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郷土史探訪(12)   宮武 紳一

河川跡に生まれた町「新川町」

 北東側は富士町と接し、西南で幌別川に面した住宅地域が、昭和四十九年の行政地名変更で新しく誕生した新川町です。
 
 町名の由来も、大きく蛇行して流れていた幌別川を整備して緩やかな流れにし、堤防の設置などによって 新しい幌別川をつくり、古い河川跡を埋め立てて、新しい町づくりが行われたところからこの町名が生まれました。
 
 昭和初期の幌別川は、台風などで海の波が高くなると、河口が砂で塞がるため、川水が溢れて逆流し、 幌別川と来馬川をはさむ新川町一・二丁目や中央町三丁目などの低地帯は、さながら湖のように変容 したこともありました。
 
 昭和三十六年には、決定的な大集中豪雨がおこり、登別市内で死者四名、行方不明七名という大惨事が発生しました。
 
 特に、死者を出した幌別川とクスリサンベツ川がひどい被害を受け、幌別川の国鉄室蘭本線の鉄橋も流出しました。 当時の雨量は、平地で約三百ミリ、山岳地帯では、六百ミリに達したといいますから桁はずれの災害だったといえます。
 
 
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 昭和三十七年から幌別川の本格的な改修が行われ、河川の切り変えによって、蛇行して 流れていた川が三カ月後湖になって残りました。特に、新川町三丁目の平久栄さん宅前の 河川跡は、俗称「平の沼」とよばれ、冬はスケート場、夏は釣り場や貸しボート場も開かれ、 子供たちや家族連れなど多くの人で賑わいました。
 
 このように、河川跡の埋め立て地の多い新川町ですが、開拓の歴史は比較的古く、新川町一・ 二丁目や四丁目は、明治初期から畑作地として開拓されていました。
 
 明治十五年には、四国の讃岐(香川県)から堀田定吉、村山一角という人達が入植して以後、 淡路国の人達や、片倉家家臣の手によっても開拓が進められました。
 
 新川町附近の開拓前は、うっ蒼とした森林地帯で、カツラやナラの良材が多く、二・三丁目 の地域を「ランコタイ」“桂の林”。河添いの低地帯には「ランコハッタル」“桂の渕”と よばれるアイヌ語の地名がされているほどです。
 桂の木は、北海道で最も大きく成長する木で、直径あ二メートル高さが三十メートル にも達する程のものが沢山ありました。
 
 
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 これらの桂の木は、アイヌの人達が丸木舟を造る木としても、一級品だったようです。
 
 明治二十五年、北海道炭鉱鉄道(現在の室蘭本線)の開通によって、木材の需要急激に 高まり、新川町附近からも、桂や楢材が伐り出され、幌別川を利用して川流しの方法で運び出されました。
 
 また、鉄道敷設のために、玉砂利の需要も増えました。このため明治二十三年には、 新川町二・三丁目と富士町を境界とする地点から、タンネヒヨウカ(長い、小石河原)とよばれた 川上まで道路がつくられ、明治四十三年には、幌別駅から鉄道も敷設されて、砂利が運び出されました。
 
 新川町四丁目を通り、幌別西小学校の南から西側を通る道路がありますが、これが鉄道の跡です。
 
 このほか、三丁目ポンプ場南東側にある住宅地域は、新日鉄の独身寮のあったところで、二棟の大きな 建物が建ち、戦後は幌別中学校、定時制高校として利用されていました。
 
 現在、全く新しい住宅街として、姿を変えた新川町は、昔の面影を知る多くの方々にとって、感慨深いものが あるのではないでしょうか。
 
 
 
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警衛番所のあった町「鷲別町」

 鷲別町一丁目にある鷲別神社横から百七メートルのワシベツノツ(鷲別岬)に のぼって四方をながめる景色は素晴らしいものです。
 
 今から百二十五年前の神奈川条約により鎖国が解かれ、幕府は仙台、秋田、南部藩などの 五藩に命じて蝦夷地を警備することになりました。
 
 南部藩は、箱舘および恵山岬から幌別までの海岸一帯を担当し、ペケレオタ(室蘭市陣屋町) に出張陣屋を設け、鷲別岬に警衛番所を建てたのです。
 
 そして、その鷲別岬から鷲別の沖合いや、東は遠く登別・白老方面、南は噴火湾に出入りする異国船 ににらみをきかしていました。
 
 鷲別神社にある鷲別遺跡は、縄文時代中期から西暦五百年頃までの約六千年間におよぶ古い遺跡で 竪穴式住居や、今から四・五千年前の成人男子が屈葬の形で発掘されました。
 また、神社の下方に位置する真言寺附近には貝塚があり、オホーツク式土器らしいものも 発見されています。
 
