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郷土史探訪(1)   宮武 紳一

開拓と動物たち

 登別に生息している動物の種類は、地域の隣接性や移動性もあり明確に言えないのですが、 火山活動で生成した、鷲別岳、来馬岳オロフレなど多くの山や、橘湖、クッタラ湖、そして カルルス、登別温泉など、自然の複雑さに相応して、その種類も多かったと言われています。
 
 哺乳動物では、ヒグマ、エゾシカ、キタキツネ、エゾイタチなど十五種にもおよび、江戸時代 (安政四年)に函館奉行に随行して、当地ホロベツにも来た、玉虫左太夫の著書『入北記』には、 カワウソ、テン、ムジナ、キツネなどの毛皮が、鹿や熊の毛皮同様に幌別場所から生産されて、 場所請負人の岡田半兵衛もこれら動物の捕獲に力をいれたことが書かれています。
 
 登別の伝説、物語にもカワウソやムジナ、キツネなどに化かされたお話がよく出てきますが、 昔は種類が多かったことと思います。
 
 鳥類は、カラス科、ヒバリ科、シジュウカラ科、ワシタカ科その他百五十種をこえると言われ、 はやぶさは、中型のタカで、当地方にも生息していました。
 
 は虫類は、登別・カルルス・川又温泉などで数が多く、トカゲやカナヘビ(カナチョロと 呼ばれている)川又温泉の有名な青ダイショウやワラの色に茶のしま模様を持つシマヘビは、 温泉の湯に入っていると、湯そうに入ってきたりぬいだ衣類の上でとぐろをまいていて、唱和 初期の湯治客を驚かせたものです。
 シマヘビの黒色がかったものはカラスヘビと呼ばれ、同種類のものです。
 
 また、ジムグリ(頭部にV字型模様)と毒ヘビのマムシも生息していました。
 
 とにかく数は多く、先に紹介した、玉虫左太夫が登別温泉に来た時「家来が、 地獄谷の熱湯に、近くにいたヘビを投げ入れて試したところ、たちまち死んで しまった。」と言っています。
 
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 開拓者にとって、動物は食料にもなり、馬や犬は生活上もっとも必要なものでしたが、 人里にあらわれ、家畜を害し、畠を荒らし、ついには人を襲うひぐま、オオカミは もちろん、カラス、ネズミや野性の馬などに対する防備対策は重要な課題でした。
 
 ひぐまは、現在でも登別地方の山奥にみられますが、これらによる被害の具体的資料は 少ないのですが、明治十六年には登別牧場でひぐまや野犬により、馬二十一頭が倒されたり、 その後ひぐまによる馬の被害は、明治十九年に十四頭、明治二十年は十五頭を数え、 オオカミによる被害は、明治十九年四頭、明治二十年には六頭の被害をうけています。
 
 これよりさきの明治初期から野獣対策は急をつげ、明治三年幌別開拓役所では、賞を出して、 アイヌの人達にも獲らせ、熊八頭、鹿六百三十余頭、キツネ二十余、ウサギ五十余の成果をあげ、 皮や角を買上げて相当な利益をあげたといわれています。
 
 明治四年には、熊六頭、鹿三百八十余頭を獲ったといいますから当時の登別地方には相当な 数がいたものと思います。
 
 オオカミの被害については、前述のとおりですが、明治二十一年幌別戸長役場からの報告では 「オオカミは出没常なし」とあり、当時はあまりいなかったようです。
 
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 オオカミは、夏は一匹または、一対でくらしますが、冬は集団で行動し、あらゆる 動物を襲撃して食べる、凶暴なものの代表とされておりますが、このオオカミも昔の ホロベツや日高地方でも「ヌプリパコルカムイ山のかみてを支配する神」といい、鹿 をとってくれる神様と尊敬され毒の矢を絶対にむけなかったといいます。
 
 またアイヌ語で「キムイセタ山にいる犬」という言葉があり、普通「ヤマイヌ」と呼ばれる 野犬がいて、馬のような大きな家畜を襲い殺すので当時の人々も恐れていたという。
 
 ホロベツには、古くから会所や通行屋と呼ばれる旅宿所があったので、寛政九年(一七九七年) には南部馬が配置され、立馬の飼育も行われ、人足には一日米五合から一升(約〇・八 Kgから一・五Kg)が与えられ、また、ホロベツとムロラン間の人足賃は、銭二十文でした。
 
