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「北海道幌別漁村生活誌」

第十一章 川漁の話

一 鮭の話

 「鮭(しやけ)は秋獲れる魚の中では一番味がえゝで、北海道では鮭のことを 秋味(あきあぢ)と云ふげな」
ーと、名古屋市の郊外で、百姓と魚屋とが話合つてゐたのを聞いたことがある。 新聞などでもよく秋味と書いてゐるのを見かけるが、當地方の實際の發音は、アキヤヂである。
 鮭は九月の聲を聞くと間もなく、産卵のため川へ溯ると、適當な場所を選んで、 川底の小石や砂を掘つて、そこへ産卵するのである。その爲、時には大人の頭位の 大きさの石を幾つも動かす様なこともある。そして、産卵を終へる頃には、鼻は曲り、 尾鰭は擦り切れて、泳ぐことも出來ず、斃れてしまふのである。かうして斃れたものを、 ホッチャリと稱する。ホッチャリは既に産卵を終へたものであるから、今後絶對に子 を産む見込が無い。そこで子の無い女のことを、譬へて「ホッチャリ野郎」と罵ることもある。
 鮭や鱒の、稚魚をカノと云ひ、雌魚をメス又はメシと云ふ。これは當地ばかりでなく、北海道 一般に行はれてゐる名稱である。
 川で鮭を獲る爲に現在行はれてゐる方法は、刺網、ヤス突き、ドウ等が主なものである。 これらの方法の中では、ヤス突きが最も廣く行はれてゐる。それを次に説明する。
 鮭でも鱒でも同じであるが、雨で川が増水した時に、一番多く溯るものである。 だから、川漁に行く時は、雨上(あが)りを狙つて行くのである。人数は三人位が最もよい。
 同じ水が流れてゐるからと云(ゆ)つて、魚は何處にでもゐるものではない。 鮭も川に入つたら、大體宿所が定つてゐて、五十三次を順々に、休み休み溯つて行くのである。それで、 鮭を獲る人々もその通り、一番下から順次上の方へ、お宿を尋ねて行く。
 このお宿は大抵、靑々の水の淀んでゐる淵か、葡萄蔓やこくわ鶴が覆い被 (かぶさ)つてゐる蔭の所に極つてゐる。そして、この宿の近くヘホリを掘るのである。 ホリは、川底の小石がすつかり除かれて、白い砂が現はれてゐるので、馴れた眼には 流れの上からでも、一見してそれと判る。
 ホリを發見したら、直ぐに戦闘準備にかゝる。先づホリを中心にして、一人が十間程 川下へ下り、他の一人が十間程川上へ走る。そして二人とも、ニ間柄のヤスを下段に構へて、 川底へ眼を着けている。殘つた一人はヤスを逆に持つて、石突きでホリの近くの川底を突き 廻すのである。さうすると、ホリの近くで疲れを休めてゐた鮭が、喫驚仰天して横っ飛びに飛び 出し、川上か川下へつっ走る。それを、兩方に待構へてゐた者の内のどちらかが、間髪を 容れぬ早さで突き上げるのである。
 メスを先に獲つた場合、カノは必ず近くにゐるので、流れに石を投込んだり、ガラスで川底 を覗いたりして、探すのである。
 (ガラスとじゃ、五寸立方位の箱で、四圍を板で拵へ、底をガラスを張つたものである。)
 次に、明治三十年頃、當地で盛んに行はれてゐた鮭や鱒の川漁に就いて、板久孫吉氏に 訊いたものを書く。
 當時幌別川は、現在の約二倍の水量があり、それに鑛山もまだ始つてゐなかつたので、鮭や 鱒は驚く程多く溯つたものであつた。従つて、鮭や鱒の川漁は、海に於けるそれよりも盛んなもので、 寒村もこの時季だけはなかなか活況を呈したものであつたといふ。
 その頃は既に川の各所に漁場が定められてゐて、漁場の持主も決まつてゐた。
 各漁場の位置と名稱とは、一番下(しも)の川口に近い處が「仙臺引場」で、それから五六町上(かみ) が「遠飛サンケウク(Sankeuk)の場所」で、此所から少し上つた處が「かねしめ漁場」であつた。 その上(かみ)が「金成(かんなり)漁場」で、次を「仙臺漁場」と云つた。
 この「仙臺漁場」は千兩場所で、此處を中心に、上(かみ)と下(しも)へ順々獲れ方が少くなつてゆく。 この漁場の上(かみ)が「シケクル(Shikekur)漁場」で、一番上(かみ)のポロシュマ(Poroshuma)といふ 處が「田代(たしろ)漁場」であつた。
 漁場は、個人所有のものもあれば、共同所有のものもあつた。元来これらの漁場はみなアイヌのものであつた のだが、シャモが移住して來るに従つて、一場所減り、ニ場所減りして、いつの間にか半分以上がシャモのもの になつてしまつた。そのうちでも勢力のあつた仙臺衆が、一番獲れる場所をせしめてしまつたのである。
 漁の時季になると、各漁場では厳重に自分の領域を守つて、一本でも多く獲る事に努める。
 各漁場とも、夕方の四時から、翌朝の四時までは、漁をする事が出來ない規則になつてゐる。そして此時間は 見張をつけて番をしてゐるのである。



