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郷土史探訪(10)   宮武 紳一

北海道温泉場で通じた登別温泉町

 東洋一といわれる登別温泉の自然のなりたちや、温泉の開拓については、郷土史探訪29ページ、32ページ などで紹介しましたが、今回は、地名から訪ねてみましょう。
 
 江戸時代に書かれた「幌別場所」の地図をみますと、色の濃い川・ヌプルペツの上流、川の消える 所に「硫黄山」と書かれた山があり「此の辺処々硫黄湧出」と説明されています。
 
 また、「東蝦夷地ホロベツ御場所之図」にも同様に「ヌフルヘツ」があり「此川上二里ホド上流ニ温泉アリ、但し 湯小屋ナシ」と説明し、川上に「硫黄山」が書かれています。
 
 その他、市川十郎の「野作東部日記」には、「延別(ノボリベツ)温泉」へ行く道すじが記録されていますが、 あて字ながら「ノボリ別温泉」となり、松浦武四郎が今から約百三十年前の嘉永三年にしるした「三航蝦夷日誌」 には、写真の図のように「ヌプルベツ温泉場之図」と、地名も硫黄山からヌプルベツ温泉に変わってきました。
 
 登別川の上流にある温泉ーということから名づけられたのでしょうが、硫黄山として経済的面からとらえられた 地名が温泉として認めれら、命名されている様子がわかります。
 
 登別温泉全体の旧名は、川下の温泉「バンケユ」で、カルルス温泉が「ペンケユ」の 地名であることは、知里真志保・山田秀三先生らの説明でもよく知られているところです。
 
 
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 川下の温泉、パンケユの登別温泉は、クッタラ火山の寄生火山として生じたもので、大湯沼と 地獄谷との大きな爆裂火口からできていますが、地獄谷はポンユ(小さい温泉)、大湯沼はポロユ (大きな温泉)とよばれていました。
 
 大湯沼のポロユには、車道を下る入口左手に大正池地獄があり、大湯沼右側道路奥に 奥の湯があります。
 
 一方、地獄谷の各所にある、熱湯などを噴出する泉源には、昔から名称があり、例えば大砲地獄、 機銃地獄、鉄砲地獄など戦時中を思いおこす名称や、竜巻地獄、虎地獄、釜地獄などの他、お初地獄 乙女湯、湯の花畑、涙川などの名称がありました。
 
 これらのすべてが合流して、登別温泉を流れる川がクスリエサンペツ(薬湯がそこを通って出てくる 川)で、事実、行政字地名でも七重坂を下り川が近くに見える地域を字クスリユサンベツといいました。
 
 昭和九年、新字名が改正される以前は、中登別に近い温泉側に下りかけた付近が 「カモイワツカ」。紅葉谷近くの下り坂付近は、「字七重坂」そして「字クスリユサンベツ」。 登別温泉の入口付近、厚生年金病院あたりからバスターミナルにかけて「字温泉場」。 室蘭ハイヤー温泉営業所よりクスリサンベツ右側上流、湯沢神社にかけては「字湯の滝」 と呼ばれ、江戸末期の松浦武四郎や、明治期の登別温泉などの図をみても、急流と滝の多い状況がみられます。
 
 それにしても、特に明治三十七・八年以後は、北海道温泉場宛で郵便物が届き、 また「湯の滝温泉」とよび、明治初期、さらにその以前からでしょうか、「鹿の湯」と 呼ばれていた頃の温泉名を懐かしむ人が、次第に少なくなってきたのも時代でしょうか。
 
 
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ジョン・バチェラーも湯治した温泉場「登別温泉」

 登別温泉の地名は、硫黄山、ヌプルベツ温泉、ノボリベツ温泉場、湯の滝などと、江戸時代から多くの名称を もっていました。
 
 古い温泉としての歴史と、それだけ特色のある温泉の湯であったからでしょう。
 登別温泉には、多くの伝説や実際に入浴した人達による当時の記録、資料も数多く残っています。
 
 鉈作り観音で知られる円空が「のぼりべつゆのごんげん」と、観音像の裏に記載し、 残したのは、今から約三百二十年前の江戸時代四代将軍家綱の時代でした。
 
 また当時、蝦夷地に事実上の支配権を持ち、蝦夷地の状況をよく知っていた松前藩の家臣 「兼広某」という人も、「のぼりべつゆ」で湯治したことが記録されていますし、温泉の 知名度の古さは、歴史の新しい北海道においても第一です。
 
