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郷土史点描(13)   宮武 紳一

知里真志保を訪ねて 言語学者への道

 昭和4年(1929)室蘭中学を卒業して、幌別村役場に勤めた知里真志保は、僅か数カ月で役場をやめた。 理由は、心の根底に戸籍上差別されている民族的怒りもあるが、知里家・金成家と深い関わりをもつ金田一 京助博士に熱心に進学を勧められたことである。
 
 金田一との関わりについて説明すると、幌別の金成家には金成恵里雄(ハエリリ)と茂奈之(モナシノウク) の夫婦がいて、その子供が知里真志保の叔母マツと母ナミの姉妹である。
 
 マツとナミは、幌別で愛隣学校を創立し、アイヌの父と仰がれたジョン・バチェラーの勧めで、函館のイギリス 聖公会養成伝導学校に通ったクリスチャンである。ナミは登別の知里高吉(タカキチ)と結婚し、幸恵(ゆきえ)・ 高央(たかなか)・真志保(ましほ)の優秀な3人の子に恵まれる。姉のマツは幼少時の事故で片足が不自由、 生涯独身で過ごすが、日高の平取に続いて旭川の近文の伝道師として派遣され布教活動をしていた。
 
 真志保の姉幸恵は、6才の時、叔母金成マツと、マツの母モナシノウクの住む旭川の近文の家に預けられ、 アイヌだけの上川第5小学校に転学を強制、庁立女学校も不合格という差別を受けながら旭川区立職業学校に進学していた。
 
 旭川近文での幸恵の生活は、祖母のモナシノウクは、金田一が「アイヌの最後の叙事詩人(ユーカラクル)」と 賞賛した語り手、マツも母から継承したユーカラの名人である。
 アイヌ語とアイヌ神謡・詞曲を語る豊かなアイヌ文化の恵まれた家庭環境で幸恵は育っていた。
 
 幸恵15才の夏、金田一がジョン・バチェラーの紹介で旭川の近文を訪ねるが、この時に幸恵を知り 大正10年5月幸恵は上京。金田一宅で将来を嘱望されながら、歴史的偉業と評された「アイヌ神謡集」 を残して心臓病で急死した。
 
 
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 病弱であった幸恵は、かねがねこのような運命を自分が背負っていることを心の中で察知し、弟に後日を 託していたのかも知れない。真志保を旭川に呼び、アイヌの伝承をもつモナシノウク、マツの家で過ごさせ、 上京後は金田一に「私は先生のお手伝いはあまり出来ませんが弟ならきっとやり遂げてくれると思います」と つねづね語っていたことからもうなずける。
 
 金田一は幸恵が亡くなってから満7年をむかえ、室蘭中学校を優秀な成績で終えた真志保を知っていたに 違いない。積極的に真志保に進学を勧め上京を促した。真志保もとびぬけて優秀であった英語力から、 「将来は語学者になりたい」という室中時代の希望も激しく上級学校進学へと心を駆りたてたに違いないない。
 
 20年前の聞き取り調査で、当時83才の登別の鈴木島一郎さんがこの辺りを次のように語ってくれた。 「父親の高𠮷さんがよく宅へ来て高央や真志保のことを話していたが、“突然だけど、今度真志保を東京へやる ことにしたよ。中学でたんだから、もうちょっと家の足しに働いてくれたら助かんだけども・・・とにかく 本人は勉強したいと云うし・・・えらい人からも、将来を考えて勉強させなさい学費は何とかなるから”とまで 云われると・・・うちでは東京へ出せないけど・・・やらない訳にはいかないしな・・・。」
 
 真志保は、金田一の勧めで進学を決意し役場を辞め猛勉強にとりかかる。受験期まで数カ月、受験校も決めて いない。上京した真志保に金田一は「どこを受けるか」と聞いても「決めていない」と云う。それで金田一は 最高の名門校第一高等学校の過去の問題をやらせたら、すらすらと解答したので第一高等学校(東大に合併)に 決めたという。受験の結果は合格者150人中12位の成績であった。
 