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 朝四時になると、各漁場とも直に、川下の場所境を網で止めてしまふ。この頃はまだ 鮭が溯る時間なので、行手を遮られた鮭は少しの隙間でも見つけて、無ニ無三に上(かみ) へ上へと溯る。これを防ぐため各漁場では、上(かみ)の場所境の川瀬に立つてゐて、 マレク(marrek)や、カギを持つて川面を叩いて、溯つて來る鮭を追返すのである。 それでも頑強に溯つて來るものは、突いたり引掛けたりして獲つてしまふ。
 「何しろ十一月や十二月だからな、夜明の四時頃から川の中に立つてゐたら、どうにもならない位 足が冷たいよ」と、語つてゐる板久伯父が、思ひ出したらしく龜の子に様に首を縮めた。
 夜が明けてしまふと、鮭は活動を中止して石の下や、流木の蔭へ隠れてしまふ。それを 探し出しては、突いたり引掛けたりして獲る。雨の後などは水も多いし、濁つてゐるので鮭も 多く溯る。こんな時は地引網をかけて一度に澤山獲る事もある。
 かうしてどんどん獲つた魚は一本づゝイサパキッキニ(isapakikni)と云うふ叩棒で頭を 叩いて殺す。この叩棒は、直徑一寸位、長さ一尺五寸位のもので、五分位の巾で細長く三ケ所 だけ皮を剥いである。握る所五寸位は全皮を剥いて、少し細く削つてある。鮭を叩殺す時は必ず このイサパキッキニを用ゐるもので、決して他の木片等は使はない。
 これは、鮭を腐れ木で殺すと、死んだ鮭が神様の前へ行く時、腐れ木を銜(くわ)へて 泣きながら行く。これを綺麗な叩棒で叩殺すと、死んだ鮭は、その立派な棒を銜へて笑ひながら 神様の前へ出る。といふためである。
 川魚の場所を有つてゐない者達は、漁場へ手傳日に行つたり、夜になると人目につかない 様な處を選んで密漁に行く。
 密漁には、二人位組んで行くのが普通である。一人はマレクかヤスを持つて鮭を突く役をし、 他の一人は、シュネ(shune)を持つて川面を照らす役をする。

