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郷土史点描(12)   宮武 紳一

お正月によせて 登別地方の昔の正月

 むかしの子供時代のうれしかった思い出に、誰でも「お祭り」や「お正月」があったことでしょう。 楽しい餅つき、年末から正月にかけては御馳走も食べれますし、新年祝儀のお年玉ももらえます。
 
 それにしても、日本人の年末は何と慌ただしいことでしょうか。年末の仕事の片付け、正月の年賀葉書 の大半は12月中に書き、クリスマスというジングルベルの曲に踊らされ、師走の慌ただしい年末を過ぎて やっと正月を迎えて落ち着いた感じです。
 
 その登別地方の「昔の正月」について、もと幌別町に住んで居られた故山木ミツさん(1981年当時 88歳)のお話を思い出します。
 
 お正月というのは、新年の年神様をお迎えする祭りだから農・漁・商家などどこの家でも、納屋・漁番屋・ 倉・小屋に至るまで、その家の周囲、家の中、仕事場も汚れを落とし、飾り物やお供え物をして 年神さまをお迎えします。
 
 1月7日(15日)は七草粥(かゆ)を食べ(初春の萌え出た若草を食べることにより新しい生命力を つける)年神様の帰るときなので正月送りのまつりをし、飾り物を取り外して焼く(どんどやき・鬼火たき)。
 
 
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 「1月15日前後は『小正月・女の正月』と云い、年中奉公で働きに来ている女の人でも 家へ帰れますし、お嫁さんも里帰りの出来る日でしたが、登別地方でも旧正月に行っている 例が多かった」などと、農耕儀礼からくる日本人の風習を登別地方でも引き継いでいた事を物語ってくれました。
 
 正月は、前記のように「年神」を迎える行事が基本にあるから現代でも、家の内外・仕事場 などの汚れを払いおとし、神の入り口の玄関にしめ飾りや門松をたて、また神棚に 飾り付けをし、部屋の要所に円形の注連かざり、餅のお供えなどをします。
 
 むかしは、大部分の家に、臼(うす)と杵(きね)があり、12月29日の苦餅(くもち)日以外に 家族で餅をつきお供えをし、準備して年越しを迎えます。
 
 「年越し」とは1年の境目で、大晦日(おおみそか)から元旦にわたる年神を迎える時ですから、 物忌(ものい)みをし、終始寝ないで起き明かすのが本来でした。
 
 また、この夜はオセチという特別の食事をとります。むかし、天皇が宮中で群臣に酒食を 下賜(かし)した「節会(せつえ)」に関わりますが、今でいう「オセチ料理」のこと。民衆の 中に広まった「チセ」も年の折り目を祝う食べ物、本来は豪華な食事ではなく「マメに・真じめに 元気で働けるように・・・」と黒豆・カズノコ・年越しそばなどの縁起ものを食べました。
 
 
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 「年越」は、本来厳粛な行事で「除夜」は百八つの鐘の音を聞いて一睡もせず過ごし、 元旦早朝は「若水」をくみ神に供えます。
 
 新しく清々しい元旦の朝は、一年を出発する神聖な時ですから、除夜の鐘と同時に参詣 しますが、最近若者もお参りが目立ちます。
 
 それにしても、お寺でつく除夜の鐘の音も聞き、元日は神社で初詣をするのも日本人的な感覚です。
 
 大晦日の除夜の鐘は。中国の唐時代の禅僧百丈懐海(ひゃくじょうえかい)によるともいわれ ますが、百八の鐘の音は、人間の心にある煩悩を一つずつ撞き落として、百七回は旧年のうちに、 一回は新年につくことになっています。ところが「新年は何時から」という事にも問題があります。
 
 現在は、24時(真夜中の零時)を過ぎると新しい一日が始まりますが、朝の「日の出」の時、また 「日没」をもって一日の始めとする考え方があります。ユダヤ人も後者です。古代の日本人の立場から みると大晦日の日没と共に元旦が始まっています。
 
 一日の始まりを日没とする伝統的神社の宵祭が古来の神事で、暗闇の中で厳かに儀式を行い、 夜が明けてから祭礼を行います。年末・年始の行事も、外来の仏教と古来の神が一体となる「 神仏習合」の風があります。神社の境内に寺を建て、神社でお経を唱えた時代もありました。 良否は別にしてこれが日本の民俗学特色でしょう。
 
