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郷土史探訪(8)   宮武 紳一

登別の開拓と森林

 今から約百十年前、幌別郡の所領支配を命じられて入植した、片倉家の人によって作成 されたと思われる「胆振国幌別郡全図」をみますと、登別地方の森林分布の状態がおおよそわかります。
 
 木材の種類は、桂、トド松、エゾ松、ナラ、ドロ、セン、イタヤ、栗、タモ、クルミ、カバ、ホウノキ、桜 などが多く、竹は地竹(根曲り竹)、筋竹(シャコタン竹に似ている)が記録されています。
 
 開拓に従事した昔の人達にとって開拓の第一歩は、うっそうとして空をおおう巨木の原始林をきり倒し 耕して畑地をきり開くことにありました。
 
 「天をもしのぐ大木と密生するくま笹が相手では、まさかり、カマ、そしてクワなどは赤子(あかん坊)のおもちゃに 過ぎず、やっと切り開いたわずかの土地に種をまいても、畑の周囲にそそりたつ大木は、夏は葉が茂って畑に陽があたらず、 木によじ登っては枝を切り払ってわずか日光にあてる。
 
 しかし、花は咲けども秋に実はみのらず収穫は皆無に等しい悲惨な結果に終わり一家の者はただぼう然とするのみで あった。」と、登別地方の開拓日誌「丈草の記」に書かれています。
 
 
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 このため、昔の人達は開拓の邪魔になる森林の木を切り倒して燃えやすいアカダモ、 ヤチダモ、シラカバなどはすぐ燃やしたり、立木のまま皮をむいたり、切りつけて枯死 させたりして処理し、せいぜい開墾者の燃料か家屋の建材になるぐらいで、木材の商品化 という事はあり得なかった訳です。
 
 しかし、人口が少しずつ増加し、明治五年には現在の国道がある札幌本道が室蘭から 札幌まで通じ登別市内も通って交通が便利になると木材の需要はもちろん木炭の生産が 盛んになって市内各地で炭焼き小屋ができました。
 
 炭の材料として一級品のイタヤカエデは、手のひらのような葉が一杯に茂るので木の下 にいてもあまり濡れず、まるで屋根をつけたようなので板屋カエデとよばれていますが、 火つきもよく、火が長もちして火がはねないのでよく売れました。
 
 その他ナラ、カシワ、クヌギなどが豊富なので、薪炭業も登別地方では盛んでした。
 木の利用に関係して、登別地方にも多くの昔話が残っています。
 
 たとえば、カンボクはあまり大きくならない木で、花は枝さきに白くかたまって付き、赤い きれいな果実がつきます。
 
 
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 これをパシクレプ(カラスの食うもの)といって、人間は食べませんが、胃の薬や、 赤い実の液を目薬にしたり、また魔よけとして家の入口に立てたりしました。
 
 「山の神さま、私が木をきるのは、火の神さまの食料をとるのですよ。」ーこの歌は、 登別地方で昔の人達が山へ行ってまきを切る時に、歌って切った昔話のうたです。
 
 まきは火の神の大切な食べもので、まきを燃やすことによって火の神はこの食べ物を食べ、 代りに人間を温めてくれます。
 
 このため、たき木のまきは、神聖なもので、枯れていたり、腐った木は燃やしては いけないとされていました。
 
 この他、人間に食料をさずけてくれる木、家つくりに使う木、衣服をつくるための木、道具を つくる木、丸木舟にする木、薬にする木、毒に使う木、その他神をお祭りしたり魔物を 追い払うために使用する木などのお話も残っています。
 
 
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登別の開拓と森林

 登別地方のアイヌ語地名には、それぞれの樹が群生していることによって名づけられた 地域があり、むかしの樹の分布状況も部分的にわかります。
 
 例えば、登別から温泉に行く途中の中登別の桜並木は昭和九年から植えられたものですが、 並木の東側一帯の丘陵地は江戸末期から南部藩が馬の放牧場として使用したところで、その後 昭和にいたるまで牧場として利用され、陸軍では馬車訓練所を設け、大戦後は農林省の家畜試験場 となったり古くから牧場として知られている所です。
 
