のこと、晴れ着や荷物に火の粉がついたら大変で景観を眺めるどころでない。それに山火事も発生した。 満員の客を運ぶことは嬉しいが、機関手も蒸気機関の扱いに苦労したようだ。
 
 
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 このような中で、蒸気機関車から電車に変えることが株主総会で決定し、50人乗り電車3輌の購入と 電車用線路の切り換え工事が行われ、大正14年(1925)11月10日に電車が開通される。
 
 当時の室蘭毎日新聞をみると登別駅の列車と接続し、1日10往復、登別と温泉間35分で走ったことが 記載されている。
 
 電力は栗林五朔が温泉の近代化を進めるため、登別温泉の妙慎寺北側「勝鬨(かちどき)の滝」を利用して 発電させ、電燈を灯していたが、更にタービン2基を増設、千歳川上流にカルルス発電所を設置、また現在の 温泉停留所付近にドイツから重油発電機を購入し発電所を設け電力の充実を図ったが、猶(なお)電車になっても 問題があった。開設当時8万余人の乗客が3年後には12万1千余人と急増したのである。
 
 水力発電が主なので、季節による川の渇水、旅行シーズンや団体の満員電車、電車2輌を続いて走らせる場合 など、どうしても電力不足となり、それのしわ寄せが温泉の電燈に影響する。
 
 
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 滝本ハマさんに仕えた、90余歳で耳や思考も明確な広瀬キサさんのお話によると、 「登別からのお客の多いときは、家の電燈も薄暗くなり暗闇の状態になる。紅葉谷の下り坂 になると急に明るくなるが・・・、とにかく電車のお客が多いか少ないか、登別からいま 何処(どこ)の辺りを走っているかは電燈の明暗で分かった」というエピソードを語ってくれました。
 
 さて、登別と栗林五朔とのかかわりは、登別の近代工業の先駆けというべき登別製銑所(せいせんしょ) を開業させたという偉業がある。
 
 大正7年、株式会社登別製銑所を設立。翌年3月5日栗林五朔氏により火入れ式を挙行、 初湯出しをした記事が室蘭毎日新聞に記載されている。現在の登別東町1丁目マリンパーク 付近で、写真にあるような工場であった。
 
 登別製銑所は、コークスの代わりに木炭を使用したもので、特殊鋼の素材生産を目指し、困難な研究の 結果、当時世界第一のスウェーデン鉄よりもすぐれた銑鉄の製造に成功、後の総理大臣で陸軍大将の 岡田啓介が急きょ登別に視察に来たほどの重大事であった。
 
 

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