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郷土史探訪(4)   宮武 紳一

知里真志保を訪ねて

 この美しいユーカラの詩の一節は、十九歳の若さでこの世を去った、知里真志保の姉、知里幸恵のノートに 綴られた「アイヌ神謡集」の「梟の神の自ら歌った謡」の一節にあります。

 登別小学校前に札幌街道「旧国道」を西の方にのぼりつめると、まもなく南の方に広がる、ハシナウシ(海の幸を祈る 幣場のあったところ)の丘があり、平坦な場所の東の方に、知里真志保の功績をたたえ、霊をなぐさめるために 建てられた立派な石碑があり、この詩の一節がここにきざみこまれています。

 昔、この北海道には、そして登別地方にも、アイヌの人達によってつくられた生活と文化がありました。
 しかし、これらは消えてゆく悲しい宿命を背負って新しい時代の渦に沈んでいきました。
 
 その中で、貴重な数々の記録が系統的にまとめられ、研究、発表されるという偉大な仕事が、知里真志保を はじめ、姉の幸恵や叔母の金成マツ、そして祖母のモナシノウクという、登別の生んだ素晴らしい人々に よって進められたのでした。
 
 
 
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 海の見える、川のある丘に住みたい
 知里真志保の石碑は、登別市在住の旧制室蘭中学校同窓生である宮武清一氏や中林豊次氏らを 中心とした小学校、中学校にゆかりのある仲間によってつくられた記念碑です。
 
 彼が生前「海の見える、川のある丘に住みたい」と仲間に話していました。
 ハシナウシの丘からは、自分が子供の頃育ち、叔母の金成マツの家があった北側に、母なる川 ヌプリペツがゆったりと流れ、南の方には鷲別岬や遠く恵山岬に続く山々そして前面は、ポンアヨロ 岬のつき出た太平洋を見渡すことができます。
 
 この丘にある記念碑の趣旨文には、次のようなことが書かれています。
 「知里真志保君は、明治四十二年二月二十四日、父高吉、母ナミの二男として当登別に生れた。
 彼は、アイヌ民族の血をうけた勇敢な少年であった。登別小学校から、道立室蘭中学校に進学、私共 室中同窓生の一人である。
 
 彼の天才的頭脳のひらめきは、在学中もその非凡をあらわし、コンサイス英和辞典を一日一枚ずつ 記録しては破り捨て、ついに一冊の単語全部を覚えたという逸話もある。
 
 一高から東大に学び、学者となり、文学博士の称号を得て北大教授、東京大学講師などを歴任した。
 彼は学位論文のアイヌ語辞典のほか、山田秀三氏と共著の幌別町のアイヌ語地名など数々の著書がある…。」 と彼の彼の人生の一端を説明しています。
 
 
 
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 天真らんまんの幼少時代
 登別小学校時代に、彼と同級生でした、登別在住の高見チヨさんは思い出を次のように 話してくれました。
 「私達の小学校時代は、みんな仲が良かったし、誰ともよく遊びました」
 
 真志保さんは非常にひょうきんな方で、よくたわいのない一般生徒がするいたずらをしていました。
 例えば、先生が廊下を歩いていると、後方から静かについて行って、先生と歩くとおりの真似をしたり、 後から先生の背中をさわる様子をして、気がつきそうになると、急にまじめな顔で知らぬふりをするなど、 それはまったく天真らんまんでした。
 
 勉強の成績は普通で特別優秀という記憶はなかったが、中学に入学した時は最高点をとったというし、 後には東京帝大に入学したくらいだから、素晴らしい頭の持ち主だったのですね。」と当時のことを 語ってくれました。
 その後、彼は、大正九年登別小学校六年の途中で旭川の小学校へ転校します。
 旭川には当時、彼の叔母で後に無形文化財ユーカラの伝承保持者として国から指定をうけ、紫綬褒章をうけた 「金成マツ」と、その母親で北海道有数のユーカラの名人でした「モナシノウク」もいましたし、そのマナシノウクの ひざに、六歳の時からユーカラを聞きながら抱かれ育った姉「幸恵」がいました。
 