 
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カルルス町を訪ねて 川上の飲泉・ペンケユ

 来馬岳・オロフレ山・加車山などの美しい山々の外輪に囲まれたカルルス町は、千歳川の渓流が中央を流れ、 冬の樹氷、春の芽が一斉にふきだす若葉の頃、新緑の夏、紅葉の秋と、静寂な中で何時訪ねても美しい自然に 触れ合うことの出来る素晴らしい温泉の町です。
 
 カルルスの地名は、本来のものでなく、昔、アイヌの人達は「ペンケネセ」和訳で「小川の床」とよんでいました。
 
 ペンケネセのパンケは川上のという意味で「ペンケユ」は川上の温泉のカルルス温泉、川下の温泉「パンケユ」の意味で 登別温泉を云います。道内にペンケ、パンケの地名も多いが同様の意味です。「ネセ」は、知里真志保の地名辞典に 「深山にあって川岸に被(かぶ)さるように出ている崖」の意味で「小川の床」とはかなり異なりますが次のイソクテ という人の登別地方の伝説で頷けるようです。
 
 「登別地方で狩りの上手な若者が此の辺りにシカ狩りに出かけ、誤って崖下に落ちて重傷を負ったので帰ることが出来ない。 身体も疲れきったが小川に下りたところ、そこに温泉の湯がコンコンと湧き出ている。喜んで早速お湯に入ったが、 疲労と湯のあまりの心地良さにうとうと眠ってしまった。
 一方コタンでは、帰って来ないので心配し、大勢で探していたが、やっと3日めに、湯につかってぐっすり眠っている彼を 発見した。助けられた若者は嬉しさのあまりコタンの人に抱きついたが、不思議なことにひどい傷も治っていたのである」と云うお話です。
 
 
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 「ペンケネセ」を「小川の床」と云った意味を考える場合、伝説の方が頷けるような気がします。 いずれにせよ、アイヌの人達はここに温泉のあることを古くから知っていたのでしょう。
 
 近代になり、カルルス温泉を発見した人に次の3名がおります。
 
 片倉家の旧家老、日野愛憙(ひのあいき)が前記のイソクテと共に輪西屯田用地の調査測量で 道庁から来た技師を案内した時、明治19年に発見した。
 
 また、日野愛憙の養子、日野久橘(ひのきゅうきつ)が、樹の種類の調査でペンケネセを訪れた明治22年 (1889)に発見した。あとの1人は、幌別郡輪西村の屯田兵村に寄留していた市田重太郎で、 鉱山探索中の明治27年頃発見したと云います。
 
 温泉経営の出願をして道庁から許可をうけたのが、当時薬剤の取り扱いをしていた市田重太郎です。 最初の旅館は、明治32年、温泉発見に関わりのある日野久橘と、市田の共同経営で、1棟5部屋の旅館と 浴場が建てられたが、これがカルルス温泉開発のはじめです。
 
 
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 この時から、ペンネケセの地名をカルルスと呼ぶようになったが、理由は、当時チェコスロバキアの 西端もあるカールスバードの泉質がラジゥムなどを含み、これとよく似た泉質からカールス、カルルスに 命名したと云われます。
 
 では、カルルスの名付け親は誰かというと、薬剤に知識のあった市田重太郎と、片倉家の旧家老、斉藤 良知の長男、平治が、札幌第一中(現在の札幌南高校)の英語教師であった知識から命名したのでは ないか、とも云われております。
 
 また、カルルスの名称で次のような来歴(らいれき)を聞く機会がありました。
 
 4年前、ドイツの有名な港町、ブレーメンの美術大学教授カールス・グロイネ夫妻が、洞爺湖の友人の別荘で 3カ月滞在し、カルルス温泉に案内した折りのことです。
 
 当然、チェコのカールスとカルルスが話題になったが、「実はドイツがプロシヤ時代の時、私の先代 カールス家の名を付けたものです」と云われて本当に驚いた。謂(い)わばカルルスの地名あh、 プロシアの名門貴族の名称であったわけです。
 
 
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カルルス町を訪ねて カルルス温泉の開業

 カルルスの地名は、ドイツ以前のプロシヤ王国時代に伝統ある貴族カールス家の名称を とったものであることは前号で述べた。
 
 さて、明治32年に開業したカルルス温泉について、同年8月10日の「北海道毎日新聞」、 現在の「北海道新聞」に「カルルス温泉開業」の見出しをつけて掲載されているのでその一部を紹介しよう。
 
