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郷土史探訪(3)   宮武 紳一

ふるさとの伝承と石のまち「のぼりべつ」

 登別に住みついた者にとって、子供の頃から忘れることのない小山の呼び名がありますが、 これが登別駅の南東に長く続いた台地状の「フンベ山」です。
 ちょうど、鯨の形をした山で、昔は海側だけが崖になり、その他は、山すそもあり、現在の ように崩れてはいませんでした。

 フンベ山の語源は、プンペサパ(鯨・頭)とよばれ、「鯨の頭」の由来を示す昔話(ウエペケレ) が、登別地方に残されています。
 昔話や、なぞなぞ遊び(ウレクレク)の多くが、金成マツ、盤木ナミ、豊年ヤエなどのお年寄りによって、 語られ登別の生んだ偉大な言語学者知里真志保によって、まとめられたことは、登別市の誇りとすべきことでしょう。

 動物を神とするお話は、本州の動物起源伝説と共通している点もありますが、フンベ山の話は、カワウソ の神が海魔を退治する話です。「大昔、天に住んでいた偉い神様が、人間の住んでいる国を、ふと見ると、 国のはるか遠い東の果てに、ショキナの海魔(古く年を経た巨大な鯨のようなものといわれている)が、 上のあごは天空すれすれに、下あごは海底すれすれに、大口を開けて海の上を行き来する舟を、人もろとも 呑みこんでしまおうと構えていました。
 
 天に住んでいた偉い神は驚いて誰か海の悪魔を退治して、人間の住む国を救ってやる勇ましい神は いないか!」とおおぜいの神に相談したけれど、海魔の勢いにおそれて誰一人応する者がいませんでした。
 
 その時、カワウソの神が、普段のいばりぐせで、「ふふん!あれぽっきのショキナが恐ろしいのか」といったので、 すかさず神々に、言葉じりをつかまれて、ショキナを討つ役目を仰せつかってしまいました。
 
 
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 失敗したと思いましたが、天から降りたカワウソの神は、国の東の果てから、西の果てまで、 「里の神よ、力を貸してくれ!」と頼みながら行ったのですが、そっぽをむかれてしまいました。
 
 ところが、のぼりべつの里神の指摘で腰の刀に気付き、ショキナを両断することができました。
 そして、頭のついた半分を、のぼりべつの里神に、お礼として、のぼりべつの浜に打ちあげ、他の半分は 沖のどこかの浜に、打ちあげたのです。」
 
 のぼりべつの浜に打ちあげられた鯨、これがフンベ山だというわけです。
 
 山すそが、太平洋の波に洗われていたフンベ山も、今は形を変えたが、むかしは神聖な山で、 婦女子が上ることは、固く禁止され酒もあげられ、豊漁を祈り海の荒れを静めるために神に祈り、 舟の行方が分らない場合に、首領たちはこの山に登り、鯨神の冥土の助けによって、何でも分る ことができると伝えられていたということです。
 
 また、フンベ山のすぐ西側に流れる登別川は、川の流れを時々変えたようです。
 
 
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 江戸末期の東蝦夷地海岸図台帳の地図では、ランボッケ岬の東側のすぐ横を流れていますし、 大正時代にも川口は、前浜(フンベ山からランボッケ岬までの砂浜)を横流し、ランボッケ岬の 方に流れた時もあります。
 町の山ぞいに東に流れ、フシコベツ(古・川)に流れたのは、かなり古いことです。
 
 登別川の川口が、フンベ山から遠く離れている時は、鮭がたくさん川へ上り豊漁が期待され、 フンベ山の西側をすぐ流れると、フンベ(鯨)が、鮭を呑んでしまうので、凶漁が予想されるといわれました。 この時は、フシコベツ側から、フンベ山の右方に入り、空沢添いに上って行き、山の頂上の祭り場 (オンネヌサウシ)に集まって、豊漁の祈りをしたと、語り伝えられています。フンベ山から、 四方を眺めた景色には、素晴らしいものがあります。
 