 そしてこの家庭に、幌別で愛隣学校を開き、キリスト教の布教に努力したイギリス人宣教師 ジョンバチェラーの紹介で、当時三十六歳の新鋭学者金田一京助博士が訪れました。
 この事が後に、知里幸恵や真志保を宿命的に決定づける重要な意味をもつことになってきます。
 
 
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知里真志保を訪ねて

 「私の背後には一万数千のアイヌがいる。私はそのアイヌの為にも頭を下げることはできないのだ」 これは、第一高等学校から東京大学へ進んだ知里真志保が常に言っていた言葉です。
 
 室中時代、彼は良い教師に恵まれていますが、中でも榎俊三郎は彼をよく理解していた一人で、 授業料の支払いにも困っていた状況をみて、アイヌの昔話「山の刀禰浜の刀禰物語」を書かせています。
 
 これは彼の最初の著作であり、母からの助けもあったのでしょうが非凡な才能を表わしたもので、 この原稿は榎俊三郎の東京の友人から中央公論社、その他の有名雑誌に売り込まれています。
 
 しかし雑誌社ではアイヌ語部分の校正ができないので金田一博士の所属雑誌「民族」に発表されました。
 金田一博士はこの原稿について「これが中学生の手によりできた仕事であるのか」と驚き、また知里幸恵の 弟であることに喜びで一杯であったと言われています。
 
 幸恵がある時、金田一博士に「私は頭が悪いが、弟の真志保であったならば先生のよきお手伝いが できるでしょう」と言った事を思い出したわけです。
 昭和四年三月室蘭中学校を卒業した真志保は、幌別村役場に勤めています。
 
 
 
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 小学校卒業の多い中で、中学卒は立派な履歴です。しかし彼の見たものは、戸籍上一般和人と 区別された名称で、怒り悲しみすぐに役場をやめてしまいました。
 
 その後、草刈り人夫までしたと言われています。
 当時の役場勤務の状況を、故人となった田代茂氏(昭和五十年の当時七十七歳)は次のように語っていました。
 
 「知里さんは、まじめな性格で仕事の内容はすぐ覚えたが、仕事の能率は特に早いという程では なかったし、人々との交際もほとんどないので…。だからすぐ役場をやめた理由もはっきりしないが、 考えてみると彼は才能もあったし、恐らく人種的偏見の強い当時の社会で、役人のむずかしさを 感じたものと思います。

  特に戸籍の取り扱いをして、土地台帳を見て、和人との差別を文字の上ではっきり見た時。 真志保さんの甘んじていられない強い性格は反発となってあらわれたのでしょう。
 
 その後、東京へ勉強しに行ったという事を聞いて、何か安心をしたような気がしたが、何の勉強を しに行ったのか全くわからなかった。」(登別高校郷土史クラブ聴取)というように、彼の反発心は高まり、向上心が 次の段階へと歩を進めます。
 
 
 
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 しかし、彼が幌別の役場を辞した理由の裏には、姉の幸恵が書き綴った「神謡集」 へのあこがれや偉大なユーカラ詩人でした金成マツ、その母親のモナシノウク達の心の中に、 泉のように湧きでて「生きているアイヌの世界」に対して強い郷愁を感じたのではないでしょうか。
 
 アイヌの世界が生きている。これは全く素晴らしいものだ、そして私達にだけしかわからない…と。
 知里真志保の非凡な才能をみていた金田一博士は、真志保を東京の学校へ 入れてその才能を伸ばそうと考えていました。
 
 また。真志保が発表した雑誌「民族」をみて彼に誘いをかけ、知里家に真志保の援助を 申し出た、もう一人の人物に当時日本古代史の学者として有名な喜田貞吉がいます。
 
 彼の残した手紙に「今の貴重なアイヌ文化が何にも残らないで消えていくことは誠に 残念で、立派な歴史を残すためにもアイヌ語を勉強する人がほしい。
 幌別の知里真志保君は若いし、適当な人物と思ったが、お父さんの高吉が許してくれない。
 身体も健康でないというし、姉の幸恵さんのようになったらなと思うと無理もない。」と書いてあります。
 