 
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 もしシベリアの大陸文化が鷲別にも伝わっていたものとしたら、アイヌの伝承文学である ユーカラ(英雄伝)の物語も面白くなります。
 
 「沖の人のレプンクルと、内陸の人ヤウンクルとの戦争がおこり、アイヌの英雄ポイヤウンペを 中心に遂にレプンクル(オホーツク人)をうち破って追いかえしてしまう。」
 
 このユーカラの物語に関係すると思われる「オホーツク文化人」の影響と鷲別遺跡とをあわせてみると、 登別の生んだ偉大な伝承者であるモナシノウクや金成マツのユーカラが興味深く聞こえてくるのではないでしょうか。
 
 鷲別町一丁目には、このほか戸長役場が設置された村があります。
 
 幕藩体制の村役人がいなくなり、北海道では郡区町村編成法により幌別に戸長役場が設置されたのですが、 明治二十三年に幌別郡の三カ村に輪西、本輪西、千舞べつを合併した六カ村として、戸長役場が 神社山の下方に設置されたのです。
 
 この戸長役場は、明治三十一年に幌別に移転するまで続きましたが、登別市の歴史の中で、役所が幌別から 鷲別に移ったことには感慨深いものがあります。
 
 
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 鷲別一丁目は、江戸期から鷲別川をはさんで家があり、主にコンブ漁が多いことが昔の資料にあります。
 
 鷲別川は水も豊富で、鮭の大群が十流めざしてのぼり、幌別場所の産物を運搬する松前 からの三百石(約二十トン)積みの船が川口近くまで来たことが記されています。
 
 しかし、工業用水や室蘭市の人口増加による取水の増大などで、鷲別川は、 サツテクワシペツ(やせる鷲別川)と呼ばれるようになりました。
 
 鷲別の地名については、今から約二百八十年前、松前藩の「元禄御国絵図」に「ワシベツ」の地名が 記載されていることから、名称としては古いわけです。
 
 地名の由来も、鷲の川「カハリペツ」、鷲のいる川「カパリペツ」、湿原性の樹木の多い地域で柴川の 意味の「ハシュペツ」や、鷲別川口で難破船からの石炭が出たことから「パシュペツ」とも考えられました。
 
 しかし、今日、定説となっているのは、知里真志保博士の「チウ・アシ・ベツ」、「波立つ川」の意味からきた説です。
 
 
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湿地帯と砂丘の多かった町「鷲別町」

 鷲別町は、現在わかりやすく。一丁目から六丁目に整理されていますが、以前の鷲別町は、現在の栄町、 美園町、若草町までと範囲が広く、番地の桁数が多いことから人口が増加すると地番数字の区分は大変でした。
 
 さらに、昭和九年以前の鷲別村は約十五の字地名があり、場所もとびとびになっていて郵便配達するのにも大変でした。
 
 旧字地名を訪ねてみると、例えば、現在の鷲別町一丁目の海岸付近は字ハマ・浜・前浜と呼ばれ、二丁目の 駅の方は字ワシベツ・字トロカワツプという字名でした。
 
 また、三・四・五丁目の大部分は字ハマ・浜・ワシベツの字名で、その他、珍しい字名として、ドロカワップ・トロカワツフ・ ドロカクベツなどの字名が鷲別駅から美園町方面の国鉄室蘭線に沿ってありました。
 
 
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 このドロカワツブというという字名の由来ですが、昔、富岸町の方から新生町・ 若草町・美園町にかけての地域が、トンケシライバ川と鷲別川が合流する大湿原地帯 であったことからついた字名と思われます。つまり、鷲別川の蛇行によってできた三カ月 の沼や低地が多く存在し、少しでも雨が降ると泥沼のようになったことから、原名は「 ト・ロ・プツ」(沼・その中・川口)という意味ですが、なまり言葉で泥川の意味の ドロカワツプになったものと思われます。
 
 その他、字川添・川上・追込・字ナシなどの名称もありますが、それぞれの地名を 追っていくと昔の鷲別の状況、地形などもわかる気がするのではないでしょうか。
 
 このように湿原や低地があった反面、鷲別小学校や中学校の裏側にかけての一帯、そして、透禅寺 から国道にかけての地帯では砂丘が発達し、昭和十七・八年頃には、汽車の窓からラクダの コブのように高い砂丘が三つ・四つ続いているのも見られました。
 