 東の海には、登別漁港の堤防が長く海に突き出し、紫淡黒色のアヨロ岬の岸壁がびょうぶのように 青海に続いています。
 
 また、西南の方向には、遠く惠山、駒ガ岳が見え、室蘭のトッカリショ、イタンキ岬や鷲別岬まで 遠望され、ランボッケ岬から、北に向って、サツナイ(乾いた沢)の台地状高原が、ライバ山麓まで広がっています。
 
 
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 特に印象的なのは、登別で知られている山の中で、最も古いポントコ山(火山)が、札内台地 にはっきり見えるのも、この場所です。
 
 遠く鷲別岳火山群で知られる、山々の稜線も明確で、オロフレ岳や窟太郎山が程近く 見える姿も美しい。さらに、登別の街も一望にして眺めることができます。
 
 フシコベツから、臨海温泉、汐見坂、キムンタイ(山奥の森林)ランボッケ岬、そして約八百米 におよぶフンベ山は、強いヤマセ風をさえぎり、登別の気候をほど良くしています。
 
 それに、臨海温泉から汐見坂に至る火山灰地帯を除いた、全地域約十米から二十米程のびょうび状の 岩壁が囲み、石の町登別をいろどっています。
 
 登別石の生成について、考えてみますと、今から数十万年の昔にカルルスや、クッタラで火山の 大爆発が起き、多くの火山噴出物を出しました。
 
 カルルス温泉を中心とする盆地は、来馬岳、オロフレ岳、加車山を外輪山とするカルルス火山で、 クッタラ湖や橘湖(カルルス温泉の東方)などの巨大な火口からは大量の火山灰や、軽石が水平に 噴き出して、多量の溶岩を流出させ浅い海や海岸、谷などのあった、登別地区をおおい、西南の方向には、 札内台地をつくり、幌別川上流の蔭の沢(鉱山町)に至る、大岸壁もつくられました。
 
 
 
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 岩の層の下の部分は、紅色をおび、次いで紫紅色になり、上部は紫青色と変色し、 落着いた柔い色で「登別石」として、全道にその名をひびかせています。
 
 明治四十四年生まれで、六十八歳。今でも元気で石材業を経営している田村武雄氏は、 子供時代からの石山育ちで、登別石のことを次のように語ってくれました。
 
 「登別石が生産されるようになったのは、室蘭線が開通した明治二十五年より以前であるが、 鉄道が開通してからは、駅のプラットホーム作り、線路の砂利止石、トンネル工事などの、 主として、鉄道工事に全道各地に送られた。
 大正になると、都市では、道路、倉庫、寺社、石塀、灯籠などの需要が多く、農村には サイロ、かんがい溝などの石材として、「登別石」は、全道にその名が知られるようになり、 道央はもちろん、稚内、網走、釧路や函館などの遠方へも送られるようになった。
 
 良い石には粘り、油けがあり樹木の柾目のような石の目があり二米余りの大石でも、矢を 入れ矢じめで上手に割れる。
 
 札幌の石切り山の石材は、色も悪く生産量も少ない。
 仕事に従事する石屋さんの多い時は、百余名を数え、忙しい時は石屋を道内から集め、 人夫は青森方面からも集めたものであった。」と当時を語ってくれ、今後もなお有望産業 であることを話してくれました。
 
 
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漁港と登別の開拓

 魚を満載した漁船が力強いエンジンの響きをたてて次から次へと登別漁港に入ってきます。
 今は「スケソウタラ」の最盛期で、港は網から魚をはずしたり、箱に入れたり、トラックに 積んだりする人達でごったがえし、威勢のよい声でにぎわい、その活気のあふれている状況には全く 眼を見張るものがあります。
 
 登別の町で最近特に脚光をあびているのは、何んといっても登別漁港(伏古別漁港)の発展でしょう。
 漁港の設定については、地元登別での運動は大正の頃ですが、幌別村と白老村の共同による「伏古別 船入澗築設同盟会」が組織されたのは昭和二年のことで、戦後の昭和二十五年にやっと道庁から築造が認められた ものの予算不足から本格的工事に入ったのは昭和三十八年頃からです。
 
