◆  登別市立図書館市民活動サポーター おすすめ郷土資料

郷土史探訪(18)   宮武 紳一

我国最初の長距離車馬道「札幌本道」の開設

 「四百三十番は鷲別なり、鷲別の川幅十七・八間、橋台を築き、長さ十二間の橋を架せり。満ち潮は橋下四・五尺に上れり。 山の山腹を開削して四方土塁を築き官吏詰所を建築し、長屋二棟・板庫一棟、別に炊事場を建つ・・・」
 
 これは、明治五年北海道開拓の一大事業として室蘭から札幌に至る「札幌本道」開設の「新道開削事業報告書」 の中で、鷲別を開道した状況を記録したものです。
 
 「国を造る場合は昔も今も道路造りが第一である」というケプロンの献策によって明治政府は、東京・室蘭間に 定期航路を開き、室蘭から札幌間に鉄道を敷くことも許可しました。理由は、蝦夷が島といわれた北海道の開拓が 順調に進まないうえに、ロシアとの北方領土の問題などが山積みで早く北海道を開拓する必要があったからです。
 
 当時の中心的な道路といっても海岸側や低地帯に「刈り分け道」という幅が約一メートル程の道路で、両側の草を少し 刈り取った程度の粗末な道しかありませんでした。荷物の運送も馬の背に乗せて運ぶというもので 大量移送は出来ません。
 
 これでは北海道の急速な開発は望めないので、開拓使は御雇外国人七十六名を招いて 農・林・水産・地質鉱山・土木測量・化学など全ての面の開拓計画に務めました。 クラーク博士、米国農務長官を務めた前記のホレース・ケプロンなど四十五名が 米国人であるのは新大陸を開拓した米国が北海道開拓に似合う面があったからでしょう。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 

 

 いずれにしても、現在の国道三十六号線に相当する札幌本道の工事がチカが沢山いたので 「チカ・入江」の意味のトキカルモイ(新室蘭・現在の幕西・海岸町辺)を基点第一番杭とし、 鷲別四百三十番杭に至り、札幌豊平橋まで四千四百四十番の杭が打ち込まれています。
 
 事業報告書によると「鷲別から幌別の間に、橋が三か所あり幌別は砂利にて急に出水するので 橋をかけたが流され、また橋をかけたが出水の時は橋台の片方に水が被さるので舟を二艘用意していた。」 といいますが、当時の幌別川の川幅は四十六間・約八十三メートルで、工業用水などで取水している今日 と異なり当時は水量も多く深かったので橋の設置も大変でした。
 
 明治五年に造られた幌別橋は、明治六年にはすでになく、渡船に変わり、渡船の料金は 一人が七厘、馬一頭は一銭、渡守の一カ年の給料十四円五十二銭で請負制度になっていました。 また当時、道内の渡船場所が百十箇所もあることは架橋が予算面で追いつけない状態を示しているようです。
 
 札幌本道の路幅は九メートルで路面の土盛りは厚さ約四十センチ、道路の両側に排水の溝を掘りましたが、 人家のある所は路幅を十五メートルとり、道路に沿い家を建てる場合は道路から三・六メートル離されることに なっていたようで、国防上・国策上から札幌本道の開設工事は約五千余の人海戦術によって進められました。 しかし、なかなかの難工事で、特に前記幌別橋の流出や、「ランボッケの坂路は峻険にして火薬を用いて 之を破裂し、三百米につき一・五米以上の勾配をなし開削が特に困難を極めたり」という特記事項もあります。
 
 いずれにしても「砂利敷」マクアダムス式舗装で、長距離の馬車道では我国最初の札幌本道が登別市内を通ることに なりますが、当時、登別に入植し、開拓していた人達への影響や道路がどのように通じていたか、働いて いた人達の生活はどうであったかということなどの問題も多く残されています。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 
 

金毘羅宮の絵馬から登別市の開拓を訪ねて

 「讃岐の金毘羅さん」で有名な金毘羅宮は、成田の不動、伊勢神宮とともに古くから 全国的に知られた神社で、特に江戸期、十辺舎一九・滝沢馬琴や小林一茶、与謝蕪村らの 読物、文人墨客の他、西国大名が参勤交代のとき立寄る所となり、門前町として全国に 信仰圏が広まったことから今も参詣の人が絶えません。
 