 
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知里真志保を訪ねて ゆかりの地ハシイナウシの丘・リーフルカ

 昭和36年の4月に金成(かんなり)マツ、6月に知里真志保が亡くなられてから 今年は35年の回帰を迎える。
 
 「知里真志保を語る会」の事務局が幌別町3丁目の鉄南ふれあいセンター内に設けられ、 仲間の努力により資料も整備されつつある。この登別から育った偉大な言語学者「知里真志保」の 周辺を訪ねたい。
 
 登別と幌別の境を区切るように海に大きく突き出ている岬がある。
 
 アイヌ語でランポクノツ、通称ランボッケ岬(冨浦町)。江戸・明治時代から知られた地名で 丘の高台は、広大な草原になってリーフルカ(高い・丘・土)と呼ばれ、南西の高台から冨浦側に 「七曲(ななまが)り坂」と称する江戸時代の旧道跡もある。ここから眺めた恵山岬・噴火湾岸や駒が岳・ トッカリショ・鷲別岬側の景観が素晴らしく、北海道の名付親、松浦武四郎が駿河国(静岡県)の 薩埵峠(さつたとうげ)から日本三景の三保の松原を眼下に「はるか富士山を見るようだ!」と、 激賞した歴史のある場所である。
 
 七曲り坂の上り詰めた所から北側に江戸時代の旅行者の休息所跡と金成マツ媼(おうな)の語るアフンルパロ (あの世の入口)という大きなたて穴(地表から地下にやや楕円形に掘った )がある。
 
 
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 昔から近づいてはいけない場所、エカシの板久孫吉(いたくまごきち)さんが 30数年前に話してくれたことを思い出す。
 
 また、アフンルパロは今から40年前の昭和30年、知里真志保らの調査でたて穴式や 階段の地形が国内でも珍しく「学術的に貴重な遺跡であるから保存しよう」ということで、 国道36号の冨浦頂上付近の路線の一部を大きく変更し完成している。
 
 蘭法華高台の草原を東北に進むと、海の幸を祈る場所「ハシイナウシの丘」に着く。この丘の 南東は、急斜面で歩いて下りることは難しいが、下方は海岸平野が広がって青い海に面している。 東側は、登別地区の人のほとんどが親しむ伝説の小山「フンベ山・鯨山」が、登別漁港 (フシコベツ・古い川)を隔てて、白老町のポンアヨロに続いている。
 
 登別の町並みもハシイナウシの丘から眺めると、春とともに緑の高台に囲まれた静かなたたずまいが 広がって美しい。フンベの西側に登別川が町の南から西北にかけて川の面を銀色に 輝かせながら、それでもゆっくりとした落ち着きを見せて、対岸が森になっている小さな丘のように 見えるところから大きく西に曲がり、やがてキムンタイ(山奥の森)の高台から大きく張り出している ヘサンケの右手の方向に、キラキラと光る輝きと陰を残しながら消えている。
 
 川は山から流れ、海に入るものといわれている私共の考えと異なり、はるかに遠い昔の思いをもつ人達には 「それは海から陸にのぼってコタンの後方の山奥に入って行く生きもの・・・」という考え方の あることを思い出した。それは対岸が森になっている小さな丘のような所・・・とは言うまでもなく「アイヌ 神謡集」の著作で知られる知里幸恵と弟の天才的言語学者知里真志保の育った所である。
 
 
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 ハシイナウシの丘を東に進むと大きな石碑がぽっかりと立っている。アフリカ産であるが、 黒い御影(みかげ)石に白く太い文字は少しくらい離れていてもよく分かる。
 
 「銀のしずく 降れ降れ まわりに・・・」と。
 
 22年前、知里博士の同窓生約10人の聞き取り調査に、登別高校郷土史部の山岸誠君・川島信晃君・ 片山哲也君らと幾度か登別を訪ねた。
 
 当時66歳の高見チヨさん・片倉ミヨさんら知里博士の小学校時代の思い出では、普通のいたずらっ子 の少年であったらしい。
 
 「とてもヒョウキンで他愛のないイタズラをしていましたよ。例えば、授業が終わって先生が廊下を歩いて いると、静かにうしろについて行って先生の歩くまねをしたり、こっそり先生の肩をたたく仕草を して、見つかりそうになったら急いで真面目な顔をして真っすぐ歩く。小学校3・4年頃までは、天真爛漫 (てんしんらんまん)で勉強も普通」と、語られた真志保少年はどう成長していくであろうか・次回で紹介。
 