 現在は第六次計画として新たな修築工事がすすめられていますが昭和五十一年四月から五十二年三月まで 漁港利用で登録された隻数は、三トンまでが百五十隻、三トンから五トンまでが五十二隻、五トンから十トン までが七十隻、その他十五隻合計二百八十七隻の船が出入りしています。
 
 水揚げ数量は、昭和四十二年度で約七千四百トン、十年後の昭和五十一年度では約一万五千トンで金額にすると 約十五億三千五百万円になり、水揚げ量や金額からみてもスケソウタラ、毛ガニ、カレイ、エビ、イカ、鮭など の種類順で年々増加の傾向にあります。
 
 
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 登別漁港の場所は、現在港町一丁目になっていますが、江戸時代からフシコベツ(古い・川) とよばれた地名があり、遠くはポプケナイ(沸とうする・小川)、チヤラシナイ(サラサラと 音をたてて流れる・谷川)からも川水が流れていました(登別本町二丁目の山ろくあたり)。
 
 登別の開拓は、登別温泉の開祖者といわれています、武蔵国児玉郡出身(埼玉県児玉町)の大工でした 滝本金蔵が、南部藩の役人から「冬期間は使用しないで放置していた馬が野性化し、繁殖し群生 しているので、馬の管理をする管理人や牧夫のための住家と、乗用馬の畜舎を建てることを命じられた 機会に登別に入植した」、「箱館奉行の雇吏の募集に応じて長万部にいき、その後登別に移住した」 「安政五年八月二十三日霊夢により温泉を発見した」などと語られていますが、伝記によるのもので 不明な点がたくさんあります。
 
 しかし、いつ、どこにどのように入植したかは別として、江戸末期の安政五年(今から120年前)から 七年頃にかけて登別に居たようです。
 
 また滝本金蔵が登別で駅逓を開き、登別川口付近では漁場を開いてこれを息子の金之助に経営させて いると伝記に書かれていますが明治期のことでしょう。
 
 登別本町二丁目の道路わきに「滝本金蔵駅逓跡」と書かれた標木が立っていますが、このあたりは 登別のむかしの中心で、チヤラシナイの西側には温泉への旧道も山の方へ通じていましたし、神社も 山側にあり、明治五年につくられた札幌本道(旧国道)は、登別小学校前の道路で白老、苫小牧、札幌、 幌別、室蘭へ通じる要路でもあり、また温泉に通じる基点でもあったことから、この場所で駅逓の仕事を していたのでしょう。
 
 しかし駅逓は公的なものですから、古い時代に会所や運上屋のあった幌別町と、明治十四年に 鷲別にあっただけで、私的な立場で営業をしていた「滝本金蔵駅逓跡」は書き改めなければならないでしょう。
 
 
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 低湿地帯が多く開拓農地の少ない登別にも、明治初期には開拓の音が深い樹林にこだまし、河村 丑太郎が宿泊所・加工業や販売業を行ない、淡路出身の小原福太郎らが入植したのは明治十七年 ですが苦労して切り開いた畑作地も野性化した馬の群に踏み荒らされ、大変だった事が記されています。
 
 本格的な町の発展は、今から約九十年前に北海道炭鉱鉄道(室蘭本線)が開通し、登別駅も同時に開設 された明治二十五年(1892)頃からで、鉄道敷設工事のためのまくら木用材の切り出しや 中登別の鉱石山(胆振石山ともいう)から石材をトロッコで登別まで搬出したり、フンベ山の石材 積み出しなどで人の出入りも多くなりました。
 
 登別の当時の住民にとって困ることは、やはり湿地帯なので飲料水に不便で水質が悪いことでした。
 
 登別駅は戦後も天皇や皇族をお迎えした事があったので白壁で天井も高く貴賓室あと(現駅長室) も立派ですが「天井に近い柱や、はりの部分が大きく狂っているのは地盤が悪いからでしょう。」と登別駅の駅長が話してくれました。
 
 湿地での飲料水確保は大変で、今から六十五年ほど前の大正三年に村の補助で取水工事が行われることに なりましたが、旧八幡神社の方、ポプケナイ付近の湧水を貯水し駅まで送水するようになったのは大正八年です。
 
