郷土史探訪(2) 宮武 紳一
「神の湯」川又温泉
幌別鉱山から四キロ上流へ
幌別駅から北西に位置しているカムイヌプリ(幌別岳)へ向って富士町の大通りをとおり、
ダムへ行く道路の中心付近は、明治・大正・昭和にかけて幌別鉱山から鉱石やいおうなどを
運搬した、軽便鉄道の走っていた跡です。
その軌道は、登別高校横の道路をまっすぐ、ダムの中心を通りぬけ、山間をぬって約九・六
キロメートルさかのぼり、いおうの生産では東洋一といわれた幌別鉱山に達していましたが、その
位置はまた幌別川の上流にもあたっています。
この幌別鉱山の左方を流れている川は、ワシペツ・エ・オマベツ(ワシ別・に・水源のある川)
といって、鷲別岳(通称=室蘭岳)に源をもつ川で、クスリ・エ・サンペツ(薬湯が、そこから
流れでている)川とも言いますが、この名称のとおり、川沿いを右に約四キロメートルほど上流に
いくと、美しいけい流のふちに温泉が静かにわきでています。
これが、登別市における第三の温泉「川又温泉」です。
水温34度で薬効あり
昭和四十七年、道立衛生研究所が分析した書類によりますとー検査期日五月三十日、天候晴、気温
摂氏二十度の時に、温泉湯の温度は三十四度二分で、体温よりやや低く、湯のゆう出量は毎分二百三十
リットル、無色透明のきれいな湯でほとんど無味であるが、微弱硫化水素のにおいがする。
適応症として、創傷・皮ふ病・リウマチ性疾患・神経麻ひ・胃腸病などとその効能は非常に多いーとなっています。
発見者は水戸藩出身の川又兵吉
川又温泉の名称は、水戸藩出身の川又兵吉(天保十四年水戸で生まれ、大老井伊直弼が害された桜田門外の変
に、一族が関係したので南部に逃避し、その後北海道にわたり、幌別鉱山では木賃宿も経営していました)
が、明治四十一年に発見したので、その姓をとって「川又温泉」とよばれています。しかし、文献によっては「川股
温泉」とも書かれています。
これは、温泉のすぐ下流が二股に分れているようで、ペナウン・ペドコピ(川上の上の方にあり・合流点)の
名称もありますが、「川又」の氏名を分らないまま音読みでつけた名称で、川又温泉が正しい書き方と思います。
しかし、この温泉の利用は、かなり以前からアイヌ人らによって「神の湯」として貴重がられ、使用されていたようです。