 ところがこの地帯は「カシヤムニウシ」(栗の木の群生している所)と昔から呼ばれていた地域で 現在でも栗の木が多く繁っています。
 
 江戸末期の安政二年(一八五五年)当地方を探検した長沢盛至の「東蝦夷地海岸図台帳」にも 登別地方にカツラ、栗、センの木が最も多い事が記されています。
 
 登別にあるこれら樹木のきり出しには、江戸末期からすでにはじまっていますが、本格的な林業は明治に なってからで、鷲別岳のふもと、カムイヌプリ東部、幌別川の川上や来馬岳のふもとからは主としてトド松、 オカシベツ、来馬川、登別川上流からはエゾ松の良材がともに蝦夷のひのきとして一時きり出されました。
 
 明治十四年以降の登別市の貴重な資料である「村治類典」には、これら良材のきり出しや払い下げ願いと 同時に伐採地には、ひのき杉を植樹して、成育の状況は良好であった記録もありますが、現在は杉も部分的にみられるだけです。
 
 
 
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 それに農業中心の開拓は、原始の森を征服する事が第一であったので、畑にする ためには大木といえどもきり倒し、生活に必要とする以外は焼却しながら処理したという 荒っぽいやり方でしたから、早く入植した幌別、冨浦、鷲別地区や海岸に近い 森林資源はすぐ枯渇してきました。
 
 それに人口が増加し、明治二十五年室蘭と岩見沢間に鉄道が開通するようになると、 栗の木がまくら木としてきり出され、ナラの木は道内屈指の良材としてつみ出され、 登別地方に多くあったカツラも少なくなりました。
 
 もち論奥からのきり出しは、林道の開削に膨大な資金を必要としますので、登別川、 来馬川、幌別川では上流からの川流しによる搬出が行われたり、冬期間雪の上を馬で引き出したりしました。
 
 川の形は、登別のどの川も大きくだ行していましたが、砂利の採取もなく、木はうっそう として茂り工業用水、飲料水としての取水もないので、川幅はやや今日より狭いが、水量は 豊富で水深もあり川流しに便利であったようです。
 
 
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 しかし木材の搬出は、機動力のない昔は雪を利用する冬の作業なので大変でした。
 
 山行きの服装は、ひざ下までのモンペかモモヒキをはいて、足にワラで作ったハベキか 夏はブドウの皮をまきつけてけがをしないように、腰には犬皮、熊皮などの毛皮で作った アテシコをつけ、夏はわらじ、冬は布で足を包んでツマゴをはいていました。
 
 上着は、木綿を幾枚か重ねて細く刺したサシコのドンジヤに、冬は毛皮の外とう、寒い場合は 中にそでなしの毛皮か、毛皮の背あてをつけ、腰にナタをさげる、それにむしろで作ったショイコ の中にのこぎり、まさかり、弁当などを入れて背負った姿が当時の山仕事をする人達の服装でした。
 
 
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町の地名を訪ねて

 私達の住んでいる登別市は、現在三十七町という多くの町に分かれています。
 三十七町の町名に変更したのは昭和四十九年四月で、それ以前は十五の町名しかありませんでした。
 
 町名の変更から今日まで七年たちましたので、新しく住みついた人達にも自分の住んでいる町の特色なりを 肌で感じ、戦前から住んでいた人達には、地域によっては必ずしも昔から由来のあるなれた地名 でないにしても、親しみのある町名となりつつあるのではないでしょうか。
 
 今回から、三十七の町名の由来を訪ねながら、町に埋もれている歴史をできるだけ掘りおこしてみたいと思います。
 
 まず三十七町をもつ「登別」が「幌別」という名称から変更したのは昭和三十六年のことで、町から市に変わったのは昭和四十五年です。  
 町名を「幌別」から「登別」に変えたのは、いうまでもなく東洋一を誇る登別温泉の知名度から 町名を代表させることになった訳です。
 
 
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 登別温泉が全国的に有名になったきっかけは、明治三十七・三十八年の日露戦争の時に、 陸軍省から第七師団の療養所に指定され、多くの傷病兵や見舞客が全国から集まって宣伝され、 飛躍的に発展した時からです。
 
 当時、全国からくる手紙の住所も北海道胆振国幌別郡登別村字湯ノ滝(または温泉場) と書くのが本当の住所ですが、それが「北海道温泉場」と書くだけで九州からの手紙でも 登別の温泉に着くほど知られるようになりました。
 
 北海道の開発とともに、明治四十年には日本製鉄、日本製鋼所、幌別鉱山の開発、その他札幌 など道内各地に来る政界、財界、文化人らは、必ず登別の温泉に立ち寄るので、彼らの口からも 「登別」の名が知られるようになり東北第一の温泉場になります。
 