 ユーカラの伝承者として有名な金成マツ媼の伝える、登別地方のユーカラの一節に「神のお召し に叛いた若者が路をあやまって、赤い岩間に湧いている熱湯に落ち、神の国に昇天した」という 文があります。恐らく、場所は地獄谷と思われます。
 
 
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 この伝説にでる古い時代は、生活上の薬効的意味のことが書かれていないことから、 地震や雷、火山、噴火などの時には、呪術的、巫術的な祭りを行い、神に祈って悪魔を さける風習の方が強かったことで、噴煙さかまく地獄谷のような場所には近づかなかったようです。
 
 言語学者で有名な、知里真志保博士は、本来の温泉の語は「セセキ」と言っています。
 
 しかし、登別温泉をパンケユ、大湯沼をポロユ、地獄谷などから合流し、紅葉谷の方へ 流れる川をクスリエサンベツ(薬湯がそこを通って出てくる川)というように、日本語の 「湯」「薬」の言葉が使われています。このことは、昔から当地方を訪れた人達が非常に 多かった土地柄を示すもので、日本語とアイヌ語が入りまじって使われたものと思われます。
 
 アイヌの父といわれた、ジョン・バチェラーは、明治十九年に函館から幌別に移り、 愛隣学校を建てるなど、キリスト教の布教に努力しました。
 
 このジョン・バチェラーが、登別温泉に湯治の目的できた、最初の外国人であろうといわれます。
 彼は、当時の登別温泉のことをいろいろ書いています。
 
 
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 「この温泉は、他にないたくさんの噴泉が山の方々に出ており、中でも一番大きいのは、 一分位の間隔で少なくとも十間(十八メートル)くらいも高くふき上り、その音は 雷のようで、見ていると身体が寒くなるほど恐ろしく、また立派なものです。
 またある時、友人が噴火口(地獄谷)を散歩している時、急に土が崩れて、ずるずると膝まで 入って、片足は半熟のようになってしまいました。そしてその方は、大変苦しんで 医者にかかり、全治するのに半年もかかりました」。
 
 当時の登別温泉の活動の激しさや、まだ地獄谷が通路もなく、自然の状況の中で事故も あったことがわかりますし、外人の人達も多く来ていた様子もわかります。
 
 そして、本格的に開発が進められるのは。明治中期以降からです。
 
 
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登別市中心の町「中央町」

 登別市のほぼ中央に位置し、市の行政、経済の中心地域として発展してきた中央町も、 歴史の発展的方向からみると、江戸時代は、うっそうとした森林地域で 文献上の記録にはでてきません。
 
 中央町が本格的に開拓されるのは、明治二、三年にかけて白石城主片倉家の家臣が、 幌別郡の支配を受けて来馬川を中心に約三十二に地域を区分して入植したときからです。 その地域は、中央町三・四丁目と富士町二・三丁目の来馬川沿いでした。
 
 明治十年代になりますと、さらに五・六・七丁目などの開拓が順次すすめられます。
 
 明治以降、農業を中心として開拓された中央町も、谷地が多く湿地帯で開墾も大変でした。 例えば幌別小学校の裏側附近は、常磐町二・四丁目から流れでる谷地水のため広い低湿地帯でした。
 
 また六丁目の刈田神社前は、これらの谷地水のため「タコ沼」といわれる沼ができ、 降水量が少し多いと沼水があふれ中央町一丁目の低地帯に流れこみました。
 
 
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 中央町三丁目は急に低くなった地帯で、大雨が降り海も荒れると幌別川の水が せきとめられて来馬川にも逆流し、三丁目はもちろん新川町一・二丁目附近も水で埋没し、 幌別川もわからぬほどになったこともあります。
 
 しかし、このようななかでも比較的霧の発生による塩害がすくない二丁目に於いて、 井上藤吉が葉たばこの栽培をして「北海熊」なる商品を売り出したことは、よく知られているところです。
 
 さて、六丁目にある市役所は、昭和三十六年に開基九十年を祝って建設されましたが、 その前は、幌別町三丁目の生活館のところにありました。
 
 また同じ六丁目にある幌別小学校は、明治十四年に開校し、今年で百年を迎え、この 地方でも最も古い歴史をもつ学校です。現在地に移転したのは明治四十一年ですが、 その前は中央町一丁目本晃寺のところに三十二坪の校舎がありました。
 