 
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 しかし送水管は今日のように鉄管やビニール管はないので、函館の業者から内地竹を購入して竹のふしをくりぬいた ものを使用しましたが、穴もあきやすく古くなると草の根や降雨の時は土も入るので穴の部分は昆布をまき縄で縛ったりしていました。
 
 その後、函館の木管会社に頼んで落葉松の中を八センチから十センチほどくりぬいた木管を使い、ナラ材で造った 貯水槽を町内六カ所ほどに配置しましたが、維持費・改修費は部落の負担でもあり、昭和二十三年まで 続いた飲料水の不便さを、登別駅前に住む鈴木島一郎氏(明治二十六年生れ八十五歳)は話してくれました。
 
 
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登別温泉のなりたちと開発

 登別市には東洋一といわれる登別温泉があります。
 東洋一はやや誇大ですが、世界の火山国、温泉国である日本の中でも登別温泉の地獄谷・大湯沼と その附近や市街地などからわき出ている一日約八千トンにおよぶ膨大な湯の量や、多くの熱水と硫気孔からの 熱のエネルギー発散量は、一年間で中型火山の大爆発と同じくらいだといわれますから、大変なエネルギー量 です。
 
 やはり登別温泉は火山国日本の横綱格であるわけです。
 登別温泉の生成は、クッタラ火山と深い関係にあります。
 今から約数十万年前に深い地下のマグマから地下数千キロくらいの所で大量の水蒸気と火山ガスをつくりました。
 
 それが遂に噴出して温度の高い火山灰をふき出し、溶岩の流出を繰り返してクッタラ火山をつくりましたが、 やがて陥没して活動の終わった火口に水をたたえてクッタラ湖ができることになります。
 
 しかし火山活動はこれで終わりませんでした。
 その後熱エネルギーの貫入しやすかったクッタラの西側に爆裂をおこして、現在熊牧場のある四方嶺や北山に、 そして今でも水蒸気ガスをふき出している日和山などの寄生火山をつくりました。
 
 有名な地獄谷や大湯沼は爆裂火口のあとで、大湯沼の火口底にはさらに幾つもの小火口跡があると言われています。
 
 
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 大湯沼の北西にある日和山は、昭和新山と同じ生成で、地下から押し上げられてでてきた 珍しい溶岩塔の山です。
 
 それに現在、有珠山の火山活動が活発ですが、洞爺火山が約三万年前から約一万年前までに火山 活動をした後陥没して火口に水をたたえてできたのが洞爺湖であるといわれ、数十万年前から活動して つくられたクッタラ火山のクッタラ湖にくらべて新しいものです。
 
 有珠山も約一万年前から七・八千年前に洞爺火山の寄生火山として活動をはじめ、その後活動が 一時衰えたものの特に数百年前からの火山活動は史実の上からも大災害が記録されている比較的 に新しい火山ですが、登別温泉の日和山などは極めて古い火山で、現在でも高温の水蒸気や ガスをふき上げて活動しています。
 
 もし、登別温泉の活動が急にとまったならば、地下エネルギーが厖大に貯えられ、大きな地震が 発生したり新しく火山が噴出するという危険にもつながりますし、地獄谷などの温泉地帯のどこかの 活動が激しくなったり、活動場所が大きく変わったりすると地下活動のことですからどのような異変があるか 油断はできません。
 
 幸いな事に、熱灰石や大泥流による火山災害の記録はなく、大湯沼や地獄谷などの火山活動の最盛期が 古い時代のものですから、一応現在は有珠山に比較して落ち着いた状況にあるようですがどうでしょうか。
 
 
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 登別温泉が資料の上ではっきりしてくるのは、やはり江戸時代からです。
 しかし、ヌプリペツ(色のこい川)の言葉から考えても温泉の白く濁った川の水は、登別川 で鮭をとったり山深くシカや他の動物をとって生活していた登別地方の古くからの人々 にはしられていたでしょうし、有名な金成マツの登別地方にまつわるユーカラの中にも 「神のお召しにそむいた若者が、路をあやまって赤い岩間にわいている熱湯におちて 神の国に昇天した」という文があり、これは登別温泉の地獄谷の情景を思われます。
 
