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郷土史探訪(17)   宮武 紳一

「カニ・サシ・ペツ」の源流を訪ねて「鉱山町」

 小学校時代、学習した地図帳に幌別の地名があり、鉱山印が記入されていたことを思い出します。
 
 晴天に恵まれた五月末の日曜日、郷土文化研究会会員十三名で金・銀・銅・硫黄などを産出した 幌別鉱山跡の昔をしのび、多少、山師の気持ちを味わいながら学習に出かけました。
 
 案内者は鉱山町に生まれ住む千葉辰男さん(六十八歳)で、生粋の鉱山人。
 
 鉱山事務所跡、硫黄・銅の製錬所跡、硫黄山への架空索道跡、それにライバエオマペツ (来馬に水が向かっている川)の鉱山鉄道架橋も朽ちはて、日本一の硫黄生産を誇った 往時の繁栄を思う時、現在の姿は痛々しい風景です。
 
 千葉氏先導車の案内で鉱山製錬所跡を右手に、鉱山町の旧社宅跡、白滝坑跡を左手に遠望し、 シノマンヘツ(本流の上流)を西北の方向に進む。そして前方に山田秀三先生のアイヌ語地名にある アソイワ岳(幌別川の源流を発する)が屹立している。
 
 
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 鉱山町より約四キロの地点は旭鉱山の集石場ですが、集石場(選鉱所)より 北西の方向、二の沢を小川添いに約三百メートル進むとズリ山の跡があり、更に 西の方向約五・六十メートルを山添いに行くと目指す旭鉱の狭い坑道がぽっかりとその入口をみせています。
 
 明治四十一年の殖民公報記載の幌別鉱山の沿革をみるとー
 「明治二十七・八年頃、小樽の人某が、滝の沢(鉱山町西方)、一ノ谷(蔭ノ沢) に於いて試掘し、三十四年頃、一ノ沢に於いて試掘したれどもその結果不良にしてー
 
 三十九年夏、現鉱主小田良治が採鉱をなさしめたるに、一ノ沢・滝ノ沢・岩ノ崎 (鉱山町西北部)・山ノ下(銅製錬所跡北東)・日ノ出・鷲別沢・熊ノ沢 ・旭等の各所に鉱物を発見し之を分析せしに、有利の見込み立ちたるをもって専ら力 を旭坑に集中することとせり」と記されています。
 
 小田良治は三井物産の北海道初代所長、札幌の老舗「五番館」の初代社長・室蘭日本製鋼所の 三井財閥代表監事で、これらを背景に資本四百万という巨大資本を投じ採掘、製錬を 開始しますが、その元はこの旭坑のヤマです。
 
 坑道に入ると外の暑さが、一度ひやりとする涼しさで、坑道内の高さは約二メートル、 幅は広い所で四・五メートル、中でいくつにも分かれています。
 
 
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 とにかく真暗闇で、案内役の千葉さんと会員一人の照らす二個の懐中電燈の光から 目をはずすと足元も前後左右もまったく分りません。
 
 また、手掘りの採鉱石を搬出するための竪坑の大きな穴がぽっかりと垂直にあるので、 坑道の中の状況をよく知った案内人がいなければまった危険です。
 
 懐中電燈や写真のフラッシュの中で見える鉱床は、緑色凝灰岩とプロピライト中の 黒鉱石鉱床ですが、坑道の最も広い場所の天井部から珪化物が笹の茎程の太さで 筒状をなして下っていました。これは珪酸質の多い事を示しています。
 
 緑色凝灰岩中では、鉱染作用が進み、黄鉄鉱の微晶を伴って含金珪化帯となり、 特に旭鉱のように硫化物が酸化し溶解した所は含有金の品位がよく、全盛期の面目が伺い知れます。
 