 この有名な金毘羅宮に「北海道札幌県胆振国幌別郡開墾略図」と書いた絵馬が奉納され飾られて います。奉納は明治十六年二月吉日、当時の愛媛県から明治十四・五年に登別へ移住開拓した 人達によるもので、横約二メートル、縦一・二メートル余の大扁額です。絵馬から判読される者 約四十七名の出身氏名が記され、今から百数年前の登別の町並みの中で開墾の姿を描き出して いるという大変に貴重なものです。
 
 町史によると明治十四年の登別の総戸数六十七戸で人口二百六十七人、それが明治十六年の 戸数百二十九戸・人口四百五十人に増大したことは絵馬に記入されている移住者が家族を伴ない 居住していることを示しています。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

 それでは「金毘羅宮の絵馬」を奉納した人々の移住開拓の状況はどうだったのでしょうかー
 
 四国讃岐の出身はほとんど丸亀港から函館まで船で渡したようですが、当時は途中停泊しながら なぎの日をみて航海するので日数も十日以上を費しています。
 
 函館から登別への経路は、第一に徒歩で噴火湾沿いに歩く、第二に函館から森まで歩き 森から室蘭へ船便を利用する。第三は直接函館から室蘭へ船便を利用し登別へ来るという方法でした。
 
 第一の方法は馬車の発達していない時代ですから家財を運べず、第三の方法は直接室蘭まで来る最良の 方法ですが、月三回程度の小型の船が天候をみて航海するのでいつ出航するのか分らないということでした。
 運が良ければいいのですが、結局彼らは函館で二十日間の滞在徒食をし、荷物を函館の道具屋に 預け、必要最少の荷物を持って第二の方法、森まで歩き室蘭へ渡っています。運の悪い例ですが、目的地 の登別に着いたのは、明治十五年四月五日に出発してから翌月の五月八日ということから 三十余日にも及んでいます。当時の幌別は札幌本道を中心に古くから居住していた人たちの家屋が海岸方向を中心に 約五十戸、片倉家旧家臣五戸、南部藩家臣三戸、駅逓一戸、その他数戸に神社がありましたが、 郡内では鷲別川口付近、冨浦、登別川の旧国道沿いに家が点々とあるような淋しい村でした。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

 入植した絵馬の人たちは、幌別川、来馬川沿いに入植した人もいますが、 札幌本道(現三十六号線)を間口に山側へ向ってオカシベツ川付近から冨浦の 方へ入植した人が多いようで、最初に建てた家も手頃の丈夫な股木を六本作って 主柱とし、股木に丸太棒を渡して棟木としたところで葦を刈って屋根をふくという簡単な もので全くの仮小屋でした。
 
 入植した当時の東来馬(常盤町一・二丁目)は千古斧を入れぬうっそうたる樹木に おおわれて、ナラ・桂・せんの木などの大木は用意していたノコやナタでは全く歯が たたず、大木の下に密生する熊笹もクワやカマでは無理がありました。結局は 類焼しないように周囲の木を倒し、笹や小枝を切って焼き畑にするという事が最も取り 早い方法で、開拓者が語るほんの一部ですが寒い冬に向う当時の開拓者の心境は現在の 私達に想像できない苦労があったと思います。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

金毘羅宮の絵馬から登別市の開拓を訪ねて

 「金毘羅宮に納入した明治十六年の幌別郡開墾の絵馬が、国指定の重要文化財に指定されているので、 登別への里帰りは許されないようです」と市史編さんの大西室長からお話を受けたのは最近のこと。
 