 胆振国幌別停車場から、約3里(約12キロメートル)の山中に於いて、日野久橘、市田重太郎の二氏、 カルルス温泉の湧出せるを発見し苦心経営の結果、さる8月6日を以(もつ)て開業の式を挙げたり。 同温泉は、去る5月15日道庁の許可を得て、ただちに幌別から道路の測量と開削に従事し、僅(わず)か 80日を以て総延長6千33間(約11キロメートル)のうつ蒼(そう)たる深林の未墾地に 道路を開設せり。道路開削と同時に、旅館を建築し名づけて「亀谷(かめや)」と称す。前面は登別川上流で、 名づけて「千歳(ちとせ)川」と云い、川に橋を架(か)け「寿橋(ことぶきばし)」と称す。橋を渡れば、 新発見のカルルス温泉こんこんと湧出するあり。湯漕(ゆぶね)は4間(7.2メートル)に6間(約11メートル) なるを造築す。
 
 カルルス温泉の開業式には、幌別停車場をさる約3町(約330メートル)の所に緑門(りょくもん・アーチ )を建設し各国国旗、球燈(電球)を以て飾り、中央に「幌別・カルルス開業式」 と大書せる扁額(へんがく)と大旗を掲揚(けいよう)せり。
 
 幌別停車場で遠来の来賓を迎え幌別丸仙(まるぜん)旅館を休息所にし、数台の馬車と数10頭の乗馬を備えたり。
 
 
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 定刻に至るや、村落有志者、輪西、室蘭、白老、苫小牧、遠く札幌・小樽より続々と カルルスに来(きた)り、幽境(ゆうきょう)の地も人馬を以て充(み)たされ熱烈な 祝いの巷(ちまた)を現出せり。
 
 開業式は正午過ぎ、旅舎前面の広場に於いて行ない、片倉男爵(だんしゃく)・小林札幌 郵便局長・室蘭支庁長・赤松戸長・新聞記者ら100余名、来賓諸氏の祝辞、演説10数番、 和歌俳句の朗読10数名、祝電は北海道炭鉱鉄道をはじめ20余通、来賓一同寫真(しゃしん) をとる。新築各室で祝宴、麦酒(ばくしゅ)と折詰の饗応(きょうおう)あり、余興として 幌別村ヲカシベツ連中の「獅子舞い」あり。歓(かん)を尽くして退散せるは午後5時なり・・。
 
 このようにカルルス温泉の開業は広く宣伝され、当時としては如何に盛大であったかが伺い知れる。
 
 ちなみに、片倉男爵の和歌は、

 強かりし やまいの根さえ  かるゝすの
 いで湯の道も開きそめけり
 
 と詠じたのが紹介されている。
 
 
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 当時、カルルスへの道は、幌別駅から日本工学院、ゴルフ場の方を通る「札内道路」であった。
 
 札内道路は、明治20年(1887)軍事と開拓を兼ねて設置された、輪西屯田兵の保養地が札内に 設けられた時のうつ蒼たる深林の中の草分け路で、後に民有地に払い下げられ、香川県人ら10数戸が 入植し人と馬が通れる程の路が幌別駅に通じていた。温泉開業で修復されたものの、カルルス温泉への 路は依然(いぜん)として遠かった。
 
 一方、登別温泉からカルルス間の道路も計画されていたが仲々実現されず、それが明治42年 (1908)突然開設されたのである。
 
 その理由は、当時の登別温泉は日露戦争の傷病兵療養所として陸軍省から指定されていたが、傷病兵の 一部をカルルス温泉で療養させていたのである。ところが、お国の為に尽くした帝国陸軍の傷病兵を 馬に乗せてカルルスまで運ぶことは大変で、此の頃の毎日新聞も「札内道路は距離遠く山中曲折し、 修理も不行き届き悲しきこと云々・・」と批判し、陸軍省の鶴の一声で登別温泉からの道路が現在の道路より 山際に造られた(旧道)。
 
