郷土史点描(11) 宮武 紳一
鷲別町を訪ねて 漁業のまち・砂丘から砂鉄産業へ
鷲別町内で、最も早く開けた地方は、鷲別神社の北側、鷲別川西方のなだらかな丘陵地です。
現在でも、西北の寒い方を背にして、暖かい太陽の恩恵を受ける南東向きに窓を向けますが、江戸時代初期
「わしべつはシャクシャインの持ち場」として5・6戸の家がこの地方にあったのでしょう。
当時の鷲別川は、現在想像も出来ないほどの深い森林に被(おお)われ水量も豊かで、春・夏はマス、秋には、
サケが大群を作り鷲別川をのぼりました。
明治・大正期にも鷲別川からワシベツライバ川を通り新生町・富岸町の方まで、マスやサケが沢山のぼっていたようです。
鷲別岬付近の海は魚の宝庫です。江戸時代「遠山金四郎のクジラの潮吹き風景」の記録は勿論、岩礁に生息していた
ウニ・アワビ・ツブ・ナマコ、前浜のカレイ・イワシ・スケトウダラ・ソイ、沖合のメヌキ・カジキマグロ・
サメなどの群遊魚も多かったのです。
また、豊富な水量を湛(たた)えた鷲別川の川口は立派な漁港としての役割を果たし、鷲別岬名物のローソク岩も
現在の防潮堤の所に屹立(きつりつ)していました。この名物岩も第二次大戦後、道から漁港整備の指定を受け防潮堤
工事の時に破壊されたのは残念な事でした。