 しかし、馬の多くは春から秋頃まで外垣をめぐらせた屋根のないところに入れて飼育されるが、 冬の間はすべて野放しであったので自然繁殖数は増加し、明治初年の幌別来馬には、約四百頭以上の 野馬がいて耕作した畑地を荒しまわったので、野馬狩りをして約三百頭を、鷲別村字ベシボッケ (現在の室蘭イタンキ)にうつしたといわれています。
 
 
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冨浦の遺跡「アフンルパロ」

 登別の「アイヌ語」地名から由来する伝説は著名なものだけでも十指に及ぶほどあります。
 アイヌ語は、言葉そのものが一つの語りかけをしていることや、特に口承による、聞き伝え文化や 自然崇拝ということから伝承説話が多いのでしょう。
 
 登別駅前のフンペサパ(鯨の頭の伝説)オカシペツ(ウニ採りから投槍で争う話)トンケシ (兎と村の首領と津波の話)ウカヌカルンペ(馬鹿になる岩)などがあります。
 
 中でも冨浦の高台、ランポッケの丘は、アイヌ語でリフルカ(高い・丘・上)とよばれ、そこには だ円形ですりばち形の上縁の直径が三十メートル底部の長径が約十メートル深さが約四メートルで、 周囲の斜面は階段状になっていた、アフンルパロ(入る・道・口)とよばれている凹地の遺跡がある。
 
 アイヌ語地名で、海岸や河岸にある洞窟の多くが「あの世に行く道の入口」と言われていますが、 冨浦の丘にある「アフンルパロ」は洞窟でなくすりばち形の学術上めずらしいものとされていますし やはり昔は、子供や女は行ってはいけない所とされていました。
 
 郷土登別の生んだ、ユーカラで有名な金成マツさんの伝承によると、次のような物語が残っています。
 
 
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 おれには、父・母・大きい兄・小さい兄がいて、皆に可愛がられなに不自由なく 暮して大きくなったが、突然ある日、父や母や兄さん達は、何んの病気かほんの 二・三日寝こんだと思うと、ぽっくり死んで独りぽっちになってしまった。
 
 村人はとても親切であったが、おれのたった一人の叔父は、金持ちだがひどく意地が悪く、 恐ろしいほどの欲ばりという評判で勿論おれには何も世話をしてくれなかった。
 
 その叔父がある日、にこにこしておれを山狩りに誘いだしてくれた。
 
 そして山奥の大きな穴の所へ来ると叔父は、まわりに誰もいないことを確め 「穴の中に入ってみてこい」と言ったので、おれは気味悪く思いながら、暗い穴の中を 通ってずっと奥へ行くと、突然明るくひろびろとした海のある美しい村へついた。
 
 そこには大小の土まんじゅうが沢山あり、墓標もあって大勢の人が歩いている。
 
 その中に思いがけず父や母がむかしより若く、兄さん達も元気な姿でいるではないか、 おれは声をかけようとしたが、近くにいた犬が猛烈におれに向かって吠えても皆は 不思議そうな顔をするだけでおれの方を見ない。
 
 
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 村の老人は、何かぶつぶつ言いながら灰をまき散らす。
 
 すると大きい兄さんがおれの前に来て、よその方を見ながらこう言った「上方から来た 弟よ聞きなさい。ここは下方の国で上方の国で死んだ者が来る所だ、しかし上方の国で 悪いことをした者は、カエルやマムシやトカゲや何か悪い鳥にされて上方の国へもどされる が、私達は上方の国で良いことをしたから、このように楽しく暮らしている。
 
 お前の叔父は悪い奴で家の宝を盗ろうとしてお前をだまし、アフンルパロに入らせ殺そうとしている。
 
 この国に来た者は、たとえ上の国へもどってもすぐ死ぬが、誰か身代りの者をよこすと、本人は 人一倍長生きし栄えることになっている。
 
 お前はすぐ帰って叔父に、下の国が美しく楽しい国であることを話して代りによこしなさい。」 おれはそこで大急ぎでアフンルパロの所へもどり村へ帰って、叔父を身代りにアフンルパロから あの世へ送りだしてやった。
 