 しかし、この頃すでに、金田一博士が真志保に、東京の学校へ入れるための受験勉強を登別でさせています。
 
 
 
 
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 受験の準備期間は短く、どこの学校に進学するかは未決定でしたが、受験手続きの 近くに上京した真志保に、当時のエリートコースである第一高等学校の英語の入試問題を させたところ、楽に解答したので一高を受験させたといわれています。
 
 一高入学後、叔母の金成マツや古老達からアイヌ語を聞き、アイヌ語の整理をしていましたが、 これも恩のある金田一博士に協力するという立場からでした。
 
 しかし、人間集団としての社会のしくみや生活条件の違い、そして体質の異なりの中で、 長い伝統と文化が育ってきた栄光と苦悩の歴史を、自分が生み出し、経験しあたかも同質のように 考えてすべてが分かっているような発表をしている学者達に彼は反発し「自分の背後に 一万数千のアイヌ達がいるのだと」と真実の姿を求めて立ちあがったのです。
 
 真志保は、その後東大英文科を一年でやめ、アイヌ語研究のために「言語学科」に変更し、 金田一博士の弟子になり、本格的に取り組むことになります。
 
 そして研究が深まれば深まるほど、血を分ち得る者だけが理解できる習俗の認識に自信を持ち、 人間理解の原質的考えや、発想の異りに強く反発することになります。
 
 「姉幸恵のアイヌ神謡集は世界的名著である、それに比べると金田一先生のアイヌ語訳は、 やはりシャモ(和人)のものでしかない」
 
 また金田一門下の兄弟子である久保寺逸彦との論争も有名です。
 「世の中に怪しい代物が大威張でまかり通っている」と、ジョン・バチェラーの 「アイヌ・英・和辞典」に対しては、特にその批判が激しく、それは、生きている世界を 書きかえないすべての者に対しての批判でした。
 
 
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知里真志保を訪ねて

 登別小学校から室蘭中学、そして我国最高のエリートコースでした第一高等学校、 東京大学英文科にすすんだ知里真志保の歩みは、やはり苦難の道でしかなかったのでした。
 
 彼が東大英文科から言語学科にうつり「アイヌ語研究」に本格的に取り組みをした背景には、 自分達の歴史への絶望的な悲哀と愛着そして、抵抗と憎しみの中で、はい上がろうとする 民族への使命感を、彼は、両肩に背負って立ち上がったのではないかと思われます。
 
 ですから、彼の研究が深まるにつれて、師の金田一博士を批判し、兄弟子の久保寺逸彦と論争し、 ジョン・バチェラーの「蝦夷・英・和辞典」などの誤りを徹底的に批判しています。
 
 そして当時の言語学界の第一人者でアイヌ研究の最高峰でした、師の金田一博士を 越える為に、彼は、樺太アイヌ・千島アイヌの研究に取り組むことになります。
 
 昭和十四年三月、東京帝大の大学院を退き、十五年の春樺太に渡り、庁立豊原女学校の 先生と樺太博物館技術員の嘱託をしながら、樺太・千島アイヌの言語や生活と住居・社会形態・ 信仰・祭儀・文学・芸術・習慣などを研究し、昭和十八年、三十四歳で故郷の登別に帰っています。
 
 
 
 
 
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 当時、幌別駅東口前にありました山崎旅館にもすこしの間投宿していましたが、この時の事を、 現在中央町に在住の山崎正一氏(七十六歳)は、次のように話しています。
 
 「私の旅館にいたのは、昭和十八年で知里さんが樺太から帰ってきた時です。
 宿の二階におりましたし、息子の公勝の英語を教えてもらいました。
 知里さんは一日中大学ノートに書きものをしていましたが、机に向かっている時は、いくら 下から呼んでも聞こえないほど熱心でした。
 その後、北大の先生になっていかれたようですが…。」
 