 
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知里真志保を訪ねて  生い立ち・中学校受験

 知里博士にかかわる「聞きとり調査」をさらに進めてみたい。
 
 「知里真志保の父である高吉さんは、登別温泉の開拓者滝本金蔵の建てた「湯本の滝本」 で少年時代に奉公し努力した人。数学的能力や生活意識も高かった。だから、もとは自分たちの ものであった山林や土地の払い下げを政府から受けて最後まで手離すこともなく持っていた。 当時の登別の部落(登別本町)は貧しい人も多く、家屋は原木を縄で縛り、屋根・外壁はドングイ (イタドリ)や葦(あし)で囲った家が多い中で、知里さんの家は木造建て、縁側のあった 立派な家であった」。昭和49年、故鈴木島一郎氏当時82歳のお話である。
 
 父の高吉さんは、明治17年(1884)生れ。今年で104年を迎えた明治25年開校の 登別小学校第1期卒業生である。
 
 登別温泉と登別の草分けと言われる滝本金蔵・さた夫妻のもとで奉公した苦労人なので、経済的にも 明るく、現在の登別本町2丁目の登別川沿いに近い栗の大木の繁った所に、書院風の窓・床の間や縁側のある 立派な家に住んでいた。
 
 母のナミさんは、著名なユーカラの伝承者金成マツの妹で、英人宣教師ジョン・バチェラーの すすめで姉のマツとともに、函館の聖公会アイヌ伝導学校に学び優秀な成績を残している。
 
 従って、家庭の生活も進歩的で姉の幸恵(ゆきえ)は旭川区立職業学校・兄の高央(たかなか)も 室蘭商業から小樽商業専門学校(小樽商大)と当時としては立派な教育を受けている。
 
 
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 「大正13年ころの室中通学時代、知里さんは英語・数学がよくできた。そのころの学校生活は 、上級生と下級生の区別が厳格で下級生は絶対服従、全員同じ列車に乗り、室蘭駅から整列して集団登校する。
 当時、登別から室蘭駅までの汽車通学は、ヤマ方面(ヤマセ風・東風の吹く太平洋岸で、東室蘭から登別・ 白老・苫小牧地方)伊達方面などといって、通学区域の仲間意識も強く、5年生などの上級生が車内を統率 するので、人間関係では問題なかったが、輪西・母恋・室蘭方面など地域を異にした当時のくちさがない 蛮カラ連中の視線でいやな思いもあったらしい。登校中の車内はみんな勉強しているが、知里さんには余裕が あったように思う。なにしろ、級長であったし3年生のころは下級生の座席に行って特に英語・数学を教えて、 冗談をいっては笑わせていたようだ。しかし、時には急に黙り込んで不愛想になることもあった。優秀なだけに、 上級学校進学のことを思い、経済的に悩み深く考えていたのではないだろうか」。昭和49年、故宮武清一氏当時69歳。
 
 真志保は、登別小学校卒業後、まもなく、叔母金成マツのいる旭川へ行き、北海道庁立旭川中学校を受験したが落ちてしまう。
 
 姉の幸恵も「性格は善良、学業も優等、また勤勉であるので賞品を授与する」と、旭川尋常小学校で特別の賞状を受けて いたのにもかかわらず、庁立旭川女学校を受験して不合格になった。成績は、良好であったという。
 
 日露戦争(明治37・38年)の時、ロシア軍の要塞二〇三高地を攻撃するのに、日本軍は6万余の死傷者を出したが、 最後に陥落させ名声を上げたのが旭川の第7師団であった。その軍隊の拠点、旭川にある庁立女学校で、軍人の子女でさえ 落第生がでるのに「アイヌを入れたら日本人の恥」という差別から幸恵は落とされたのであろう。
 