 「登別」の地名は、アイヌ語「ヌプルペツ」色の濃い川という意味で、この名称がいつから名付け られたのかは明確ではありませんが、江戸時代の中過ぎ一七五〇年以降の古文書には、 ノホルペツ、ノプルヘツなどという地名が時々でてきます。
 
 
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 多くの疑問もあるところですが円空の残した「鉈作り観音」の温泉由来の歴史からでは、 千六百年代に「のぼりべつ」の名もみられますが、いずれにしても「登別」の地名も 江戸期までさかのぼる古い地名です。
 
 また、「登別」に変わる前の「幌別」の地名の歴史は古く、今から四百年前の文禄二年、松前 慶広が蝦夷が島(北海道)の島主であるという朱印状を豊臣秀吉からもらった時に、差し出した 書状の中でイブリに六領をおきましたが六領の中に「ホロベツ」という地名があり徳川の天下 になってからは、徳川家康に蝦夷島三絵図を献上し、その中に「幌別場所」の名前が のっていますので、このあたりがホロベツの名で最も古いものでしょう。
 
 世界地図の上で、それも外国人に紹介されるのはめずらしい事ですが、鎖国時代に我が国と 交易していたオランダのマルテン・ド・フリース船長は蝦夷地を探測した最初の人で、 一六四三年松前から根室までの調査の中に「パラピト」とよばれる地名で「ポロペツ」を紹介しています。
 
 その後は、江戸時代を通じて文献によくでてきますし、この時代鷲別から登別地方の中心的商場で幕府 直轄時代にはホロヘツに会所がおかれました。
 
 
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ジョン・バチェラーの生活のあと「青葉町」

 春の生き生きとした緑と町の発展を望んで名付けられた青葉町は、昭和五十年には六世帯人口二十五人でしたが、今日では 登別市職業訓練センター、登別南高校、登別中央病院、青葉小学校などや付随する建物もできて、 様相を大きくかえつつあります。
 
 登別南高校から登別市職業訓練センターにかけての地域は、明治中期から開拓された所で、現在でも 住居跡とイチイ(オンコ)の木が残されています。
 
 国道36号線を走る車や国鉄の汽車の窓からも、雑木林の山麓に牧場の美しい姿を見せているのが 吉鷹敬次郎氏の経営する通称吉鷹牧場で、ここにはアイヌ人の父と言われた英人宣教師 ジョン・バチェラーの住宅がありました。
 
 彼は幌別・函館に愛隣学校、札幌にバチェラー学園、アイヌ病院などを建て、社会事業、 言語学、民族学などの研究をすすめ、本国では神学博士を授与されています。
 
 我が国では、特に人類愛的な活動で明治天皇や皇室の方々から多くの褒賞を受け、一生を 北海道で終る決意をしていました。
 
 
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 しかし、昭和十六年十二月日本と英米の情勢が険悪化すると外人である彼は 身の置場がなく、八十八歳の身で仕方なくイギリスに帰国、昭和十九年九十一歳 で亡くなりましたが、最後まで北海道に戻る夢を持ち続けたと言います。
 
 そのバチェラーが北海道に渡ったのが明治十年で、幌別に来住したのは明治十九年 の彼が三十三歳の時でルイザ夫人を伴って幌別のカンナリキの世話になりました。
 
 来住の目的は布教活動の場として、南端の函館よりも北海道の中央に近い所を考えた でしょうし、また、カンナリキの子供の金成太郎からは、函館でアイヌ語を習って いた関係もあって、幌別に来たものと思われます。
 
 青葉町に近代的な住宅を建てたのは明治二十年以降のようです。
 
 今でもその建物の跡と思われる敷石が残っていますが、その大きさから見ますと 約二十坪くらいで当時植えたと思われる、イチイ(オンコ)の木やポプラがかなり 大きくなって残っています。
 
 
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 明治三十八年生まれの吉鷹ワキさんのお話では、家の前と思われる所に 池の跡があり、菜園のように思われる所にアスパラがあったし、水仙は今でも 残っているというお話です。
 