 
 マレク(marek)とは、川で鮭や鱒を獲る時に使ふ武器で、昔はヤスよりも網よりも重要視されてゐた ものである。十尺位の矛(op)の先へ一尺位のラシュパ(rashupa)を附け、それに海馬又は 海豹で製したトラリ(torar革紐)でマクレを結びつけるのである。先ず、八寸位の トラリの一端を麻縄でマクレの胴に括りつけ、他端をラシュパの先端五分位の所にある穴から 反對側へ通してラシュパの腹へ持つて行き、矢張り麻縄でそこへ括りつける。 ラシュパの背には五寸位の溝が彫つてあつて、マレクの胴がピツタリとそこへ嵌り込むやうに なつてゐる。(第一圖)獲物を目がけてさつと突出した時、それが獲物の體に突刺ると、マレクはこの溝 の中から跳出して、先端が矛の線に沿つてクルリと囘轉して行くので、恰も鐵の輪のやうになつて、 獲物が踟けは踟くほど益々逃れられなくなるのである(第二圖)。


 シュネとは、三四寸巾の、長さ二尺位の樺皮(かんば)を五六枚重ねて、これを長さ三尺位の木の、 先を五六寸割つた所へ挟んだものである。これに火をつけて川面を照すのである。シュネは、持つ 人によつて鮭が多く寄つたり、少しも姿を見せなかつたりするものである。(第三圖)。魚のつく人が 朱ねを持つと、鮭はその人の足下へ寄つて來て動かないといふ。
 川鮭の終るのは一月の末頃である。十月の溯り始めから、一月末の終りまでのうち、一番多く獲れる のは十一月である。此月は幌別川だけで、一日五六十束(そく 一束は二十本)の漁は珍しく なかつた。晴天つづきで川が涸れた日でも、一場所の漁が十本を下ることはなかつたといふことである。
 鮭は、二尺位の小さものを「ピンコ」と云ひ、それより大きい普通のものを「普魚(なみよ)」と云ふ。 普魚の上は「撰(よ)り」又は「縄付(なはつ)き」と云ふ。縄つきとは、尾へ縄を付けなければ持てぬ故である。 縄付きになると、一本でも三貫以上四貫に及ぶものもある。この時代の鮭の値段は、普魚で一本一銭、縄付きで一本 四銭であつたといふ。
 アイヌ達は、獲つた鮭を軒に吊して、貯へる。主な料理法は、乾いたものを小さく切つて 少時水につけて置き、それを薯や菜類に混ぜて、鮫や鱈の油を少し加へて味をつけて、鹽で煮て食べたものである。
 頭は、澤山縛つて爐の上へ吊つて置いて、生乾きにしてから、鹽を少し入れて水煮にして食ふ。 これをオパウシサパ(opaushsapa)と云ふ。
 この外にチタタプ(chitatap)と云ふものがある。これは生鮭の頭を、鉈で微塵に刻んで、これに白子やシク●(ツの半濁音)ッ(shikutut=あさづき) を加へて、鹽で味をつけて食ふ。
 頭の軟骨を生で食ふ事や、メフン(脊綿)に鹽をつけて食ふことは昔も今も變らない。



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二 鱒の話

 鱒は春から夏を通して秋十月頃まで、川に溯るものである。十月頃になつて、 鮭がぼつぼつ溯り初める頃に終る。
 鱒はアイヌ語でイチャニウ(ichaniu)と云ひ、「ホリを掘る人」の義である。 さう云ふ意味から云へば、鮭も亦「ホリを掘る人」である。だから、鮭が溯り初めた頃、 まだ川にうろうろしてゐる鱒のことを、イチャニウと呼ぶのは、鮭に對して畏いことなので、 これを特にサキペ(sak-ipe)と呼ぶ。サキペとは、「夏食ふもの」の義である。