 真志保も、前記のように、登別小学校卒業と同時に旭川中学校を受験したが、姉と同様の差別からであろうか。入試で落ちている。
 
 その後、旭川の北門小学校高等科に入学したが、栄光に輝く軍隊の町旭川に見切りをつけ、 高等科2年の時登別小学校に転入学、卒業と同時に室蘭中学校を受験する。
 
 新入生150人中3位という優秀な成績であった。
 
 
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知里真志保を訪ねて 生い立ち・中学時代のひとこま

 登別小学校高等科2年を、大正12年(1923)に卒業した真志保(ましほ=通称真志保・ましお)は、室蘭中学校入学者150名中 3番目の優秀な成績で合格した。
 
 入学後の学級長は、成績順位で決めるので真志保は3番目の3組の級長になった。入学後の成績も、特に英語は開校以来の実力者と言われ、 数学・国語力も抜群、学年トップの学力者であったが、アイヌでありリーダーとして表面に出ては目立つので、真志保は故意にある科目の成績を 下げ、学年では20番程度を維持していた。
 
 その下げた科目は体操であった。当時の体操の内容は、武道(剣道か柔道)・軍事教練・体操となっていた。
 
 武道は兄の高央(たかなか=通称高央・たかお)が室商で剣道をしていたので、彼は柔道を選び、兄に負けたくないと頑張っていたし、登別神社 (現在の花園神社)の祭典角力(すもう)に出て、得意であったようである。
 
 しかし、学校の教練や体操の時間は全員に号令をかけ、指揮命令するなど目立つ存在であったため、苦痛な時間は欠席することにより点数を下げて いたらしい。体操は甲・乙・丙のうち、最低の丙であった。
 
 
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 ところで、当時、通信箋(せん)は保證人に見せて印鑑をもらう必要があったので、 金澤屋のご主人に見せなければならなかったが、体操の評定の“丙”は一寸(ちょっと) 情けない。それで、考えて丙の所をナイフで削り、甲と書きかえたのを見せ、保證人の関門は 通過した。しかし、そのまま学校に提出し、担任に見つかって大変な叱責を受けた。このことは、 「室中四八会誌」に当時の英語担当・榎俊三郎の「知里真志保君のこと」として記載されている。
 
 アイヌ語地名の大家山田秀三が真志保の保證人金澤又助にあった時のお話も聞いたが「 彼がしょっちゅう学校を休んだので、学校との関係で困ったことがありました。でも随分と偉い 学者になったのですね」と言う話でした。
 
 特に、上級生になってからの欠席が多く、5年生に進学するときは1年間休学し、卒業までに 6年かかっている。これは、前記の「表面に立つこと」を嫌った理由ではなく、経済的 理由からも学校を休んでいたのである。
 
 室中同窓生発行の白鳥会(はくちょうかい)会報に、「白鳥湾(室蘭港)にみなぎる剛健の気風として 『文学者八木義徳』『天才アイヌ語学者知里真志保』」を大見出しで紹介しているが「知里は、月謝に困る と学校は休む」という見出しも見られる。
 
 会報には「アイヌ出身者という世間の好奇な目を浴びながら一高、東大に進む。やがて『分類アイヌ語 辞典』という不世出の労作で、アイヌ語学者の地位を不動のものにするが、彼の人生は 『差別と貧困』を生涯の敵としていた」と記載されている。
 
 
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 当時、兄の高央も小樽商業専門学校(現在の小樽商大)に進み知里家の家計は大変であった。
 
 それにしても、52歳の生涯を通して、多数の本を著したが、最初の著書は、登別から汽車通学を していた室中時代のものである。
 
 題名は「山の刀禰(とね)・浜の刀禰物語」で、刀禰はいろいろな訳があり、和訳は村長(むらおさ)・ 里長(さとおさ)の意味もあるが、内容は四方やま話のようなものである。
 
 アイヌ語では「パナンペ・ペナンペ・ウエペケル」で、真志保は「川下の者・川上の者の昔話」と言い、 分かりやすく言うと「正直爺(じい)さん・意地悪爺さん」の形で「川下の良い爺さん、川上の悪い爺さんの 物語」で、結果は川下の良い爺さんが成功する話なのである。
 