 また、地獄谷や大湯沼などの湯けむりが、温度や風の状況によりホロペツ方面からはっきり見える日があります。
 昔の漁師達が恵山岬やカムイヌプリ(幌別岳)や登別方面の山や雲・風の方向などをみて 天候を占い、出漁の目やすにしたということはよく聞いた話ですが、最上徳内や松浦武四郎 の記録にも温泉活動のすさまじさが書かれていますので、遠くから察知することもあったのでしょう。
 
 伝説では今から約六百八十年前の永仁四年(1296)に日蓮上人の弟子の日持が蝦夷地布教 のおり、登別地方に立ち寄って題書したという「題目石」や、三年後に日蓮宗の高僧である日進上人 が霊験の地として訪れたという話がありますが、やはり伝説としてのものです。
 
 また今から三百十年前の寛文五年(1665)に蝦夷に渡ったといわれている、僧円空が 鉈(なた)一つで作った「鉈作り観音」が地獄谷に奉置されているころから円空が登別に来た とも思われますが、それから百数十年後に三河国出身の菅江真澄が徒歩と船で有珠方面を 回ったときに礼文華の岩舎(岩屋観音の所)に五体、善光寺のお堂に二体の木像を発見して、 その一体に「のぼりべつゆのごんげ」と書かれた仏像があったことが記されているので、 仏像はこの地方で作られ、登別に円空は来なかったといわれています。
 
 
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 また、登別温泉の開拓について特筆すべきこととして、地獄谷と大湯沼からの硫黄 の採掘があります。
 登別温泉に硫黄のあった事は千六百年代の松前藩時代から知られており、幕府が 直接治めた寛政十一年以降は盛んに採取されたようです。
 
 記録にあるものとして寛政九年(1797)から森瀬屋治兵衛が採掘許可を松前藩から 受けて従事しましたが、藩への上納金が高いので途中でやめたことが書かれていますが、以後 幕末、明治、大正、昭和期まで採取が続きました。
 
 登別温泉の開発では、除くことのできない功績のあった人物がいます。
 それは八幡岡田家の岡田半兵衛です。
 
 彼は、当時の大場所である、フルビラ(古平)・オタルナイ(小樽)場所の他に ホロベツ場所・エトモ場所の請負人をかねた豪商で、安政五年モロラン会所を二千両 で改築し、ホロベツ会所も新築しています。
 
 岡田半兵衛はノボリベツ湯元まで新道をつくり、地獄谷・大湯沼周辺に製錬釜をすえ、 だら煮製錬法で生産したのでしょう。
 
 一日二十貫たき(約75キログラム)を八釜ほどたいて十二貫入れのカマスにつめ、 一頭の馬に二個付けした四・五頭の馬でホロベツまで運んだ事が書かれています。
 
 また同時に温泉を開いて、鹿の路といわれている小道を改修し温泉場には湯治人 止め宿を二カ所建築しましたが、これらの費用は七百五十両以上という大金を支出したといわれます。
 
 岡田半兵衛による硫黄の生産は結局大損害に終わりましたが、登別温泉を開いて湯治客の 家屋を建てばく大な金を支出して登別温泉を世に出した功績は大いにたたえるべきものと思われ ますが、岡田半兵衛の名が登別の発展に一つもでないのは史実を知る者として誠に残念です。
 
 
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登別温泉の開祖「岡田半兵衛」

 登別、室蘭、伊達などを含めた地方発展の歴史については、資料不足で伝説による推測が多い場合があります。
 登別温泉の開祖をめぐる問題にしてもこの一つの例でしょう。
 
 一般的に、登別温泉の発見が、「安政五年八月二十三日、滝本金蔵が霊夢により発見せり」と語られてきました。
 しかし、実際には彼より早く開発をしている人がいます。
 
 それは、「ホロベツ場所」の請負人でした岡田半兵衛で、当時七百五十両という大金を 使って登別温泉への新道をつくり、温泉場に湯治人止め宿を建築して箱館奉行らの役人に 温泉を紹介し温泉としての開拓発展につとめたことから当時のホロベツ会所支配人木下磯吉 の手引きで幕吏から褒賞をもらっています。
 