 考えてみると、二メートル余りに及ぶ開拓の絵馬は全国でも珍しく、開拓者の姿が生き生きと描かれているのも 将来の夢と期待をよせたものでしょう。移住、開拓、しかし、それは当時の人達には命がけの事でした。  
 移民は同郷の場合、先発移民を頼り移住しますが、土地の割当を受けたらまず草木を刈り、手の掌を 合わせた「合掌小屋」「おがみ小屋」を作り住みました。夜はオオカミ、山犬の遠吠におののき、隣家も見えず樹木に 埋まった掘立小屋で望郷の念を一層かりたてたことでしょう。また開拓者の苦労は土地の条件で左右され、 地形・草木の状態・地味・・飲料水・気候など、この点札内の開拓者は明治初期から苦労の連続でした。
 
 土地の選定は未開の大樹林ですから春の融雪期は見通しがつき、土壌の良悪も草木の種類、生育状況を みると分ります。樹が太く長く伸びていると地味は良く、太いだけで背丈の短いのは壌土が浅く砂礫層、 また、樹が密生して幹が細いのは痩地です。
 
 カツラ、クルミ、イチイ、シナノキなどの生育地は最も良く草木もヨモギ、イラクサ、笹などが 太く長く生育する所がみ良いのですが、カヤ、ススキ、カンゾウ、ワラビ、鈴蘭の地は痩せ地で、 ヨシ、小笹類の湿地は木良とみられました。登別の開墾地の場合、総体的に河川を中心とした 肥沃な地の開拓が早かったようです。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

 開墾地を選び、住む小屋を作り、樹林も切り開いたものの整地までは程遠く、 最初は鍬で地面を浅くおこす「割りおこし」でソバやエンバク、ナタネなどを ばらまきにしたり、「筋おこし」「坪おこし」といって種子をまく部分だけおこし、 キビ、アワ、大豆、カボチャなどをまきました。
 
 これは、いずれも後日、除草の時に周囲を耕作するという急ぎ方で、厳しい冬を 生き抜くために秋の収穫は、大切な食料を少しでも多く保存することから真剣でした。
 
 開墾した土地は二・三年目から畑らしくなりますが、開拓者の苦労は多く、ヒエ、 アワ、麦に米を混ぜて炊くカテ飯すら食べられず、野草や木の実、川魚などを手当たり 次第に保存食としました。
 
 また、家の中は一棟一室、室内の半分は土の上に野草を敷き、その上にむしろを敷く といったもので、病人が出た場合など、隣の家は遠く離れ、医師や病院は考えようもない ことでした。「讃岐移民団北海道開拓資料」には当時の北海道移住者の状況が掲載されて いますが、明治二十四年、幌路別村トンケシに一時入植した岩倉浜治氏が故郷の知人に 送った手紙を現代文で紹介するとー「時折柄御家内様ご無事でしょうか、私出立の折の 御心配本当に有難く存じます。私この度幌路別より三里山奥へ行き鉄道用材を受取り 一つにつき二銭五厘で八百受取り三月二十九日より四月八日までニ十円もうけ、飯料を払い、 取前金十七円ハルが三円その他合わせて二十二円残り幸せに思っておりますのでどうぞ 御安心下さい」
 
 その岩倉浜治氏は登別村ランボッケへ、そして明治二十八年湯の滝(登別温泉)の将来を 見越して湯宿を経営し登別温泉開祖の先駆を果していますが、絵馬に記入された開拓者にも 朔北の地生きたドラマ」という単なる表面的言葉で解されない苦労があったことでしょう。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

郷土史探訪の終筆にあたって  宮武 紳一

 登別の歴史を分りやすく市民の方がたに知らせ、郷土理解に役立てようと市が企画し、掲載し続けた 「郷土史探訪」も昭和五十一年四月の第一号から約十年の歳月を経て百号を迎えたということですが、 記述の長短より十年前の登別の自然の姿を思う時、大湿原が埋め立てられ、原野が町と化し、山麓に住宅が 建ち、札内台地は開発され北海道縦貫自動車道建設の土音も高く工事が進められていることなどの今日を 思うと、時の流れの早さと比較して自然の大きな変わり様にただ驚くばかりです。
 郷土史探訪のことでは、一号から十号までは市立図書館勤務で大学後輩の桜井大君が記述し、私が書いた のは十一号「登別の開拓と動物たち」から今日までで、桜井君と終結の喜びを共にしたい気持ちです。