 勿論この若者は美しい妻をめとり亡き父のあとをついで村の酋長となり栄えた。
 
 という話です。不思議な伝説のあるアフンルパロは、現在国道三六号線の冨浦の坂を 登りつめた西北側のすぐ上に標示されています。
 
 また、冨浦の高台(リフルカ)ランポク岬の上から眺める景色はホロベツ側をみても、ヌプリペツ側 をみても、素晴らしいものです。
 
 登別小学校を出、室中・一高・東大に学んだ偉大な言語学者「知里真志保」の記念碑は、彼が生前 「海の見える川のある丘に住みたい」ということから、室中同窓生を中心に、このリフルカの東側、ハシナウシ (海幸の豊漁を祈って枝幣をたてた場所)に建立されています。  
 
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鷲別の開拓当時

 登別市と室蘭市との境界は今日でも複雑ですが、江戸末期に、両市の境界について 書いてある記録があります。
 
 長沢盛至の「東蝦夷地海岸図台帳」によると、鷲別川の東側が幌別場所。西側はエトモ場所、 として当時のワシ別川が境界となっていたことがわかります。
 
 その後正式に決定したのは、松浦武四郎(北海道や幌別郡の名付親)の「北海道区画案」 明治二年によるものですが「西はモロラン領境より東は白老境フシコヘツ(現登別漁港)迄、 海岸四里十丁一郡に仕候。モロラン郡とは、東ホロヘツ領ワスヘツを以て境とし…」と 書いていますが、やはり場所請負制度時代の川が境界となっていたようで、今日の鷲別川 の流れと比較して当時の川の流れが面白いものです。
 
 さて、鷲別の地名は、チワッペツ=波・立つ・川、に由来するといわれていますが、江戸中期 以後になると地名が文献に時々でてくるようになります。
 
 
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 江戸時代も半ば過ぎになると北方から、ロシアの船が日本領の、エトロフ、国後島や 根室に来て上陸し、また、英船プロビデンス号がモロランにも来航したり北方警備は急を つげたので、幕府は蝦夷地を守るために、松前氏から領地をとりあげ直轄地とし、蝦夷地 の航路や道路の開発警備や漁場制の改革などを行ったが、ペリーの来航は遂に日本を開国させ 蝦夷でも箱館(ウスケシ)を開港したがロシアの進出は益々厳しく、領土や資源開発をめぐって 北方警備は重要問題となりました。
 
 安政二年(1855)幕府は再度蝦夷地を直轄地とし、奥羽四潘と松前潘に警備を命じ、 南部潘は箱館から幌別までの警備にあたり、外敵に備えて、ペケレオタ(室蘭市陣屋町) には、兵を配し大砲を備えて陣屋をつくり警戒にあたりました。
 
 この時に、ワシペツノツ(岬)の上に、遠見番がおかれ、警備の武士も配置され 沖を通る外国船の監視にあたったといいいます。
 
 明治になってからの鷲別の開拓は、明治三年に白石藩の片倉邦憲が家臣とともに幌別に 移住したがそのうち、須田弥平左衛門ら五戸は、鷲別に移住し約三十坪の草造長屋をつくって 住居とし、更に、明治四年には、小片五郎兵衛門ほか十戸が移住し、草造り長屋二十坪 の家を造り開拓をすすめていきました。
 
 一方室蘭郡には、仙台伊達家一門の角田藩主石川邦光が家臣ら五十一名をつれて移住したが、 山と沼沢、平地の少ない海岸地帯で土地も悪く開拓も困難をきわめました。
 
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 第二回移住団三百名の計画も藩主と家臣の折合が悪く失敗し、モロラン支配を罷免されて しまったので、幌別郡支配の片倉邦憲と、伊達亘理(わたり)藩の伊達邦成とで分割支配するようになりました。
 
 ホロシヨケ(本輪西北防波堤の地点)から東の地方や、チリペツ昼休番所建物・エトモ遠見 番所・砲台番所建物や備え馬なども支給され、幌別郡支配の片倉家が一時的であったが モロランを支配するようになり、その足場として鷲別は大きな意味がありました。
 