 また、工員がワラジの間に砂金を隠し持ったりするので、外に出す時にはワラジの底を 叩いて坑外に出したという挿話やホロベツ川が昔、カニ・サシ・ヘツ(黄金の音がそう然として美しく響く川) と呼称されていたゆかりも渓流を眺めていると不思議と想像できるのです。
 
 
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金山から九マイルの馬鉄輸送「<鉱山町」/h3>

 金・銀・銅を含有した幌別鉱山の鉱床が生成されたのはいつごろだったのでしょうか。気の遠く なるような話ですが、カムイヌプリ・鷲別・来馬・オロフレ岳などの姿をまったく見ることの できない古い時代です。
 
 登別地方の地質の歴史から調べると、基盤に白亜紀時代の古い地層が鉱山町北西3・5キロメートル 幌別川の上流北側、大曲沢や熊の沢、そして鉱山町岩の崎坑附近の幌別川岸に露出しているのがみられます。 この時代は巨大な恐竜を思わせる、は虫類の時代ですが、恐竜・翼竜もやや小形化し、やがて滅亡 をたどる年代のもので、これが登別で最も古い六・七千万年前の地質です。
 
 その後、地質年代の第三紀になると登別地方は海面下に沈みますが、激しい火成活動が繰り返えし 行われ、幌別層という堆積物により陸地化しこの時に幌別鉱山が造成されます。
 
 そして第四紀洪積世の時代、約二百万年前から氷河期になりますが、この時代になってからカルルス火山、 来馬岳、札内のポントコ山、カムイヌプリ、鷲別岳などが火山活動を起こし、洪積世の後半には札内台地をはじめ、 幌別川から北東、登別温泉や登別にかけての地形や登別市内の今日の山々が形成されます。
 
 新第三紀に造成された鉱山の金属鉱床は、前記説明のように古い年代なので、その後の火山噴出物などによって 埋没しますが、褶曲や断層などの変動によって一部露出し、これが幌別鉱山の金・銀・銅などを含んだ鉱脈となります。
 
 製錬所は鉱山町そばにある岩の崎坑の前面を流れるエコイカオマペツ(右支流) の対岸に造られ、熔鉱爐は直径三尺五寸(一メートル五センチ)、高さ十八尺 (六メートル)三基を備えて、一日十トンから十三トンの鉱石を製錬したようですが、鉱石 は珪酸質でなかなか溶解せず、虻田から酸化鉄や釜石から運搬した石灰石とを加えて 製錬に苦労したようです。
 
 
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 製錬するとマット(銅鉄・硫黄の混合物)とカラミ(いわゆるカナクソ)になり、マットは 更に精製して金・銀を含む粗銅として最初は大阪の三菱製錬所へ特約販売したようです。 カナクソは四角の型わくに流入して堅石を作り、土砂崩れを防ぐ土止めや駅のホーム、建物の 敷石などに利用され市内各所でよく見かけたものです。
 
 明治四十年十一月に完成した鉱産物の運搬軌道は、幌別駅から中央町四丁目の 千代田生命、小がね食堂直前の道路を村上薬局と丸宗会館の間道へ進みます。 さらに来馬橋から富士町、片倉町、登別高校通りを直進し、ダムの所で鉄橋を渡り 鉱山に向いますが、ここまでが約六マイル(9・6キロメートル)の距離です。
 
 そして、鉱山町から一躍有名になった金山の旭鉱山までの距離三マイル (約4・6キロメートル)の軌道も明治四十二年に完成し、双方の総工費は 当時で四万円という膨大な経費を投入しています。
 
 しかし、動力は馬がトロッコを引っ張るいわゆる「馬車鉄道」でそれもすべての貨物の 運搬は請負い制でした。運賃は、幌別停車場の鉱山倉庫から製錬所まで冬期間は一トン につき一円、夏期は七十五銭。
 
 一台のトロッコに三トンを積むことが出来るので、冬はトロッコ一台分三円、夏は二円 二十五銭の計算となり台数によっては収入もよいはずですが、鉱山への上り坂では、 食糧はもちろん工場関係物を運搬するために取り替え用の馬の準備や下りでは重量のある トロッコの暴走事故など、笑い話のようですが馬鉄の馬力にも限度があり相当の苦労があったようです。
 