 彼はこの時、樺太での研究成果を集録していたのでしょうし、象牙の塔でした東京帝大に 帰り学者としての最高の地位を確保しようと考えていたのかもしれません。
 
 しかし、彼は、あえて、北大の北方文化研究室の嘱託になったことは、苦い東京の思い出や、 権威や権力に対する闘争があったからと思われます。
 
 この頃、彼には中学四年の「山の刀禰、浜の刀禰物語」からはじまり、アイヌの民譚・アイヌの 昔話・夫婦同名・アイヌ語法概説・アイヌ語法研究・樺太アイヌ語植物名彙・樺太アイヌ民具 解説その他で十種以上の著作を行っています。
 
 
 
 
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 昭和二十四年、真志保は北海道新聞社社会文化賞を受けましたが、この時、アイヌ語の語源的 研究の植物・動物・人体・生業・祭祀信仰などの「分類アイヌ語辞典」を表わすための膨大な著作を 計画していて、昭和二十八年には、第一巻の植物編が、昭和二十九年には第三巻の人物遍が出版され、 昭和三十年一月にはこれらの不朽の名著に対し朝日新聞から朝日文化省を受けています。
 
 動物編が完成したら「学士院にも推せんしたい。」と語られていましたが、この研究の密度が それほどに濃く、アイヌの世界、人間の世界と人間の姿を追求した大作でした。
 
 このように、未知の分野に新しき歩をすすめ、学究の道に洋々とした将来を持ちながら、これからが 一層光り輝く学問の道が開く時に、彼は既に、心臓病という決定的なやく病に侵されていました。
 
 だから、人間編を書いている時にも彼の前には薬屋のように薬が並び、自分で注射しながら書いたと言われます。
 
 彼が心臓発作で倒れた最初は、東大卒業論文の「アイヌ語法概説」を書いていた時で、病歴も二十年の 長きになり、この間、学問と病気との闘いでもあったと言われます。
 
 
 
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 東京大学の講師をしたのは、昭和三十一年の四十七歳の時でしたが、この頃アメリカの進んだ、 言語年代学の方法による新しい学問の分野が導入され、日本民族学協会の依頼で、雪のまだ消えていない 道内各地を、アイヌ語の採取に歩き回ったことは、衰弱した身体に、相当過酷なものがあったようです。
 
 真志保は、死の近いことを悟り無念の思いにひたりながらも、ウィーンで発表された彼の手による アイヌ伝統音楽の採取と保存に、叔母金成マツが筆録した約百三十冊のユーカラ・ノートの整理に、 不朽の大作である分類アイヌ語辞典の編集などに重いをはせると、病床でも気の休まる時がなかったでしょう。
 
 昭和三十六年四月、彼の最も尊敬していたユーカラの名人“金成マツ”は、八十六歳で亡くなりました。
 
 そして、この偉大な人を追うようにして、六月九日知里真志保は永遠の眠りにつきました。
 
 妻の美枝に、サイナラと一言言い残して彼の闘いの一生は終わったのでした。
 
 姉の幸恵が残したアイヌ神謡集の一節
   銀のしずく降れ降れまわりに
    金のしずく降れ降れまわりに
 というように、郷土登別の生んだ偉大な言語学者知里真志保の業績は、こん然として今日でも光輝いています。
 
 
 
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ジョン・バチェラーと登別 その1

 国道三六号沿いの幌別生活館の横に、大塩敦示さん宅(幌別町五丁目)があり、その庭に ジョン・バチェラーの「愛隣学校跡」という純白の掲示板が立っています。
 
 また、青葉町にある吉鷹敬次郎氏所有の吉鷹牧場の丘の上に「ジョン・バチェラー住居跡」が 残っていて、共に両家の厚意で掲示板が立てられたものです。
 
 英人宣教師、アイヌの父といわれた彼がアイヌ伝道の中心を、函館から幌別に移すために、妻の ルイザと共に幌別に居住してきたのは明治十九年五月の春でした。
 
 愛隣学校を建て、キリスト教を通じて子弟の教育はもちろん日常生活を通して、当時もっとも進んだ ヨーロッパの近代的精神文化、生活文化を多くの登別の人々に伝えた功績は誠に大きいものがあります。
 