 ちなみに「カルルスでの傷病兵16名。更に11名の増加をみている」と北海タイムスが報じている。
 
 
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カルルス町を訪ねて パスイヤント・橘湖の由来

 今から95年前、北海道毎日新聞に「幌別カルルス温泉開業」の広告が初めて出されている。
 
 「カルルス鉱泉は、ヨーロッパの加爾々斯(カルルス)泉に似て、諸病に奇効あることは、幾多の医師・ 実験者が確認していることであります。宿泊は勿論、幌別停車場から乗馬や馬車を準備して便利をはかり、 客は丁寧に取り扱うので、続々と御来浴下さることを願い上げます。
 主治効能は、慢性胃腸病、脊髄(せきずい)や脳の諸病・リューマチ・痛風(つうふう)や咽喉(のど)及び 気管支・外傷等、鉱泉主は日野久橘・市田重太郎」という内容です。
 
 それにしても、前号で紹介のように幌別停車場からカルルス迄の悪路・遠距離で客も少なく事業も大変であった。 温泉経営の初めは薬種商の市田重太郎があたり、日野久橘は郡内の中心幌別で、郵便局・農地開墾事業・放牧・木材業 など手広く活動していたが、カルルスでは明治35年(1902)に洗心館(せんしんかん・現在のかめやカルルス館) を建て、さらに明治41年市田重太郎から権利を総て譲り受け、同44年温泉に転居し開発に尽力している。  
 また、岩手県九戸から大望を抱いて渡道した岩井仁太(いわいにた)は、明治41年現在の岩井寮の所に5部屋ほどの 旅館を建築開業してから、4代目の岩井渡氏を迎えている。当時蘭法華(らんぼっけ・富浦町)に居住していた鈴木伊三郎も 、委託経営から自立し鈴木旅館へと発展した。
 
 
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 大正5年(1916)登別温泉と同時に電燈も引かれ、同7年に電話も架設され近代化したが、 大正12年(1923)の人口は80名、旅館は岩井・かめや・鈴木の3軒である。単に遠隔の 地というだけでなく、カルルス温泉が静寂(せいじゃく)な中で自然を保全し、昭和32年(1957) 全国で12番目の国民保養温泉に指定されたのも、カルルス開発者日野久橘の理念があった。 即ち「遊興気分の俗化をさけ、自然を保持し療養の場を提供する」という考えである。
 
 日野久橘の名に関わり、市民に親しまれているカルルス東方の橘湖(たちばなこ)の命名は、 明治42年に当地を訪れた逓信(ていしん)大臣の後藤新平が、温泉の創業以来、部落民と共に カルルス温泉の発展に尽力した日野久橘(きつ)の「橘(たちばな)」をとって命名した名称で、 本来は、明治29年陸地測量部図地名では「パスイヤント、箸が・そこに・より上る・沼」と訳しています。
 
 このように、アイヌ文化時代からあるこの沼には「箸(はし)やへらなどが浮いているので、それを使えば 縁起が良い」と云われ、シカ・クマ狩りに行った人は此の沼の岸に仮小屋を建て、狩猟(しゅりょう)に 従事し、食事のときは沼のところにある箸やへらを使ったというのである。
 
 
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 カルルス温泉の旧地名ペンケネセ(ニセイ・前号に掲載)のように、既に カルルス地方まで狩猟に来ているし、狩猟と同時にパスイヤント(橘湖)を神秘的な 沼・カムイトとして祭り場を設けていたのでしょう。
 
 箸やへらが寄り集まるというのも、此のような意味からアニミズム(精霊崇拝)の 祭りの遺跡とも思われます。
 
 また、知里・山田のアイヌ語地名には、橘湖に行く橘湖溶岩山頂西側と、パンケユ (登別温泉)北側に、カシュンナイ(狩り小屋・に行く・沢)という地名を残しています。 ともに「狩猟のとき狩り小屋に行く沢」の意味で、目的地は神秘的な湖、神を祭った カムイトのパスイヤント(橘湖)で、箸やへらのある意味も分かります。
 