 次に書くのは、高井和市といふ人の實見した、鱒と蛇の闘ひの話である。
 或日、高井さんが山からの歸途、疲れたので、來馬(らいば)川の岸に腰を卸して 休んでゐると、足もとの水面でパシャッ!と音がした。ひよいと覗いて見ると、 岸から川の面へ一尺位の高さで横に延びてゐる柳の幹に、六尺位もあらうかと思はれる 程の靑大将が、ぐるぐると三卷位體を卷き付けて、しかも大きな鎌首を擡げて水面を凝つと睨んでゐた。
 ちょつと見馴れない光景なので、そのまゝ黙つて見てゐると、暫時動かなかつた 蛇が、急に鎌首をグツッ!と後へ反らして身構へた。途端にパシャッ!と飛沫を上げながら、 三尺に近い靑鱒が、銀鱗を閃めかして靑大将に跳びかゝつた。そして二尺程上(かみ)の 水面へズボツ!と音を立てゝて潜つた。その後へ蛇はグツ!と體を延ばして、電光石火の 猛襲を試みたが、五寸程の間隙を殘して、鱒は水中へ姿を消した。蛇は忽ち舊の位置に返つて、 双の眼を爛々と光らせながら、再び水面へ向つて下段の構へを取つた。間も無く、同じ大きさ の水煙が立つて、瞬間の第二の戦闘が演じられたが、今度も兩者相譲らずして、上下に別れた。 かくて蛇は第三の構へに移らうとした。その瞬間、眞白い飛沫の中に鱒は巨體を屈めて跳び 上つた。暫時兩者は空中に縺れたが、次の瞬間鱒はその頑丈な顎に蛇の首根を堅く銜へて、ずるずる と水中に引込んでしまつたーといふ話である。
 川に於ける鱒漁は、鮭のそれと何等異る所が無い。ただ時季に違ひがあるだけである。


三 鰻捕り

 鰻はあまり流れのあまり早くない川底の泥の中に多く棲んでゐる。
 土用の丑の日に食ふ鰻を捕る爲に種々な道具が使はれる。

 1 延縄
 鰈釣りに使用する延縄の如きものである。
 餌(いや)には蚯蚓を主として用ゐるが、鰌や川海老などを使ふ場合もある。鰌や海老は 大きいのを二つ切にし、小さいのは其儘、針いつぱいに掛ける。絲蚯蚓は適しない。普通タマクラ蚯蚓を、 一本まゝ掛ける。針から餘つた部分は、ヤメの方にまで延ばす。
 道具の如何に拘はらず、鰻捕りは夜に限る。カンテラなどを携げて、二人位で 陽が暮れてから出掛ける。
 先づ縄の一端を竹に結び、岸傳ひに縄をのして行く。そして打止めも、竹に 結びつけて置く。あまりに長く放置してゐると、川蟹や小魚に餌を盗まれるから、 三十分か四十分位で、縄をあぐつて見る。

 2 鰻掻き

 鰻掻きは、鰻鈎を使用して、川底の泥を掻廻して、鰻を引掛ける方法である。

 3 穴釣り
 川底の鰻穴を見付けて、先づその穴に鰻が居るかどうかを調べる。調べ方は簡単である。 穴の口を熟(じつ)と見詰めてゐると、鰻のゐる穴からは、始終ゴミが出たり入つたりしてゐる。 これは鰻の呼吸の爲である。この穴を見つけたら、針に蚯蚓を付けて、穴の口から静かに入れて やる。竿は篠竹の丈夫なのがよい。
 若し鰻がその穴の中にゐたなら、三四分以内に必ず喰ひつく。喰ひついてググツと竿に 應(こた)へがあつたら、慌てないで、一旦釣絲を延ばしてやつてから、鰻が穴から抜け易い 様に、穴と反對の方へ、勢よく引くのである。然うすると、大きな奴が絲を咥へて、ズルズルツ と穴から抜け出して來る。