 
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知里真志保を訪ねて  パナンペ・ペナンペ物語

 真志保の著(あらわ)した「パナンペ・ペナンペ・ウエペクル川下の良い爺(じい)さん・川上の悪い 爺さん物語」は「鯨爺(くじらじい)さん、虱(しらみ)をとりましょう」という主題で、登別地方の伝承を 次のように残しております。
 
 むかし、パナンペとペナンペがおりました。ある日、パナンペが浜へ出てみると鯨が陸に上がっていました。 そこでパナンペが「鯨爺さん、虱をとりましょう」と言いながら、衿(えり)くびに身をよせ、鯨爺さんの肉を さんざん食べ終わった頃、鯨爺さんが沖へ向かって泳ぎ出した。
 
 パナンペはその時「ヤイ行きやがれ!頸(くび)もげ野郎め!」と悪態(あくたい)をついたので鯨爺さんは 「そんなこと言いやがって!殺してやる」と怒って追いかけてきた。パナンペは急いで山の方へ逃げて行ったが、 途中、木の上の一羽のカケスが「狭い谷を通れ!」と言ったので狭い谷を逃げる。鯨爺さんは、谷間の狭い道を 通れないので、怒りながら引き返した。
 
 パナンペが、お腹一杯で豊かな気持ちで家に居ると、ペナンペがやって来て「お前はどうして長者になったのだ?」 と聞いて、その訳を知るとパナンペの家におしっこをひっかけて出て行った。
 
 さて、ペナンペが浜に行くと鯨爺さんが陸に上がっている。そこでペナンペは「鯨爺さん虱をとりましょう」と 言いながら、鯨爺さんの衿くびの肉をさんざん食べたのである。それから鯨爺さんは沖の方へ泳ぎ出すとペナンペは 「やい行きやがれ・・頸もげ野郎め・・」と悪態をついたので鯨爺さんは怒って追いかけてきた。ペナンペは急いで 山の方へ逃げていくろ、途中木の上の一羽のカケスが「狭い谷を通れ1」と言ったがペナンペは、親切者の言うことを聞かないで 勝手に広い谷の方を逃げたので、鯨爺さんは悠々(ゆうゆう)と広い谷を通りペナンペを捕らえて殺してしまった。
 
 
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 殺されたペナンペは「自分がつまらない悪死(わるし)にをしたが、これからは、他人に 逆(さか)らったり、馬鹿にしたら駄目だよ」と他のペナンペに語ったという。
 
 知里真志保「アイヌ民譚集(みんたんしゅう)」の文ですが、日高地方は「鯨婆さん」胆振幌別地方は  「鯨爺さん」として語られていたことを解説しているので「鯨爺さん」とした。
 
 室蘭中学四年生の時に発表した此(こ)の「アイヌの昔話」について、金田一京助博士は「これが 中学生の手でつくられた仕事か・・・と驚嘆し、神謡集(しんようしゅう)で知られた姉幸恵の再来のように 見えて、眼に溢れる涙を拭いつつ一行一行を読んだ」と伝えております。
 
 さて昭和4年(1929)20歳で旧制中学校を卒業した真志保は、幌別村役場に勤務する。
 
 当時の幌別村役場は、現在の幌別駅東口、幌別町3丁目の道南バス停留所を入口に、国道側に面した「全国一 停留所に近い役場」で、村長は自由闊達(かったつ)な松田熊吉(まつだくまきち)さん。吏員は 約10人程であった。
 
 
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 20年前、山崎正一さんが、当時の真志保について語ってくれた。
 
 山崎さんは明治35年生まれ、幌別駅前東口で二階を楼閣(ろうかく)で 飾ったしょう洒な旅館を経営していた。
 
 昭和18年、北大の北方文化研究室の嘱託(しょくたく)であった真志保が、札幌 はバチェラーの旧宅、登別では幌別の山崎旅館に下宿し、樺太時代の論文を 纏(まと)めていたようである。
 
 「室中を優秀な成績で卒業したので、彼は幌別村役場に勤めることができた。真じめな 性格で、仕事もすぐ覚えたが周(まわ)りとの交際はなかったようである。『幌別村役場 にも居たんだね』と聞くと『受験勉強もあったしすぐやめたよ』という返事。役場に勤め、 当時の戸籍簿をみて、民族的差別語のあることに心から怒っていたのでしょう」と 山崎さんは当時を語った。
 
 

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