 アイヌ語文典をはじめ、アイヌ炉辺物語、アイヌ語の詩篇、倫理宗教小辞典など出版著書は非常に多く、 また幌別・函館に、愛隣学校、札幌にアイヌ病院、バチェラー学園、有珠に教会堂 を建てるなど、その布教活動の範囲は全道的に広い。
 
 本国のイギリスでは、カンタベリー大僧正から神学博士を授与され、日本でも聖公会司祭として、社会事業、 言語学、民族学の研究のすすめ、特に人類愛的活躍で、政府からはもちろん明治天皇や皇室から多くの褒賞を受け、 外国人でありながら勲三等瑞宝章を授けられました。
 
 来日の時は、二十四歳だった青年バチェラーも、昭和十六年当時は八十八歳の老翁となり日本の愛する 北海道の地に骨を埋めようとしましたが、太平洋戦争前夜の彼には許されず十二月ついに日本を去ってしまいましたが、 最後まで日本に帰る夢を持ち続けながら、三年後の昭和十九年四月に生まれ 故郷アクアフィールド村で亡くなりました。
 
 
 
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 その彼の偉大な足跡をたどり、登別における、ジョン・バチェラーの役割についてふりかえってみましょう。
 
 「日本の国に大和民族よりも長く住んでいて、宗教・言語や生活文化のうえでも、万国に 比較して大きい価値をもっているアイヌ人達を日本人はわかっていない。
 これは、日本国にとって不名誉なことであり、私はこの圧制から彼等を救うためにも、日本人が気づくまで、 そして自分は死ぬまでこの国に残り、日本に尽くそうと決心した。」明治十年、二十四歳で 来日し直ちに函館に上陸した彼がその当時の北海道をみて感じた第一声の言葉です。
 
 そして、その後のバチェラーのアイヌ人に対する救済活動やその業績をみた時は、この言葉を疑う人はいないでしょう。
 
 バチェラーはその後、日高地方で大勢力をもち、アイヌ語の方言や伝説、宗教についても深い知識の所有者で、 多くの人々から尊敬されていた平取の大酋長ペンリウクを訪ね、彼の家で約三カ月滞在して、キリスト教の 布教活動をしながらアイヌ語の学習をすすめていきました。
 
 当時、イギリス人は世界最高の文明人で、イギリス人のバチェラーが、アイヌ酋長から教えを 乞うている事が逆にこの地方の人々の尊敬を一身に集めて信者もふえていったのです。
 
 しかし、順調であった布教活動も思わぬことから対立することになり、バチェラーはこの大酋長と別れることとなります。
 
 それは、司祭時行事と酒の問題です。司祭者であるペンリウク酋長は大の酒好きで、まつりごとが多い関係で、 酔っている日が多かったため、これに対するバチェラーの禁酒対策が対立することになり、深く溝をつくることになっていくのです。
 
 
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ジョン・バチェラーと登別 その2

 日高のペンリウク酋長の司祭的行事につきものの飲酒が、ジョン・バチェラーの禁酒対策と真っ向から 対立、二人は別れることになります。
 アイヌの飲酒を知ろうとする時には、アイヌの信仰と祭儀を理解しなければなりません。
 
 彼らの神に対する考えは、自然の物は、すべて神(特定の霊)であり、そして死ぬものではないということです。 神には、太陽神・山神・海神・水神・父神・国造神など自然のもの、身の回りのものが神であるという、 敬いの心が非常に深く、種類も多いのです。
 
 この神が人間の世に現れる時山神は、鹿の姿・熊の姿になったり、海の神は鮭やシシャモの姿になって現われます。
 神の国から仮の姿で現れた、この動物たちを、再び神の国に送り届けなければなりません。
 
 このために、厳粛な儀式を行なって、神への祈りを捧げその霊を神に帰してやろうというのです。
 例えば、有名なイオマンテ(熊送り)は、昭和初期まで幌別でも本晃寺(中央町一丁目)の西側にあった広場でも行われていました。
 