 
 
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労働運動の先駆 友愛会の結成「鉱山町」

 開拓使がアメリカから招いた地質学者ライマンは、明治五年(一八七二年)に来日し、炭田・油田・金属鉱床などの調査に あたりました。登別市では登別温泉・地獄谷・大湯沼の硫黄、カルルス地区の鉄鉱石、そして幌別川上流に金・銀・銅などの 鉱物資源があることを「北海道地質総論」などで報告しています。
 
 ただし、ライマンの調査では、幌別の金・銀・銅も鉱脈が少なく企業には、まったく適しないということで、後の旭坑、岩の崎坑 などの好成績を考えると表面的調査に終わったと考えられます。
 
 当時、未開の地・北海道の木材、水産、そして鉱物などの資源に目をつけ投機的企業を行う者や、 特に一攫千金を夢みる山師達は、道内各地を回り歩き「カニサスヘツ」の異名をとる幌別川上流にも間断なく訪れたようです。 そして鉱山地区での川床や崩落した川岸に緑色凝灰岩や黒鉱石鉱床がみられることに血眼になったことでしょう。
 
 満足な探索道具も持たない彼らには砂金や銅鉱の露出部の発見が出来たのかどうか、結果的に大規模な調査や有力な鉱脈の 発見と採掘、製錬の開始は前号紹介の小田良治によって明治三十九年以降に開始されます。
 
 明治四十一年の報告では鉱山労働者四百五名、内訳は坑夫八十名、支柱夫五名、製錬夫三十五名、鍛冶十七名、大工二十一名、 雑夫二百四十七名で、一カ月の労働日数は二十八日でした。
 
 
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 また、馬車鉄道の運搬が請負制であるのと同様に掘夫の仕事も請負制で、幅三十センチメートル・長さ 百八十センチメートルにつき平均六・七円の割合で、一カ月に二度係員が調査したようです。
 
 金・銀・銅鉱の採石の仕事は、坑道に入ると暗黒の世界と水との戦いで、ブリキ製の種油燈に鯨油を入れ、 灯心に点火して坑内用の明りとしたものなど、現在の炭鉱風景にみられるような近代的なものではありませんでした。 採鉱の用具には、たがね・かなてこ・のみと鎚での手掘り方式という大変な労働でした。
 
 生活の日用品は、賃金と差引き勘定で事務所で販売を行っており、殖民公報によると、米六十キロが七円 八十銭、味噌三・七五キロで四十五銭、醤油一升が三十五銭、酒一升が六十銭で米の高値は誤りでしょう。
 
 北海道開拓の裏面史には、道路・鉄道開設などの土木工事に土工部屋・タコ部屋制度、鉱山業では納屋頭、飯場頭、 棒頭などによる納屋制度・友子制度という苛酷無惨な労働者の生活史があります。
 
 
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 明治四十二年十月、幌別硫黄山において南助松らによる労働争議が暴動化した記録もあり、 生産設備や生活保障もない山間狭隘の山奥で少数者による友子制の名残り的労働が なされていたのでしょうか。問題のある点です。
 
 大正三年六月、室蘭では我が国労働運動の先駆者、鈴木文治を迎えて北海道で始めての 友愛会結成発会式が行われました。幌別鉱山でも大正五年、友愛会幌別支部が小林立蔵、 石井豊一らを中心に三十名で結成されましたが、大正六年の日鋼争議に伴なう弾圧で同年 の春に解散しています。
 
 それにしても、明治四十年には、幌別郡内の戸数で第一位、役場支所、診療所、会社のクラブ、 二つの映画館、旅館などがあり、物資も豊富で、早くから電燈がつき、当時、玉突場(撞球) があったのは鉱山だけと昔のヤマのよき時代を語る川又輝光さんと今は故人の千葉ミカさん との対談には誠に興味深いものがあります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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陸(おか)蒸気、登別を走る