 これらの砂丘は、縄文海侵によるといわれ、縄文早期・前期の紀元前七千年から六千年頃 までの間、美園町、若草町の方までが海岸であったことを示しています。そして、その後 海退期に入ると海流の作用で浅い部分砂嘴(さし)といわれる砂続きの陸地が作られ、 部分的に取り残され海水が海跡湖を形成したものと考えられるのです。
 
 
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 学問的には、最近の遺跡の発掘状況から異論もありますが、昭和十八年宍戸 鉱業所が現在の鷲別町二丁目に設けられてから、特に戦後は鉄南・鉄北を問わず 多くの業者が砂鉄の採取をしたことでも、程度や場所の差はあれ海侵が実証されています。
 
 いずれにしても、道路の側や家の近くの砂丘は、冬はソリ滑りで夏は、相撲をとりながら 転がり遊んだ話は古老の方から聞きますが、高砂町の方から、また、海から吹きつける 強風は、家の中を砂だらけにし生活では苦労したようです。砂丘が削られ低い所に埋められた 国道は、いつも砂が多かったようですし、鷲別小学校・中学校裏には、今でも砂丘があった 形跡が残っています。
 
 このように、自然条件では大変な地域の多い鷲別でしたが、鷲別岬の鷲別川岸や、川に近い 海岸地域は早くから漁業を中心として部落がつくられていました。これは、岬によって部分的に 囲まれた地形や、川を利用し船の出入りの便利さがあったからでしょう。
 
 
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明治期に発展した町「鷲別町」

 砂丘や沼沢の多かった鷲別町ですが、明治三年に五戸の片倉家家臣が入植し、続く明治四年にも十戸 が入植するようになってから本格的な開拓がすすみます。
 
 明治七年、開拓使の奨励で、鷲別村字浜に幌別村と同様の農社が結成され、六丁目の黒沢友義氏の先代、 黒沢精之進らがプラウと牛二頭による四十二町歩(約四十二万平方メートル)の模範畑を経営するようになりました。
 
 しかし、農作物では、霜の害などによる気候の影響で果実、養蚕などの特産的なものは失敗し、 大豆・小豆・大麦・小麦・そばなどが主として生産されていたようです。
 
 また、当時の労働力は、鷲別に入植した人々によるものが中心でしたが、まだ改良の進んで いなかった「どさんこ馬」も飼い馴らすと小さいながら力が強く、開拓を進める力となりました。

 明治五年には、室蘭から札幌まで、現在の国道三十六号線の前身である「札幌本道」が作られ、鷲別川にも 初めて立派な橋が完成しました。
 
 
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 明治十一年頃になると、新道(札幌本道)沿いに家が建ち始め、鷲別開拓当時から住んでいた 黒沢源一郎・榛沢蔵松氏ら旧片倉家臣が新道沿いに商店を開くようになりました。
 
 士族の鷲別への移住は、教育の面でもあらわれ、鷲別小学校が明治十五年八月に創立されました。 人口の減少によって一時廃校になったこともありましたが、住民の強い教育への熱意は、 「学校設置の伺書」として道庁に届けられ、その内容は次のようなものでした。
 
 「鷲別村の戸数も二十五戸となり人口百三十三人、幌別小学校や塵別(知利別)小学校は 共に遠く、就学を志す者の熱意もかなわぬ状況なので是非設置してもらいたい」
 
 このように、現在でも「学校設置の伺書」から当時の人々の気持が強く伝わってきます。
 
 明治二十五年には、北海道炭鉱鉄道が開設され、鷲別に停車場ができたのは明治三十四年、 現在の帝国酸素付近でした。この場所は、輪西屯田兵の退役後入植したトンケシ(富岸)に 近い場所で一里塚があり、前期の黒沢・榛沢・小片氏らの宿泊所があって三軒茶屋として 明治末期まで知られていました。
 
 
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 また、鷲別で忘れることのできないのは、火災が多かったことです。
 
 登別市内の火災記録で古いのは、明治三十二年、鷲別の戸数約九十戸のうち 八十戸あまりが焼失したというのがあり、また、大正八年には登別市街地の三十一 戸焼失の記録もあります。このように鷲別で大火災のおこる原因としては、白鳥湾、 そして鷲別岳から吹きおろす強風の通路に鷲別があることが考えられます。
 