 熊を殺すことで、熊の霊を神に送りとどけ、その代り熊の肉や毛皮などは、 神からの贈り物であるから、喜んでこれをもらうという考えです。
 
 
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 この時、神のもとに霊を送るのですから、粗末にすると二度とアイヌの所には 帰ってこないので、供え物を多くし、特にアイヌの神々は酒が好きですから、必ず 酒を捧げて獲物に感謝する儀式を行います。
 
 だから熊を神に送る日は、早朝から祈って神に知らせ、熊に向かっては酒を捧げて、 「今日はたくさんイナウや花矢・団子・その他神々への土産物を用意して、盛大に 送別の儀式を行ない、親元に送り返すので、心よく受け神の国に無事着き、再び生まれ かわって私たちの所にまた来て下さい」というような祈りを続けます。
 
 矢を射て、熊が騒然としてくると、神のお召しにより、熊が喜んで踊るものとみて、 昇天する霊に対して周囲では、手拍子をとって歌い、熊送りの場は盛りあがるのです。
 
 ですから、熊送りにしても、祭りや騒ぎということではなく、厳粛な宗教にもとづいた、 儀式といえます。
 
 神送りはほかに、狐送り、鹿送り、鯨・鮭・シシャモなどの神送りなど非常に 多く、この時すべて酒を霊にもたせて送りかえすという信仰があって、とにかく 儀式には、イクパシュイ(飲箸)の先で神々に酒を捧げ、残りは全部自分たちが 飲むということになるので、生活儀礼の立場から、酒は切り離せないもので、それが 原因でひたりやすくなったのです。
 
 大酋長のペンリウクも、その例外でなく、司祭者としてのまつりごとと酒との関係で、 酔っている日が多くなったのです。
 
 
 
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 これに対し、バチェラーは伝導上大きな妨げになる飲酒をやめさせようと、幾度も注意し、 ペンリウクも、一カ月間、そして三カ月と禁酒を試み、キリストへの祈りとともに禁酒に 努力しましたがバチェラーが英国に帰国中、強い飲酒家に逆もどりしていたのです。
 
 失望したバチェラーは一時、ペンリウケ酋長と別れることになりました。
 布教に対するあせりと失意の中にいたバチェラーは、明治十八年ポロペット(幌別)に、 人格のすぐれた若い立派なアイヌの人がいることを聞き、小踊りして喜びました。
 
 その名は、カンナリタロウといいました。
 金成家は、幌別の巨酋カンナリ家の家系に属し、太郎の父は、カンナリキ(喜蔵)といい、 日高沙流のカエシピンナの後裔ともいわれ、幌別の大酋長で、広い土地と漁場をもち、 小売商や明治十八年には、旅館の経営をするという程事業的にも優れた人物であったと 言われています。
 
 その子の金成太郎は、明治九年仮校舎で開校式を行なったばかりの室蘭常盤学校に 入学した、三十九名中ただひとりのアイヌ人生徒でした、
 
 全課程を卒業し、続いて明治十五年、札幌県師範学校に入学するという、当時としては 誠に立派な教育を受けた人物でした。
 
 
 
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ジョン・バチェラーと登別 その3

 北海道開拓使が廃止され、札幌県、函館県、根室県の三県が設置された明治十五年に、札幌県 師範学校で教育をうけて、当時としては立派な教養を身につけた金成太郎という人が幌別にいます。
 
 このことを知ったジョン・バチェラーはその時のよろこびを、英国CMS伝道協会のフェン師に あてた手紙の中で、次のように書いています。
 
 「一八八五年(明治十八年)七月二十一日、日本、北海道、ポロペット=幌別にて
 私の今滞在しているところは、札幌と函館の中間にあるアイヌ語ポロペットという所です。
 この村には、約二百十人の人がいますが、私がビラトリ(平取)に行くかわりにここで止まった理由は、次の通りです。
 
 モロラン(室蘭)とよばれる日本人の村に到着した時に、ポロペットに人格のたいへん立派な 若いアイヌ人がいることを聞きました。
 彼は日本の初等教育、高等教育をうけ、政府から校長の免状をうけている男で、名前をカンナリタロウといいます。
 