 当時は未開の地も多くあり、草深い小路を通学する苦労は大変なものがありました。 市役所、幌別小と並んで六丁目には刈田神社があります。
 
 
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 刈田神社は前記白石城主片倉主従が、明治三年、幌別に移住したとき 旧領刈田郡の刈田峯神社祭祀、日本武尊を祭ったものですが幌別には 江戸時代から会所横に建立されていた好見稲荷社がありましたので、 明治三年合祀し、幌別郡開拓の守護神として今日まで続いています。
 
 幌別駅前の千代田生命ビル、こがね幌別店を通り、富士橋の方へ真直に 伸びる道路は、旧幌別鉱山軌道の跡です。また幌別駅前から不二家洋菓子店 前を通り、中村薬局、アサヒ堂カメラ店裏を通る道路も、富士町三丁目を過ぎて 幌別ダム方向に向かっていた川砂利線の跡です。
 
 中央町三・四丁目の中心街が複雑な形態をしているのも、これらむかしの幌別の 経済をささえた軌道の跡によるものです。
 
 これら軌道跡の道路は、昔の幌別が忘れ去られようとしているなかで、今も 昔の面影を少しだけでもとどめている道路でもある訳です。
 
 
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登別市中心の町「中央町」

 片倉家、家臣の入植地である中央町の本格的な発展は、北海道炭鉱鉄道(現在の室蘭本線) の工事の際、鉄道用枕木や鉄道用の砂利採取のため幌別駅附近から川上に至る 道路の整備や橋が仮設された明治二十三年頃からです。
 
 明治二十五年、幌別停車場が開設されると、木材の積み出しがますます増加し、特に「ナラ材」 は道内でも指折りの良材として生産されました。
 
 明治四十年には幌別鉱山への専用軌道が敷設され、現在の幌別駅西口には大きな倉庫が建ち並びました。
 
 貯木場、銅、硫黄の置場、貨車への積み出しなどの諸設備も次第に整い、畑作以外の経済的 諸施設が設けられ、中央町も大きく変わってきました。
 
 現在中央町とよばれているこの地域は、昭和四十九年に名づけられたまったく新しい町名です。
 
 改正前は、幌別小学校、市役所前の「中央通り」から南の方の地域は「本町」とよばれていました。
 
 
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 また、アサヒ堂、合田書店、ダイヤデパートから西南の方で来馬川の南に あたる地域も「本町」の地名でよばれ海岸まで続いていました。
 
 現在の中央町で「本町」とよばれていた以外の地域は、全部字来馬の地名でよばれていました。 昭和九年に字地名が十五に縮小される以前は、約百余の地名がありとても複雑でした。
 
 例えば、中央町一・二・三丁目の国鉄室蘭線に沿った幌別川までの長い地域が全部 「オカシベツ」の地名でよばれていました。
 このことは、岡志別川がかなり幌別よりに蛇行して流れていたこともありますし、旧幌別駅が 設置された最初の場所が、現在の駅よりも千歳町に近い昔のオカシベツにあったことによるものと思われます。
 
 現在の中央町一丁目から五丁目にかけて、字ハマの地名が多くつけられていました。
 字ハマの地名が多かったのは、現在の幌別町の地名はほとんどが、ハマ前浜とよばれていたので、 現在の中央町へ開拓をすすめる段階でも「ハマ」という地名がそのままつけられたものと思います。
 
 
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 中央町には、寺院や教会が多くあるのも特徴のひとつです。
 
 一丁目の妙徳山法華寺は、明治三十八年、盲目の聖徒熊谷義友が日蓮宗 幌別教会を設立し、白川堯真が熊谷を助け今日の法華寺の基礎をつくりあげました。
 
 昭和三十年には季節保育所を開き、昭和三十九年には「白菊幼稚園」として認可され 幼児教育の先駆をなしていることも、この寺院の特徴のひとつでしょう。
 
 浄土真宗本願寺派本晃寺は、明治三十六年、藤森顕城が開教に着手したのがはじまりといわれ、 千光寺とともに登別市で最も古い寺院です。むかしは中央町一丁目の近江家具店附近に ありましたが、幌別鉱山鉄道が敷かれたことによって昭和六年、現在地に移転しました。
 