 郵便局の設置は、明治三十三年に郵便受取所として設けられ、明治三十六年には 黒沢精之進が引きつぎ、昭和十一年まで六丁目の黒沢商店の所で同家によって営業されていました。
 
 駐在所は、明治三十三年に鷲別村だけが輪西村巡査駐在所所轄として設置され、 大正十一年には鷲別巡査駐在所となりました。また、大正十五年、鷲別の消防組に腕用 ポンプがおかれ消防所が設けられたのですが、駐在所や消防所のあった場所は、現在の 国道から海岸側に入った人家の多い地点でした。
 
 このように、明治三十三年に創設された鷲別神社の祭典の夜店も、五丁目一番地の 海岸に向かっての道路が最もにぎやかでした。
 
 
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湿原植物の宝庫であった「若草町」

 地名の由来が、若々しい希望の溢れる町の発展を期待して名づけられた「若草町」は、国鉄 室蘭線の西北から上鷲別町の山麓に広がる新しい住宅地帯で、近年眼を見張るような発展ぶりです。
 
 旧字地名は「上鷲別町」ですが、昭和四十九年の行政地名改正で現在の地名になりました。また、 昭和九年以前の字地名は一丁目がワシベツ、トーボシナイ。二丁目から六丁目のほとんどがトウボシナイ、 トウボーシナイ、上トーボシナイ、そして一部が「学田」という小字地名でした。
 
 トーボシナイとは、「トプ・ウシ・ナイ」(竹・群生している・沢)という意味で、特に五・六丁目 の上鷲別川の流れ出る沢が中心です。この地名から推察すると、この沢あたりに竹が群生していたので しょう。江戸時代の資料には、ハンケナイの産物として、この竹がキセルのラウに使用する シャコタン竹に似ていると紹介されています。
 
 ハンケナイは「パンケナイ」(下の沢)の意味で、上鷲別川の流出する地点をいい、この沢川を別名 「長西の川」「長西の沢」と呼ばれていたことを新生町に古くから住んでいる鈴木ミヨさん(六十歳) が教えてくださいました。
 
 長西とは、上鷲別の高野団地、東は亀田公園におよぶ広大な土地で放牧場を経営した九州出身の 長西弥吉さんの名前からついたようです。
 
 
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 また、五丁目の西側にあたる山地は、通称「ボンズ山」で親しまれ、この奥でも坂本牧場が経営されえていました。
 
 このようなかたがたの開拓は、明治末期から大正期のことで、開拓のはじめ、畑地として不適当な 台地や山麓では造材業か牧畜業以外に利用はありませんでした。
 
 五・六丁目の山麓から低地帯にくると、昔は「沼尻の末の古川の川口」で知られる、トンケシライパ川が流れていた広大な湿地帯が広がります。
 
 若草町の大湿原地帯を古い時代から考えると、五・六丁目の山麓に近い三メートルから六メートルほどの湿地帯より 高い地域に、縄文時代中期・後期(今から約五千年から二千五百年前)の土器片が出土していいます。
 
 また、その頃は、海が沖の方に退いて海岸に砂丘が発達し、若草町の低地帯が浅い湖沼として残されてたことが創造できます。
 
 また、その後、上鷲別町の高台から流出した土壌や、湿原植物の繁殖によって次第に湖沼が埋没し、鷲別湿原富岸湿原と呼ばれる低平な大 湿原地帯がつくられたのでしょう。
 
 
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 湿原と泥炭地とは厳密には同じではありませんが、泥炭化しつつあるこの土地は、栄養分もなく、 酸性土で水はけも悪いことから開拓がすすみませんでした。
 
 若草町一丁目から四丁目の低地帯は、おい茂る植物が沼の表面を隠してしまうことから、 放し飼いにされた馬が深間に足をとられて骨折した話をよく聞きました。また、ヒラギシスゲやカブスゲなどが 成長し、株のまわりの土壌が流れることによってできる「谷地坊主」もこの湿地帯に発達していました。
 
 しかし、この湿原も春から秋にかけて美しく花が競い咲き、春には水バショウが緑に白の大群落をつくり、 夏にはエゾカンゾウやノハナショウブ、カキツバタ、クロユリなど、そしてエゾリンドウが咲く頃には秋の 気配を感じる気候となり、その昔、湿生植物の自然の宝庫であったことが想像されます。
 

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