 彼は校長の免状をうけていますが、最近学校で教えるという特別な仕事を離れて、 彼の父の仕事の管理をしている事を知らされました。
 ポロペットに着いた夕方、私は彼に連絡をとりました。
 
 
 
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 そしてアイヌを訪ねる私の目的と気持ちを説明しました。彼は、ただちに私の 援助者になる意思のあることを表明したし、翌日、彼の父も心から承諾したことを言いに来ました。
 
 すぐに私と仕事を始める準備にかかり聖書と教義の一部を読むことと翻訳する作業を七週間続けました。
 カンナリタロウは、若い男(当時二十歳)なので、二、三年は仏教と儒教の教えの中で、 キリスト教をさがし求めるでしょうし、儒教の道徳が最も良いと思うかもしれません。
 
 しかし、彼はまだ洗礼をうけていませんが、信者で最初からアイヌの教会とアイヌの学校を 自分達でつくり維持するための基金を集め、毎月一円ずつの寄付をはじめています。 そして、アイヌの教会と学校の為なら必要なだけの土地を貸すと望んでいます。
 
 ポロペットコタンには、私達が訪ねた他のどんな村より良いアイヌ人がおりますし、特に六、七人の人達は キリスト教の教えに心をむけています。
 
 大部分のアイヌの男達は、今の時期はここを離れて漁に行っているので、私は彼とともに 札幌と平取に出発しようと思っています」
 
 金成太郎は、このようにしてバチェラーと出会い、キリスト教への学習を 深めると同時に、バチェラーにはアイヌ語を教え洗礼を受けることになります。
 明治十八年十二月二十五日、十二使徒の頭ペテロの霊名が名づけられました。
 
 
 
 
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 アイヌの父といわれたバチェラーが、母国を離れて日本にきたのは、明治十年(一八七七年)でしたが、 九年目にしてはじめてキリストの十字架の印をアイヌ人に印した彼の感激は、 想像をこえたものであり、太郎に対する信頼は本当に大きなものであったと思います。
 
 一方、太郎の父喜蔵もバチェラーの布教に対する熱心さと真心を知って、幌別の 現在の四丁目にある自宅の側に、三つの小さい部屋と台所のある別室をつくり、 函館から移住して布教活動をすることを願ったので、バチェラーはアイヌ伝道の中心を 函館から幌別に移すことを決意します。
 
 そして、バチェラーは約十年間住みなれた函館を出発して、ルイザ夫人、召使いパラピタと 妻のアソシコルクそして子供のキンの五名で幌別に向かっています。
 
 これは、明治十九年五月二十日のことで、バチェラー数え年三十三歳、妻ルイザは年上の四十四歳でした。
 
 当時、函館、室蘭間は月に三度ぐらいの船便がありましたが、天候の状況や荷役の都合で 欠航も多く、大抵は森まで陸路をたどり、森・室蘭間の定期船は毎日あったので、噴火湾 をわたり約四時間で当時の新室蘭に上陸しました。
 
 バチェラー達も同じ経路で森から、やごし丸という船に乗り、船酔いに悩まされながら 到着し、室蘭で二泊してから、エトモ、ワニシ、イタンキの各コタンを訪問し五月二十二日に幌別に到着しています。
 
 バチェラーが、幌別を中心に胆振、日高地方への布教活動をしたのは、明治二十五年に札幌に転住するまでの六年間でした。
 
 
 
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ジョン・バチェラーと登別 その4

 明治十九年五月二十二日、妻ルイザ、召使いパラピタとその妻アソシコルク、そしてキンを ともなって函館から到着したジョン・バチェラーは、明治二十五年札幌に転任するまでの六年間は、 幌別を中心に胆振・日高地方への布教活動をすすめることになります。
 
 幌別での彼の住居は、金成太郎の父喜蔵が自分の家の横に建てた家に住んだが、間もなく 現在の青葉町二十番地の通称「吉鷹牧場」で親しまれている森の中に家を建てて、牧場の経営もしています。
 