 また、商業経営では、登別温泉地獄谷や大湯沼付近から硫黄を採取して製錬しホロベツ会所 まで運んだり、今日の登別発展の基礎をつくっています。
 
 温泉の開発にしても硫黄や木材などの商品経済の開発でも、岡田半兵衛が、観光温泉としての 最初の開拓者であることは、今日の定説となっています。
 
 
 
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 しかし、登別温泉の最初の開発者である岡田半兵衛については、今も全く知られて いないので紹介したいと思います。
 
 岡田半兵衛の岡田家は、琵琶湖岸の東に位置している近江八幡(滋賀県)出身で、いわゆる 近江商人です。
 
 安政五年箱館奉行の村垣淡路守が南部藩、仙台藩の警備状況を視察に来て登別温泉に 入湯していますが、岡田半兵衛の湯小屋のことや、湯治は川の中ですること、湯はとても 熱く、眼に良い水もでていることなどを公務日記に書いていますが、滝本金蔵の名前はまだありません。
 
 安政七年の「番人調子帳モロラン会所」と書いた帳簿には、「登別温泉場に出稼ぎ夫婦者 二人」と記録された文章があります。
 
 湯治の許可をもらっていた人でしょうが、湯宿を設け湯守りの資格をもっていたならば番人 調子帳に明記されているはずで、出稼ぎ夫婦者という書き方はしませんし、この二人が金蔵 夫婦であれば、温泉の開祖者は、岡田半兵衛であることは明白です。
 
 岡田半兵衛は慶応二年までホロベツ場所の請負人ですから、滝本金蔵は半兵衛の配下にあって、 湯守りの事を含めて半兵衛から引きつぐ形になったと考えるのが妥当だと思います。
 
 また、金蔵が登別に駅逓を開き漁場を開いたことも知られていますが、駅逓の公的立場を考えますと 私的な継立業を駅逓というのは誤りです。
 
 
 
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 登別の漁場は慶応二年までが岡田半兵衛で、以後明治四、五年頃の登別川や登別浜の漁場持ち 山田文右衛門であることは、当時の開拓使の調査図でも明確です。
 
 文右衛門の下請けの立場にあったか、後に譲りうけたか、どちらかだと思います。
 
 温泉としての開祖者が、岡田半兵衛であるにせよ、滝本金蔵が明治三十二年に一生を 終えるまでの約四十年間は、温泉とともに歩み私財を投じて温泉につくした功績は誠に偉大 で、登別の人には忘れることはできません。
 
 滝本家は、息子金之助が若くして亡くなり大きく変動しますが、温泉開発に入った多くの後継者 によって、今日の大発展をみています。
 
 交通機関を取り上げても、温泉の発展の様子がよくわかります。
 明治二十四年(1891)登別から温泉まで客馬車が開通、明治三十四年に二頭びきの 客馬車が走り、大正四年(1915)登別温泉軌道会社の馬鉄が開通し、大正七年には 軽便鉄道として開通、大正十四年には電車が走るようになりました。
 
 そしてガソリン自動車(バス)が走るようになったのは昭和八年のことです。
 
 
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仙境・カルルス温泉

 登別温泉から約八キロメートル、バスで二十分ほどの距離にあるカルルス町は、 来馬岳、オロフレ岳、加車山などの美しい山々に外輪を囲まれたスリ鉢状の中にあって、 千歳川のけい流が中央を流れる静寂な温泉地でもあります。
 
 川床からわき出る単純ラジウム泉は、泉質からみて、ヨーロッパの中央部に位置する チェコスロバキアの(カールスバード)カルロビバリに似ているところから「カルルス」 の地名がつけられたと言われます。
 
 以前は温泉の温度も五十度から六十度で、一分間に約五百リットルの湯量があり、旅館 の来客も素ぼくな共同浴場に入って温泉気分を楽しんだといわれますが、今では湯量も増え 温度も七十度をこえて内湯もでき旅館も立派になりました。
 