 4 鰻突き

 穴釣と同じ様に、鰻の居さうな穴を見付ける。そして、穴から四五寸奥の方を狙つて、三本 ヤスで突くのである。鰻の穴には口が二つあつて、一方から這入つて、他方から出るのであるから、 突く場合は兩方の穴を見て、外れない様に突くのである。
 この外、網や籠でも捕るが、前記四種が主なる捕獲法である。
 鰻は一里半位まで上流へのぼる。そして、毎年九月二十五日頃から、十月十日頃までの間に、 海へ下る。-と、幌別に於ける川漁の第一人者で、「カワウソ」と綽名のある、板久孫吉氏が言つた。
 尚同氏は實見した鰻の生活の一端を書く。
 「何十年も川の魚を獲つてるけんど、鰻だけは好きでないナ。しかし、或時こんなことあつたデヤ。
 ガラスかぶつて、川の底見て居たつけ、鰻の畜生、穴から五寸ばかり頭出して、ブラブラ動いてゐるんだ。 嫌な野郎だけんど。
 (この野郎、一體どんなことしてるべ?)
 と思つて、黙つて見てゐると、流れて來るゴミなんかを、パクッと喰ふんだナ。そして、美味い 蟲なんかだと喰つてしまふが、ゴミなんかだと直ぐ吐き出してしまふんだ。あれでなかなかズルイもんだよ。  それから鰻つて奴は、捕つたら直ぐフグ(魚籃)に入れて、蓋をして置かないば、尾つぱの方ば 上の方さ向けて、フグの縁さ尾つぱ引つ掛けて、ポンと飛出してしまふんだ。
 又、あいつはとてもキカナイ奴で、捕る時にも川の底の木の枝なんかさ、蛇みたいに尾つぱの の方ば卷きつけて、なかなか難儀するもんだョ!」



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四 ユグイ

 ユグイは、五月中旬から六月中旬までが多く、主として川で獲れる。 普通四五寸から一尺位までであるが、稀には二尺五六寸位の大物も獲れる。
 ユグイは、海から川に入ると、二里位上流まで溯るのが普通であるが、赤腹 (産卵期の近づいた雌は腹部が赤色を呈するので斯う呼ぶ)は、三里位上流まで溯るものである。
 海から川に入るのは、夕陽が將に山の端に落ちようとする頃で、この前後一時間位は、 大小無數のユグイが、跳ねながら川を溯るので、水面は小石をバラ撒いた様に、大小の波紋が重なり 合つて、實に壯観である。丁度この時刻は汐込みなので、汐に乗つて溯るのである。 そして、これらの大部分は、翌朝九時頃の潮干に海へ出るのである。

 1 ユグイ釣り
 ユグイを釣るには、釣道具屋に賣つてゐる五分位の針に、細い蚯蚓を掛けて、二間位の釣竿を使つて 釣るのである。
 竿で釣る場合には、日暮時の大舉して溯る際よりも、午後三時頃のボツボツ溯りかける頃が 良い。上手な人は、竿を二本も三本も使つて、三時間位に、二百匹餘も釣る。

 2 川網
 ユグイを獲る方法の中で、何と言つても一番愉快なのは、川網による方法である。

 川網とは、海で使ふ引網を小さくしたものと思へばよい。これを、長さ六七尺、巾二尺五寸位の、 川舟といふ小さな舟に積んで、裸の男が一人乗つて、竿で突張りながら、網をかけまはすのである。
 網をかけまはしてしまつたら、岸に待つてゐる者が、一人づゝ兩方へ別れて、手早く引くのである。 この時舟の者は、竿で網の外側の水面を敲いて、ユグイが網を跳び越えない様にする。網をかけまはしてから、引いて しまふまでには、二十分位しか掛からない。
 普通漁で二分か三分(石油箱の二分目位を二分と云ふ)多い時には一度に五分(半箱)位獲れるので、 四五囘續けるとニ個(ニ箱)位は楽に獲れる。
 この外、副産物として、鱒や鰻や鯔などが、時々獲れる。
 川網は、なるべく流れのゆるやかな、少し灣になつた所を、選んでかけるのである。
 ユグイは焼いてから十匹づゝ藁で編んで干すのである。かうして作つた焼干は、味が佳いので、 相當高價に賣れる。
 釣りでも、川網でも、ユグイを獲るには、川の上流よりも、川口に近い所がよい。海でも獲れるが、川の 様に密集してゐないので、建網や引網などでも、あまり多くは獲れない。