 登別も他の地区と同様に、郷土の研究は遅れていました。登別の大地に悠久に続いた時の 流れを今残しておかねばという焦り、登別の大地で生きた人々の足跡を今自分達が引き継いで いるのだという事を思う時、登別高校で昭和四十年郷土史研究会を作りました。

そして、生徒とともに古老を訪ね、聞き取り、調査をすすめ、山野を歩き旧宅を訪ね、史跡の実証の為に 遠く函館図書館、北大北方資料室、道庁資料室、日高方面の二風谷、平取方面に出かけ ました。江戸場所請負時代、開拓使以降の登別市の研究やジョン・バチェラー、知里真志保、 金成マツさんなどを通じてアイヌ語やアイヌ文学、アイヌ悲史(登別における)も多く 学習することが出来ました。

 特にこの時代、考古学関係で、登別・室蘭・伊達方面の遺跡発掘の際北大の大場利夫教授、 札幌医大の峰山巌教授らの指導のもと約十年間発掘調査の学習に参加しましたが、四十二年発行の 「登別町史」で登別町の遺跡紹介のほとんどが生徒とともに発掘した場所、名称、遺物の調査で あったことのうれしさは忘れ得ません。


郷土資料トップページへ戻る  
 
 

 郷土史探訪は、郷土意識を高めるための一助として、平易に取り上げ、分野も地史的に 登別の山や川などの自然環境、動植物・生物そして先史時代の遺跡関係、一般通史では 幕政時代・藩政時代の幌別場所と明治以降の開拓史、農・水産・鉱業などの産業経済史、 登別の風俗、伝承、史蹟など多岐にわたり記述しました。
 
 しかし、特に後半、字数の制限や資料不足で意をつくせぬことが多かったことを おわびしたいと思います。
 
 長い記述の期間でうれしかったことー地学関係では生徒のクラブ員とともに 約六百万年前のホルテペクテンの発掘を契機に札幌教育大学の春日井昭先生が 幌小時代の親友であったことから、クッタラ火山の研究が一層進められたことです。先生を 中心とした方々が昨年、登別加化石林を発見され、全国に紹介されたことは市民 の方がたもご承知の通りで、郷土を愛する春日井先生との握手は感激でした。
 
 また、北大、教育大、北方資料室、開拓記念館の諸先生や地方史研究の多くの知己を 得、特にアイヌ語研究の山田秀三先生には現在でもご指導を受けているなど冥利につきます。
 
 
郷土資料トップページへ戻る  
 
 

 そして、大勢の方がたから励ましの手紙やお言葉を頂き、テープの吹き込みで 福祉活動に利用したり、家内で読み聞かせたり、父母の昔話や自分達の郷土の話題 となったというお話、そして巡見活動の案内依頼や本にまとめてほしいなど、反響が 多かったことと郷土を知ろうとする方がたの多いのに驚きました。一方、聞き取り 調査では、約五・六十人の古老の方がたから昔の思い出を伺ったことは忘れることが出来ません。
 
 年代不順ですが、カルルス温泉というより登別市の歴史を語ってくださった日野昇さん、 幌別鉱山の千葉ミカさん、知里博士を語る山崎正一さん、煙草栽培の井上藤吉さん、山田 先生・知里先生の師ともいえる板久孫吉さん、富岸入植の竹中清さん、ジョン・バチェラー を語る平野茂雄さん、その他、森直樹さん、湊沢キクヱさん、三好秀一さん、山木サキ さん、田代茂さん、そして片倉家を語る紺野キミさんら数えるときりがなく、 明治生まれで聞き取り調査の時は八十・九十歳であり、現在は既に他界され 今は伺うことのできない方がたばかりです。
 
 それでも、まだまだ語ってくださる方もいるでしょうが、考えてみると戦後史も 遠くなりつつあります。
 
 なお、暢陽の節を期し、思いのままに勉強もしたいのですが、今日までのご愛読に感謝しつつ 筆を止めます。
 

 ←探訪(17)へ     目次へ   

郷土資料トップページへ戻る  
 
 

Index