 鷲別を中心とする開発は、始め片倉家家臣の移住による農業が中心で、明治七年には、 農社が結成され、近代的な西洋式農法をとりいれ、鷲別ハマには、幌別と同様の農社社宅と 牛舎が建設され、社務には、黒沢精之進・遠谷源七郎らが担当して、約四十二町歩余の 模範畑を所有していたといわれますが、砂地が多く、明治三十六年の「村内概況知調」によると 「鷲別村は漁家多く農家は微々なり。而して漁業家は前年に比し生計上稍裕なり…同村は、 大小豆を耕作するもの比較的少なく馬鈴薯にて、澱粉を製造する者多し」と記され農業は成功しなかった。
 
 漁業はランポッケ(冨浦)と同様盛んで、魚は、カレイ・イワシ・ソイ・メヌケ・シリカップ (カジキマグロ)など種類も多く豊富に獲れて、特にカジキマグロは、大きいのになると、四百キロから 五百キロもあり、モリを手投げして射止めて獲ったといいますが、そのシリカップ獲りの名人として、 室三太郎の名がみられます。また、鷲別川には、鮭やマスが群をなして上り毎年豊漁が続いたといわれます。
 
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士族屯田の富岸開拓

 カムイヌプリ(幌別岳)から、山の稜線を南の方向に下ったところは、ル・クシ・シト (道・通っている・走り根)といって、鷲別から冨浦(※富岸の誤りか)にかけて鉄道に最も近い美しい山鼻であった所です。
 
 今は削られていますが、その走り根の西方の川を中心に広がっている広大な地域が、 ト・ウム・ケシ(沼・尻・の末)という意味の富岸です。
 
 沼の尻、と言われるように、富岸から新生町、若草町の鉄北地帯にかけては、登別市で 最も広い泥炭の大湿原地帯で、ヨシ、スゲを中心に、春は、ミズバショウが大群落をつくり、 夏は、アヤメ、カキツバタ、ノハナショウブ、レモン色のエゾカンゾウが咲き、その後 エゾミソハギ、サワギキョウ、シラヤマギク、そしてエゾリンドウが咲く頃は秋を迎えることになる。
 
 この湿原で分布上特色のあるものは、ヒロハドクゼリや、食虫植物のタヌキモ、モウセンゴケ などで、なじみ深い黒百合も花を咲かせていたし、両棲類では、エゾサンショウウオも多数生息していた。
 
 現在、直線状に流れているトンケシ川は、西の沢から流れる川と合流し、ワシペツ・ライパ (死んだ川口・古川の川口)といわれ、鉄道線路に添うように蛇行しながら、七曲り川とも 呼ばれて鷲別川に合流していました。
 
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 鉄道が敷設、運転が開始された明治二十五年以降、特に明治三十一年や明治四十年頃には、 大雨による川の氾濫が大洪水となり、鉄道も寸断されたので、以後、現在の河川に切りかえられました。
 
 また、湿原地帯の中の丘状に発達した地帯は、原始林が密生し、うっ蒼とした大木が空を 被い、動物たちの巣であったようです。
 
 この富岸に、早くから二、三の開拓があったとしても、集団で移住し、開拓の鍬を下したのは、 輪西屯田として入植し、予備役となった、もと屯田兵と家族の人達です。
 
 北海道の屯田兵は、明治八年に札幌琴似へ入植したのが最初ですが、明治政府は、ロシヤに 対する北方警備の必要と、北海道の開拓士族の生活救済や、当時渡島方面で起った桧山騒動などの ような治安維持、という目的から政府の財政的保護下に、奨励され、設けられました。
 
 明治七年から室蘭に予定されていた屯田兵による開拓移住は、政府の財政的理由による縮小や 計画の変更などによって、士族屯田としては終りに近い、明治二十年と明治二十二年の両年に、 二百二十戸、家族数をいれて九百七十一人の旧士族が輪西村と鷲別村を給与地として、中嶋台 (現在の中嶋神社附近)を中心に、鷲別から輪西にかけて入植しました。
 
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 しかし、給与地として開拓に与えられた土地は、泥炭湿地帯や海岸地帯のため田畑に不適で、 当地方の気候条件も悪く海霧や、白鳥湾から鷲別にかけては強風の通路でもあり、開墾も非常に 困難をきたしました。
 