 因(ちなみ)に湖岸の橘湖溶岩は、放射線年代の測定で約9万年前に数値が得られ、 クッタラ火山(約7万年前)よりも古い火山活動の産物であることを示しております。
 
 
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カルルス町を訪ねて 湖の底にあったカルルス

 紅葉の秋、ペンケユカルルス温泉とその周囲は、四季の中で最も美しい自然を見せる時期です。
 
 登別温泉から流れるクスリエサンベツ(薬湯・そこを通って・出てくる・川)は色も濃く暗い川となって 流れるが、カルルス温泉を流れる川、水の色も綺麗なのでアイヌ語で「ペケレペツ・明るい川」といったが、 カルルス温泉の開拓者日野久橘(ひのきゅうきつ)は「千年も永遠に栄え続く」という意味で「千歳川」 と命名したのが現在の川名です。
 
 さて、カルルス温泉に行って周囲を見渡すと、高い山が聳(そび)えたち形のよい盆地状の中に町はすっぽり と埋まっているが、単なる盆地ではなく大きな湖のあった時代の形跡もあるので、もう少しカルルスの自然を 観察してみよう。
 
 まず、西側を見ると、最も目につく高い山が1,040メートルでスキー場のある来馬岳です。
 
 江戸時代、幌別町にあった会所からも山裾の広い偉大な山として見られていたのでしょう。
 
 「頼婆(らいば)」と書かれているが明治以降は来馬岳に因んで、多くの「ライバ」の名称のつく山・川や 行政地名が残されていました。
 
 
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 また、来馬岳の西側に市内で最も高い名前のない1,043メートルの山があり、 登別市と壮瞥町の境界に1,077メートル・1,058メートルの高さの山が オロフレ峠展望台の方向に西壁となって連なっております。
 
 カルルス温泉からも見えるオロフレ峠展望台も登別市と壮瞥町の境界にあり、標高 930メートル、景観は雄大、付近の高山植物は6月上旬から美しいお花畑となる。
 
 カルルス側からみて、オロフレトンネル付近の右側は、急斜面の断崖となって、頂上には鋭く 立ち塞(ふさ)がる羅漢岩(らかんいわ)がある。
 
 カルルス温泉から北北西に見える秀麗なオロフレ岳は、1,230メートル、峠からの標高差 が300メートルほどなので子供連れの登山客も多く、羅漢岩と頂上付近だけを注意 したら良い。山頂は視界が広く、苫小牧方面から太平洋、恵山、クッタラ湖、洞爺湖、 ホロホロ山、徳舜瞥(とくしゅんべつ)山など四方を見渡す素晴らしい景観が見られます。 但しオロフレ岳は白老と壮瞥の境界にある山です。
 
 カルルス温泉からみて、北側に一際(ひときわ)高い山がある。これが登別と白老の境界にある 加車山(かしゃやま)で約900メートル。この山はアイヌ名でサマッキヌプリ・横になっている山 の意味であるが、傘を広げたような形をし、天候が悪くなるような時は、山の上部に雲が傘のように 被うので、温泉の人達は「傘山(かさやま)」と呼んでいたが今はどうでしょうか。
 
 
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 三つの名称をもつ加車山の尾根は橘湖火山に連なり、稜線(りょうせん)はテレビ 中継所の鉄塔があるキムンケタナシ・山手にある山に続いている。
 
 このようにカルルス温泉は、馬蹄形のように山に囲まれ、盆地状の中にあるが、 温泉の町を中心にこの辺りにクッタラ湖と大体同じ大きさの湖があった、と云っても 信じ難い話のようです。
 
 カルルス温泉地区が湖であったという証拠は、温泉の入口付近にあるサンスポーツランド 前の観光道路を登別温泉方向に約300メートルも進むと、道は大きく下り坂の底の部分に なる。この辺りの左側山腹を切り取った所や沢の方に、黄褐色がかった灰白色の粘土層があり、 表土を削ると美しい縞模様の地層が見れます。
 
 この粘土層は、クッタラ火山活動の膨大な軽石流によってカルルス地区がせき止められ、 大きな湖が出来て、長い間に湖の底に堆積した地層と思われているのです。
 
 粘土層の中にある炭化木の放射年代や、花粉の化石を調べた報告書の発表では、 大体35万年前より古い年代で、花粉の樹種から現代より寒い気候であったようです。
 
 

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