五 イト

 イトといふ魚は、鯇に似た魚で、普通海に棲むものであるが、産卵期になると川へ溯るのである。イトの 産卵期は、三四月頃の雪解(げ)の頃である。
 イトは、約五十年位前までは、幌別川でも獲れたさうであるが、現在は殆ど見られない。一年に 一匹位鰮の建網で獲れることもあるが、一尺五寸位の小さなものである。樺太の川では今でも獲れるといふ。
 イトが産卵期に川へ溯ると、皮の色が目立つので、發見するのが容易である。雌は背に色が薄赤黒く、雄は赤褐色 をしてゐるので、川ぶちの雪までが、薄赤く色づくと云ふ。
 川で獲る場合は、鮭や鱒などと同じく、主としてヤスで突くのであるが、一度突き外すと、物凄い勢で、海まで 一直線に突つ走るといふ。これは全然ヤスが外れた場合である。若しメスを突いて獲つた場合には、カノ(雄)は その邊を去りがてにうろうろしてゐるが、反對にカノを先に獲つた場合には、メスはそのまゝカノを見棄てて、海まで 休まずに逃げるといふ。女といふものは、魚に至るまで、薄情である。
 イトは、いとも丈夫な魚で、産卵後も、鮭や鱒の様に斃れることはなく、無事に海へ出てしまふ。


 川のカヂカは、その形は海のカヂカのなべこはしによく似てゐるが、體はなべこはしより ずつと小さい。一番多く釣れるのは、三四寸から五六寸位のものであるが、時には七八寸くらいの 大物や、一寸位のチビも釣れる。
 カヂカはいつでも釣れるが、一番いゝ時季はやはり盛夏の八月頃である。この頃は水浴びをかねて、夏休み の子供等を初め、大人達も混つて川には毎日人影が絶えない。
 カヂカは、やまべや岩魚(いわな)などの様に、釣針と竿を使つても釣れるが、本當のカヂカ釣りの 面白味は、そんな本式の道具を使はないところにある。
 カヂカを釣るには、第一に餌にする蚯蚓を掘たなければならぬ。これは塵棄物などを掘ると澤山 出てくる。次に木綿絲と、細い針金を一寸位用意する。
 先づ針金を針の代用にして、木綿絲をこれに結ぶ。そしてなるべく大きな蚯蚓を選んで片方の端から、 絲のついた針を腹の中へ通してやる。かうして三四寸の蚯蚓を五六本通すと、一尺五千位の長い蚯蚓が 出來上る。
 この長蚯蚓を二寸位に何度も折曲げて、最後に殘つた絲で眞中を束ねて縛る。これを四尺位の 細い篠竹の先へ、一寸位下げて結びつける。これで道具は出來上つたのである。
 丁度、竹の先へ蚯蚓の團子をぶら下げた恰好である。
 殘い底にはあまりゐないので、大きな石の蔭か、大きい流木の下など、少し隠れ場所のある深い所へ 竿を入れてやる。それは全く、静かに針を下げてやるのではなく、無造作に竿を突込んでやるのである。
 かうして約一分間位も動静を伺つてゐると、かすかに竿に手應へがくる。そして間もなく、今度は 元氣よくぐぐつ!と、指先がふるへる位強く應へる。こゝまでくるともう間違ひはない。これは、カヂカが 蚯蚓の團子に喰ひ付いて、竹の先からこれを捥取らうとして暴れてゐるのである。
 此時間がカヂカ釣りの一番愉快な時である。しばらくかうして置いてから、機をみてすうつと引上げると、竿の 先には大きな蚯蚓の團子を頬張つたカヂカが、口をへの字に曲げてぶら下つてゐる。それを手早く、 左手に持つた籠で受けるのである。
 カヂカは籠の中へ入れられても、猶強情に歯を喰ひ縛つて蚯蚓の團子を離さない。こんな時は、カヂカの腹を 押へて絞ると、きゆっ!と悲鳴をあげながら、殘念さうな顔をして團子を吐き出す。この團子を 何喰はぬ顔で、又別な處へ入れてやると、間もなく第ニの喰ひしんぼうが飛付いてくる。
 かうして、普通一時間にニ三十匹位釣上げる事が出來る。時には一つの團子に、二匹のカヂカが 喧嘩をしながら喰付いてくることもある。こんな連中はよほど喰意地が張つてるとみえて、籠へ受け られても知らずに、猛烈に格闘を演じてゐるものである。