 明治二十三年頃には、生活困窮のための自殺者や逃亡者も多く、対策に苦慮していました。
 
 この中で、屯田兵現役期間三年十カ月を終了し、屯田開拓地を離れて、トンケシに入植した人々 がいました。石井方淑(鳥取県士族)を長とした、竹中源兵衛(兵庫県士族)篠原兵次郎(福岡県 士族)蒲原忠吉(佐賀県士族)中川和三郎(福岡県士族)ら十名余 とその家族の人々です。
 
 彼等は、輪西屯田の追給与地であった鷲別村トーボシナイ(トプ・ウシ・ナイ=竹・群生している・ 沢という意味で、室蘭総合自動車学校より東の方)鷲別村イワリカナイ(イワ・エカリ・ナイ= 山を回っていく沢現在の亀田公園へ行く沢)鷲別村のカロベツの各給与地に入植しました。
 
 「屯田地の区画は、最初給与地三千坪(約一万平方メートル)で区画されたが、追給与地は七千坪 (約二万三千平方メートル)であるから、トンケシの給与地は最初から七千坪に区画された給与地を もらった。」と富岸で明治三十年に生をうけ富岸で育ち、現在八十歳として元気盛んな、 竹中清氏が先代の入植について語ってくれる。
 
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 さらに「トンケシは、低地が湿地帯や沼の跡で開拓も遅れ、高台は、うっ蒼たる森林で 直径一メートル以上の大木が茂り、開拓は鍬一つで大変であった。
 
 巨木を切り倒し、焼き払い畑地をつくる、焼畑農業であったが、当時、土地は肥えていて作物は、 豆を中心に沢山とれた。
 
 しかし、この地帯は熊の巣のようなもので、夕方になると出没し畠の方に居る馬が騒ぐので、 私の父が行ってみると、熊がいて馬を襲っている。
 
 大声をだして追い払おうとする間もなく、熊は父を襲い大怪我をした。
 
 馬は一頭は殺されていたが、幸い父はようよう助けられたものの一生背中に 熊のつめあとを残し、当時の開拓の苦労や傷あとを背中をみせて話してくれたものだが、 そのトンケシがこんなに変わってね」と、感慨深く語ってくれた。
 
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日本一だったヤマ・鉱山

 ホロベツ川(大きい・川)は、昔カニ・サシ・ペツ(黄金の音がそう然として 美しく響く川)という、別名でよばれていた伝説がある。
 
 この川の上流には、金鉱があって、水のきれいな流れの中で、砂金がふれあい、 美しい音を出しているのだ、というのである。
 
 砂金のふれあい、という伝説の通り、明治末から大正、昭和にかけて、金、銀、銅 を産出し、北海道の金属鉱業史上に輝かしい足跡を残し、また、大正五年から八年にかけて、 日本第一位の産額を示した硫黄の生産などは、登別の発展史上忘れえぬ記録である。
 
 現在は一大業を終え、深い山麓につつまれた静かなたたずまいの中で壊れかかった軌道の 橋や発電所、精錬工場の跡などが、わずかに残っているものの、むかし一時的にせよ、 登別第一の戸数を誇り栄えた「鉱山町」を、知る人も少くなってきた。
 
 幌別鉱山の鉱床ができたのは、地質学的にいうと、新第三紀の約二千五百万年程前の ことで、この頃登別地方は、海面下に没していたが、火成活動が激しく多くの火山噴出物 があって、その中に金、銀、銅、亜鉛などの金属の混在した鉱床帯がこの地方につくられた。
 
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 しかし、その後の第四紀の五十五万年から四十五万年前にかけて、来馬岳、ポントコ山 (札内にある小山)がつくられ、その後カムイヌプリ、鷲別岳、クッタラ火山が活動をおこして、 大まかな今日の地形がつくられたが、これらの火山活動で、金属鉱床の一部は埋没し、断層 として寸断され、消失したりする。
 
 その中で地表に近い一部の露出されていたものが、幌別鉱山であった。ただし、硫黄鉱山は 登別温泉地獄谷、大湯沼火山の生成と大体同時期である。
 
 さて、鉱山の発見はいつ頃なのか明確ではなく、江戸時代の資料では、登別温泉の硫黄採掘と 精錬や運搬についての記録もあるが、幌別鉱山の記録はない。しかし、カニサシベツという 伝説、地名の由来や鉱山地帯の地表には、岩盤の変色があるので、採掘は遅れたものの、古くから 知られていたものと思われる。
 