 鷲別町から登別港町の伏古別トンネルを走る国鉄室蘭本線(旧北海道炭鉱鉄道) の創設は、明治二十五年(一八九二年)です。東海道本線の全線開通は明治二十二年で 「あれごろうじろ、長屋が走る」と驚嘆の眼でみられていましたが、開通年度では 引け目を感じません。
 
 室蘭本線の前身、北海道炭鉱鉄道敷設の理由は、道内で開発された幌内炭鉱などの豊富な 石炭を本州の工業都市に室蘭港(明治五年開港)から送り出すという国家的課題にありました。
 
 そのため、明治二十二年北海道炭鉱鉄道株式会社が創設、ただちに実地調査にうつり、今から 九十二年前の前記明治二十五年に鉄道が完成されました。
 
 開設区間は、現在の輪西(当時室蘭駅と称した)から岩見沢間の約百三十五キロメートル。 開設駅は輪西、幌別、登別、白老、苫小牧、追分、由仁そして終点岩見沢までの八駅で、 輪西から現在の室蘭駅に開通したのは明治三十年です。
 
 また、鷲別駅が村民部落の当時、カツオ漁などが盛んだった漁業を中心とした陳情で開駅 したのは明治三十四年、富浦駅は昭和二十八年十二月、人口増に伴う冨浦町民の奉仕的 立場から簡易駅として開設され今日に至っていますが、実は明治三十年から同三十六年まで 蘭法華仮停車場として設けられていたこともありました。
 
 
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 北海道炭鉱鉄道開設当時の車輛は、機関車二十四輛、客車特等車一輛、上等車二輛、上・中合併車二輛、中等車三輛、 並等車二十八輛、その他荷物車、貨物車など全車輛は六百十四輛で、室蘭・岩見沢間 を一日に二度、室蘭・小樽間も同様で計四回運行しています。
 
 明治三十四年の鷲別停車場開設時は、機関車六十一輛、客車八十三輛、貨車千三百五十輛で停車場も五十駅に増加 しています。これは明治二十七・八年の日清戦争後の国策によるものでしょう。
 
 登別・幌別停車場開駅当時の登別村内の総人口は約二千三百余。ー
 
 近隣からも見物人は山をなす勢いにて恐るべきを知らず、袖を触るるばかりに近づく者もあり、 また見るも恐ろしきというように遠見する者ありて、喝采の声は汽笛とともに絶ゆる間もなしーというように、初めて 見る汽車の形態や作動に村民の驚き、どよめきが聞こえるようです。
 
 黒船の蒸気船に対し「陸(おか)蒸気が走る」といわれたのも明治初期からの頃です。
 
 
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 さて、始発の室蘭駅は現輪西駅の西北に位置し旧輪西町の町も現新日鉄の構内、当時の 海岸地帯に村落がありました。したがって、始発の室蘭駅から鷲別までは現在の新日鉄の 構内を直線に結んでおり、西北部に白鳥湾、中島、高砂と室蘭屯田開拓の状況が荒廃の中に 点々と見え、一方南側の東町、日の出町一帯は大湿地帯で、鉄道はその中を通って鷲別停車場に入ったのです。
 
 鷲別駅は、現在町並みに埋没していますが、当時は鷲別川口を中心に東側海浜に面して村落が 形成されていたので、駅から町までは人家がなく淋しいものでした。昭和十年代、私が学生時代 で通学の時でも西北側に家屋がみられず、南側は鉄道官舎と民家が点在する中で、鷲別川の大きく 蛇行した川水が草深い中を流れていました。
 