 冬は国設カルルススキー場としてにぎわいをみせていることは、いうまでもありません。
 
 また、カルルス温泉は、登別温泉よりも川上にある温泉なので「ペンケュ」といい、川下の 登別温泉は「パンケュ」といわれたことも知里真志保・山田秀三共著の「幌別町のアイヌ語地名」 に記載されています。
 
 
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 登別の町から登別川をさかのぼっていくと、紅葉谷の下流で二股に分かれていますが、右手の方で 紅葉大橋の下を流れ、登別温泉から地獄谷などの泉源に通じているのが、クスリエサンペツ(薬湯・ そこを通って・でてくる川)で水の色は濃く暗い色の川になっています。左手はさらに上流にさかのぼり カルルス温泉を通ってオロフレ峠などの山ろく一帯に通じていますが、澄んで明るく見える川なので、 ペケルペツ(明るい・川)といわれるのが現在の千歳川です。
 
 これらの上流に面するのが標高九百三十メートルのオロフレ峠で、登別市 と壮瞥町の分岐点にもなっていて全道的に最も高い峠です。
 
 峠からは、サマツキヌプリ(横になっている山)といわれる加車山や、遠く橘湖の山ろくや クッタラ湖が見え、右の方向には太平洋を見ることができます。
 
 峠をはさんで、ダケカンバが厳寒の山岳地帯を生き抜いた、たけだけしい姿の中にも白い木肌 を美しくみせて生育しているし、峠から千二百三十メートルのオロフレ岳の方向には、 ハイマツや高山植物群が見られます。
 
 また、西南の方向には、千メートル級の山々が連らなり、千四十メートルの来馬岳に続いています。
 
 
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 カルルス温泉は、これら長円形をなしているカルルス火山群に囲まれたカルルス盆地のほぼ中央に 位置していますが、このカルルス温泉を中心とする盆地は、今から数十万年前に爆裂した 大きな火山の火口のあとで盆地の内側に比較的に急で、外側は溶岩台地の緩やかな大地をつくっています。
 
 また、カルルス盆地には、小学校前の道路から登別温泉の方向にも約三百メートルもいくと 道路が大きく下りになり、その底の部分の左側の山腹を切りとった所や、沢の方に黄色や赤かっ色の 粘土質の数メートルから数十メートルの堆積土がありますが、これは湖底の堆積土と思われますので、 カルルス盆地はもと大きな湖であったとみられます。
 
 恐らく盆地の弱い部分から湖水が排出されたのでしょうし、千歳川が隆起性の台地を深くえぐって峡谷 をつくっていることからもうかがい知ることができます。
 
 またカルルス温泉町の郵便局裏側から東の方向に歩いて約三十分二キロメートルの地点に橘湖があります。
 
 周囲は約一キロメートルで山林に囲まれた砂のきれいな神秘的な湖で、パスイエヤント(箸がそこに、 よりあがる湖)と言っていました。
 
 
 
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 この湖には昔から箸やヘラなどが浮いていて、それを使えば縁起がよい、と言われて いたので、わざわざ湖まで拾いに行く人もいたといいますし、昔、熊狩りに行った人は 湖岸に仮小屋をつくり、この湖で拾ったはしやヘラで食物を食べ、熊狩りも怪我がなく 無事に終ることを祈ったと言われています。
 
 橘湖という名称は、明治中期から大正にかけて活躍した著名な政治家、後藤新平が明治 四十三年この地に来た時に、カルルス温泉の開祖者、日野久橘をほめたたえて 久橘の「橘」をとって橘湖と命名したと言われています。
 
 またこの橘湖は、昭和十一年に日野昇が国から譲りうけた個人所有の湖として珍しいものです。
 
 人の手が加えられず静かなたたずまいの中で、芽がいっせいにふきだす若葉の頃や、深緑 の夏そして紅葉の時期など、いつ訪ねても美しい自然とふれ合うことのできる素晴らしい湖です。
 
 しかし、この橘湖もやはり爆裂火口で湖の周囲にある岩は登別泥溶岩と同質のもののようです。
 

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