 また本晃寺と同じ頃の開教といわれる幌別山千光寺は、明治十九年、字ハマから字ヲピカラシ (柏木町二・三丁目の来馬墓地)に移転した共同墓地跡に大藤教詮、松井林蔵ほか四名で 真言宗高野派説教所を創設したのがはじまりです。
 
 教会としては、五丁目の幌別福音教会、七丁目の聖心カトリック教会があり、前者は昭和四十年、 後者は昭和三十四年の建立です。
 
 
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「ポロヤチ」の多かった地域 登別東町

 「此の所の小川より東はシラヲイ、西はホロヘツ分なり。西の方恵山岬より フシコヘツまでは御家の持ち場にして、それより東は仙台家の持ち場なり…フシコヘツ より陸路に上りて測量せしに、甲より乙(登別東町一・二丁目)までの谷地深く、馬に 打ち乗りて越ゆれば既に馬の背も水にひたる程と思うなり。」
 
 これは安政二年、今から約百二十五年前に書かれた、現在の登別港町一丁目の 登別東町一・三・四丁目にかけての状況で、当時流れていたフシコベツ(古い・川) を境に、川の東側は白老領仙台藩の持ち場ですが、川の南西の「御家の持場」とは 幌別場所で南部藩の所領に属する現在の行政区を示しています。
 
 川は一面に深く生い茂った葦原の沼沢地帯の中を流れ、白老町側の山ぞいの下、 登別東町一・二丁目には多くの沼がありました。
 
 明治二十三年、北海道炭鉱鉄道(現在の室蘭線)の工事が登別で行われるようになってから、 フシコベツ河川のかんがい工事が施工され、フシコベツ川に鉄橋もできますが、登別漁港にある 三単漁港の建設や前記鉄橋も白老町側に所属しています。
 
 
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 江戸期の海岸図台帳や他の資料を見る限りでは、川は大体山ぞいに沿っているようですが、 明治二年、蝦夷地を北海道と改め、十一国八十六郡を設置した時の登別と白老の境界では、 フシコベツ川がかなり西側に入りこんでいたようで、登別側には領地の問題で大きな損をしたのがわかります。
 
 いずれにしても登別東町一・三・四・五丁目は、ほとんどが谷地地帯でした。
 
 登別東町二丁目にある登別駅は虎杖浜川フシコベツトンネルを出てランボッケトンネルに入るまでの 曲線を一ケ所にするためと、湿地帯よりやや高い所という事で、明治二十五年北海道 炭鉱鉄道敷設時の最初の登別駅はやや北海道コンクリート工場寄りのフンベサパ近くにありました。
 
 この頃の登別温泉道路は、登別本町一・二丁目を通り、また村の中心も登別川寄りの登別本町一・二丁目 の境界道路、旧札幌本道を中心とした所でしたので、それなりに都合も良かったわけです。
 
 北海道コンクリート工場の整地により、現状よりずっと南にあった鉄道や鉄橋の跡も見られなくなりましたが、 明治二十九年に鉄橋が流された事と駅構内の改良工事が行われることになったので現在地に移され、 駅からまっすぐ旧札幌本道と結ぶ道ができるようになると、駅前道路を中心に家が建ち、町の原形が つくられるようになりました。
 
 
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 大正四年、登別駅から登別温泉軌道会社が馬車鉄道を開通し、大正七年には軽便鉄道そして、 大正十四年には電車が走るようになり、登別温泉の玄関口として、ますます重要性を増してきました。
 
 また、登別東町一丁目には、明治三十六年、栗林五朔の室蘭運輸合名会社が登別製鉄所を経営しますが、 規模の大きさや生産量は明確でなく、一時的なものと思われます。
 
 しかし、大正八年に開設された登別東町の登別製鉄所は、従業員五十五名で、生産量 などの詳しい資料はありませんが、写真を見ると当時の製鉄所の建物がわかります。これも 残念ながら昭和七年に終結した第一次世界大戦後の不況で、設立三年後には閉鎖されています。
 
 そして登別東町一丁目の製鉄所跡に建設されたのが、井華塩業株式会社による製塩工場ですが、 これも国内塩の生産過剰により、三年間の経営で閉鎖しております。
 

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