 「室蘭発車すりゃトンネル越えて
   輪西・鷲別・幌別と
    一等名所の温泉場サノサ」
 
 日露戦争後、流行し唄われたサノサ節にあるように、鷲別から登別へ進む陸(おか)蒸気は、 汽笛を鳴らし多くのロマンを秘めながら走っていたのです。
 
 
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陸(おか)蒸気、登別を走る

 明治二十五年、北海道炭鉱鉄道室蘭線開駅当時の旅客賃銭は、幌別・室蘭(現輪西駅)間が十一銭、幌別・登別間は七銭でこれは 並等車の料金です。当時、米価は十キロ約五十五銭であることからみて安くない料金であったことでしょう。
 
 当時の機関車は米国製で、開設時の弁慶号、しづか号で知られる牛よけの「カウキャッチャー」を前部に取り付けたのが特色で、 北海道の場合、雪除けの方が実用的であったでしょう。
 
 さて、最初の鷲別停車場は、現栄町一丁目旧帝国酸素付近にありましたが、鷲別村落から離れて不便なことから現在地に変更されて います。それでも当時、停車場からは村落が浜側に遠く、また砂丘も発達していたので町並みは見えませんでした。昭和初期の駅前通り 東側草深い葦が一面に繁り、鷲別川が三日月形の沼を作っており、ドロカクベツ・ドロカワップなどと 呼称されていた由縁もわかるようです。
 
 駅を発車すると、すぐ鷲別川鉄橋で北側に鷲別川と上鷲別・若草町方面のトプシナイ沢水が合流していたのがみられ、これが鉄道敷設前 のトンケシ川口であったのでしょう。
 
 車窓からの景色は若草町、新生町を過ぎて富岸町に至るまで、山麓の針葉樹の繁みが人家を思わせるだけで家が一軒も見られませんでした。 また、鉄道から北西側約一キロは湿原の谷地(やち)が続き、ハンノキ、ヤチダモ、ヤチヤナギなどの湿生樹木が繁っていました。
 
 
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 秋や冬の広漠とした大湿地帯も春は水バショウが白一色の大群落をつくり、初夏はアヤメ、カキツバタ、 ノハナショウが一斉に花を咲かせ見事な紫色の群落となり、エゾカンゾウもオレンジ色の花を咲かせ、 私が幌別川、鷲別川に至るまで通学列車の窓から見た自然の景観は今日でもはっきりと描き出されます。
 
 一方、車窓の南側も鷲別川を過ぎて間もなく、高さ約七・八メートル程の砂丘がコブ状に続いたあと低いカシワ の樹や萩などが生えるほかはほとんど草原でした。
 
 富岸近くにくると車窓北側に輪西屯田除隊後の人達や讃岐地方の入植者により開墾された水田が遠くに見られ、 富岸鉄橋を過ぎた南側は牧場地帯が海岸まで続き、緑の草原に柏の樹木も繁り、点々として牛が放牧されていたのを 思い出します。恐らく十数年前には見られた田村牧場ですが、現在はその面影の一片もありません。
 
 汽車が大和町一丁目にくると緑町・青葉町へ通ずる踏切があります。「札幌本道踏切」と命名されていることから、 ここから鉄道の北側旧札幌本道が通じていたことも分かり、明治二十五年の過去にさかのぼる踏切が残されているのも珍しいことです。
 
 幌別と冨浦間、幸町・新栄町は明治十五年以降、香川・淡路県人に開拓されましたが畑作で成功せず、 馬の放牧場も使われた場所が多くありました。ところが、木柵から抜け出た馬は遠慮なく線路上に上がり、汽車がきても 避けようとせず、馬の轢死(れきし)事故は前記・札幌本道踏切から富浦間で多く発生しました。
 
 不思議に横に避けず、機関車が近づくと線路上を直線に走り出す馬の死傷事故は、飼主が罰せられるので申し出る者もなく、 処理する鉄道保線区でも深く詮索せず、寛大でした。これは、馬が荷物運送の主要な役を果す交通機関であり、また カウキャッチャーなどの取りつけで大事故に至らなかったことが要因でしょう。

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