 残念ながら写真も残っていないのではっきり知らせる事はできませんが、 東京の金成タキさんからのお話では、白く美しい建物でとがった屋根の上に十字架を 飾り、この白い建物を見ることができたと語ってくれます。
 
 当時のものと思われる太く大きなオンコの木や池の跡もあり、春になると水仙の 花が今でも咲き乱れます。
 
 そして、幌別滞在のこの間、彼は著作もすすめ、アイヌ語文典、蝦夷和英三対辞書、 マタイ伝ヨナ書のアイヌ語訳、アイヌ炉辺物語などを出版しています。
 
 特に蝦夷和英辞典の出版は、当時の彼の名を世界的に広めたものであり、役職でも日本聖公会 の執事、そして三十四歳で長老となり、後年間もなく幌別、有珠、室蘭、白老、鵡川、平取、新冠 などの監理長老となり、旭川、帯広方面の教会も巡回指導に当たっていたので幌別滞在時 の彼の生活は、最も充実したものと思われます。
 
 
 
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 それと幌別村とバチェラーをより強く結びつけたのは、明治二十一年(一八八八年)四月二十五日に 開校した「幌別村私立相愛小学校」の設立でした。
 これは道内ではじめてのアイヌ人のためにつくられた学校で、我国でも最初の学校であるということです。
 
 北海道の開拓をすすめるにあたり、アイヌ人教育の動機となったのは、外国人の組織的な伝道活動で、 その中心がバチェラーと聖公会の活動でした。
 学校の設立では幌別の「相愛学校」がその先がけであったわけです。
 
 開校の場所は幌別村百三十七番地(現在=幌別町五丁目二番地付近)、 校主は金成太郎、校主代理は片倉家旧家臣の子で鷲別村に住む河田為助とあります。
 
 明治二十一年四月の開校日について資料を調査してみると、まだ以前に設立された と思われる点も多いのですが、いずれにせよ届出は北海道長官に、幌別村外二カ村戸長日野愛憙 の名で提出されていますし、資格のある公式の学校として卒業後のことを考えて認可を うけていることは、バチェラーの強い意欲のあらわれと思います。
 
 名称は「私立相愛学校」で設立されましたが、約五カ月後の九月八日に校名を 「愛隣学校」に変更し北海道長官に届出書を提出しています。
 
 
 
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 授業の内容は、明治二十一年の幌別小学校では、読方、作文、習字、算術、農業となっているので その他に聖書と祈とう、ローマ字を教えていたものと思われます。
 
 しかし、このように希望に満ちた愛隣学校も思わぬところで条約違反という理由で廃止されてしまうのです。
 
 時代がさかのぼり江戸末期になりますが、今から百二十年前の安政五年(一八五八年)に結ばれた 日英修好条約に外国人の居住地の事が書かれています。
 そして北海道では、函館が居住地として認められ、函館以外は認められていないという事になっています。
 
 バチェラーは、このために長期のパスポートによる滞在という形式で幌別に来たのですが、 この点は問題がないにしても、当時の日本人にはキリスト教は邪宗であるという考え方が強く、特に 行政役人は外国人の布教活動や社会活動に神経をとがらせていました。
 
 北海道が三県時代であった頃の(明治十五年から十九年一月まで)報告書にも 「外国人の宣教師が部落を巡回して教化誘導しているので、ぼんやりすると、アイヌの人達は すべて外国人になついてしまう。早く教育方針をたてなければなりません。」とあります。
 
 また、明治ニ十六年、教育法取り調べ委員の報告にも「いたずらに外国人をして アイヌ人の学校をおこさせている、ホロベツの学校ではバツチラの管理をする所で 二十余人が教化をうけ、春採(日高)の校舎ではペイン(神父)が建てた学校で 四十余の子供が教化されている。これをただみているのは国の恥ではないか。」と書かれています。
 
 そしてバチェラーのもとに学校を廃止するよう、室蘭郡長から申し出があった期日は、 明確でないが明治二十五年頃でないかと思われます。
 

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