 また、東京在住の金沢タキさんは明治四十年生まれですが、幌別町の幌別川よりの 海岸から、白く美しい教会風の建物を望むことができたと話してくれました。
 
 身体の大きいあごひげを伸ばした彼が「イエス・キリストを信ぜよ」と、柔和な 微笑みをうかべながら語りかける姿を知る人は少なくなりましたが、幌別から 札幌へ移住してからも大正期には時々来ていましたので、彼を語る人がまだおられる 事はうれしいことです。
 
 青葉町と遺跡との関係では、吉鷹牧場の中心近くに、北海道縦貫自動車道が建設される事に より、緊急な遺跡発掘の調査が道文化財保護委員会の手で実施されました。
 
 今から三・四千年ほど前は、若山町・緑町の低地帯が一部海岸、または海跡湖のように なっていましたから、青葉町の五メートルから十メートルくらいの台地付近からは、 縄文時代の遺物である土器や石器が時々発見されます。
 
 遺跡発掘の出土遺物については約四・五千年前の縄文中期の古い土器が見られますが、緑の 町「青葉町」にも古代人の古い生活の歴史があるわけです。
 
 
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「ホロベツ大根」の名産地「柏木町」

 柏木町の町名は、カシワの木が多かった地域として名づけられたようですが、今日では、 カシワの兄弟であるナラの木が柏木町の山麓に多く成育しています。
 
 柏木町は、昭和九年に郡内の地番改正が行われた時は、常磐町や富士町などを含めて 来馬町という地名になっていました。
 
 また、昭和九年以前の登別市の前身である幌別郡内の旧字は、百十余りの地番があり、 現在の柏木町は、来馬川の流れの西方にあるので西ライバと呼ばれた他、オビラカシ・ 小平河岸などの地名も柏木町内に名づけられていました。
 
 来馬川上流の柏木町や東来馬地区に当たる常盤は、明治十四年以降の讃岐や淡路国を 中心として移住した人たちによって開拓されました。
 
 明治十四年、この地方に入植した時の状況を記録した「丈草の記」に、「当時の来馬 一帯は、うっそうとした樹林におおわれ、直径一メートル、中には一・五メートルほども ある原始の巨木は、枝を交えて天空にそそり立ち、手に持つ斧ではどうすることもできなく、 ただあ然としているばかりだった。」と書かれています。
 
 
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 例えば、柏木町に多いミズナラやシナの木、センの木、カツラなどは高さ二十五メートル から三十メートル、直径一メートルから一・五メートルにもなりますし、数百年を経てこれらの 大木と通常熊笹と言われる笹や、凶暴な熊と野生の馬などに加え、ブヨ、アブ、蚊などの 大群相手では、書き表す事のできない、自然との多くの苦闘があったものと思われます。
 
 しかし、柏木町の山麓地や五丁目の奥の方まで、大量に木材が伐り出されたのは、明治二十五年 室蘭と岩見沢間に北海道炭鉱鉄道が作られた時です。
 
 室蘭と言っても、現在の輪西の新日鉄仲町第一門付近に初めて室蘭停車場がつくられ、 この時に幌別と登別停車場が開設されました。
 
 この鉄道建設工事は、明治二十三年から行われ、鉄道枕木材として、柏木町を含む来馬 地帯からたくさん伐り出されました。
 
 柏木町一・四丁目や富士通り周辺は、早くから農業が行われていた地域ですが、作物は 大豆、小豆、トウキビ、そばなどが作られていたようです。
 
 
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 また、大根の作付は明治十三年頃から行われていましたが、明治二十八年に 商店も経営していた赤根茂助が大量に、しかも本格的に大根を生産して、室蘭へ 馬車で積み出したところ、他の作物の作付面積に比較して最高の利益で売れたので、 その後柏木町を含む来馬地域では、大根が優先して作られるようになりました。
 
 明治末から大正、昭和の初期にかけて、近隣の輪西や室蘭へは馬車で、また幌別駅 からは台車で札幌や旭川方面にも「幌別大根」として移送され、有名になりました。
 
 柏木町一・四丁目を流れ、常磐町と境を分けている来馬川は、また、さけの保護区域 としても知られていました。
 
 来馬川の上流、柏木町五丁目の辺見春義氏宅裏側で川が別れ、右に流れるのがシライパ (本当のライパ)そして左の方に流れるのがポンライパ(子であるライパ)で、 このポンライパの上流約三百間(五百四十メートル)がさけの産卵場として禁漁区域でした。
 
 禁漁区を設け、保護していた当時は、幌別川も大漁であったと伝えられています。
 

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