 江戸期安政の条約で箱館を、外国に開港することになったが、来航の外国船は、燃える石 (石炭)を要求したので、幕府は蝦夷の鉱物資源を調べているし、釧路の白糠や、茅の澗(芦沼) の採炭を開始している。
 
 しかし、間もなく、江戸幕府は滅亡して明治になり、米人ライマンを招へいして、明治六年から 全道的に地質の調査をすることになる。
 
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 ライマンの報告書「北海道地質総論」には、登別温泉の硫黄、カルルスの鉄鉱石、 そして、鉱山の金、銀、銅について、開拓使に報告しているが、ライマンが新しく 発見したものではなく、地元の人達から聞いてわかったものと思われる。
 
 報告書には「鉱山の金、銀、銅は鉱脈も少く将来性と企業には適しない」と書かれて いた。しかし明治三十九年からは、シノマンペツ(幌別川本流)の上流五キロにある、 旭鉱山(金、銀、銅)を中心に、大量に採掘されるようになり、また壮瞥の硫黄山から、 架空索道によって鉱石を輸送し硫黄の精錬も鉱山で行われるようになると、町は 大発展をとげる。
 
 明治四十年、幌別郡内で当時の中心であった幌別村字浜(現在の幌別町)の戸数百五十戸、 人口六百九十一人であったが、鉱山は戸数百八十一戸、人口六百七十一人と、他の鷲別、 登別村はもちろん村内第一の戸数を誇り、事業の拡大とともに、大正八年には、四百五十一戸、 従業員約五百名を数えている。
 
 鉱山の開発に努力したのが、当時、三井物産の北海道初代所長になった「小田良治」という人。 彼は札幌の老舗、五番舘の初代社長で、室蘭製鋼所の三井財閥の代表監事でもあり、明治 三十九年当時資本金四百万円をもとに、金、銀、銅の採掘と、精錬所による生産を開始した。
 
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 製品や鉱石の運搬は、幌別駅前から鉱山(岩之崎が近くにある)までの軌道六・九キロ (※九・六キロの誤り)、次いで旭鉱までの四・八キロを、当時七万円の経費でつくり、 鉱石や製品を馬で引く馬鉄式で、途中馬を代えながら、明治四十三年頃は、年間の運搬量は、 約四万トン、粗銅は一個三十キログラムの「ナマコ」にして送ったという。
 
 事業の発展にともない、役場支所、郵便局、学校(旭鉱の簡易教育所と鉱山小学校)、診療所 などを開設、会社のクラブ、雑貨商や旅館もでき隆盛をきわめた。
 
 しかし、このように栄えた、鉱山も第一次大戦後は銅の値下がりや、輸入硫黄におされて 会社は、三井と合併し、鉱業権は三井のものとなり、新しく「北海道硫黄株式会社」が大正 九年につくられたが、不況は続き、大正末には離散者も多く、戸数も半数に減少した。
 
 昭和になってからは、室蘭営林署住宅の建設や採掘もやや順調になり、その後満州事変、 日華事変や第二次大戦で一時的にもちなおしたが、戦争終了で政府の生産奨励もなく、岩之崎 鉱、旭鉱とも鉱床は枯渇し、蔭之沢も貧鉱で、新鉱脈の探索は行われていたが、今日では 全山閉鉱の状態で、誠にもの淋しく、明治四十年開設の鉱山小学校も、昭和四十九年三月、 ついに閉校式を行なったが、最後の小学生は三人、中学生は四人であった。
 
 明治二十五年幌別に生まれ、明治四十一年、十六歳から、鉱山で過ごした千葉ミカさんは『 金、銀、銅の立派な精錬所が立ちならび、東洋一だということで、当時の人達は誇りに 思って働いたものだ。その後の「ヤマ」の移り変りは、やはり厳しいものがあり、会社の 名前も変ってしまった。ヤマの人達は皆家族みたいなものでね。学校も四回立て直したけど、 一番立派な学校が建って終りになるなんてね』と感慨深く語ってくれた。
 

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