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第十二章 海月の話

 クラゲの種類は澤山あるが、此邊の海に多くゐるのは、糸クラゲ、花クラゲ、豆クラゲ、坊主(ぼんず)クラゲ等である。
 一番大きいのは坊主クラゲで、太さは四斗樽位、長さは二十四五尺で、丁度薩摩薯か、飛行船の様である。 これは秋から翌春にかけて來るのである。
 次に大きいのは糸クラゲである。頭の直徑が五尺位あり、厚さは一尺五寸位で、お供への様な恰好である。 そしてその眞中から、茶色の絲の様な臓腑(わた)を澤山曳いてゐる。その長さは十五尺位もある。
 花クラゲは直徑一尺内外の傘の様に圓い形で、透明な體の中央に、赤や紫の臓腑が花の様に美しく咲いている。
 豆クラゲは一番小さく、鳩の卵位が普通である。これは一番多く、海の水の悪い時など、大擧して押寄せる 時は、網の目が分らない程澤山かゝる。時々濱へこんにやくの屑を撒散らした様に、どこまでも
續いて澤山あがる事もある。
 坊主クラゲや、豆クラゲなどは、潮流のまゝに流れてゐるらしいが、糸クラゲや、花クラゲなど、傘狀を 呈してゐるものは泳いでゐる。泳ぎかたは丁度章魚(たこ)が泳ぐときの様に、頭を膨らませてから、急に 縮めるのである。さうすると傘の中の水を吐く爲め、體は前方へ進む。然し、クラゲのは章魚のそれの様に 活發ではなく、一度に一尺位しか進めない。これを章魚の場合に見ると、頗る元氣が良い、赤い藥罐頭を、 ゴム風船の様に膨らまして、グツ!と勢よく縮めると、すうつ!と一間位向うへ行つてしまふ。黒煙濛々 たる得意の煙幕を放射し乍ら、釣瓶打ちに五六囘この動作を繰返す時は、グロなのろまな様な彼の姿は、完全にすつ 飛んっで、消えてしまふ。敵が呆然としてゐる頃、彼は六七間向うの岩蔭に、ゴモや昆布の色に塗り替へた 頭をもたげて、悠々と休み乍ら一服つけてゐる。
 それから花クラゲの類は、舟が近づくと分るらしい。一度、建網の中に浮遊してゐた花クラゲが、あまり綺麗 なので捕つてやらうと思つて、タマリのケタへ舟をかけて置いて、ヤサカギを持つて待ちかまへてゐた。彼は 四五間向うから、踊子のスカートの様に、ふわりふわりと傘を動かし乍ら、近づいて來た。大分そばまで来たので、 腕をまくつて鉤を延ばしてみたら、もう二尺位で届く所であつた。仕方がないので、もう少し近づくのを待つつもりで、 鉤を引いた。ところが、彼氏はそのまゝ其所へ立止まつてしまつた。そして何か考へてゐる様であつたが、 そのまゝ踵をかへして、もと來た方へ戻り初めた。これは大變と思つて、オモテから早櫂(さつかい)を抜いてきて、 引つかけ様と、ウタの方を延ばしてみたら、残念ながらこれも一尺程短い。もうこれまでと思つて、シヤツの袖も まくらずに、肩まで腕を延ばしたが四五寸そば迄しか届かない。追手を延ばしてゐるうちに、彼も少しづゝ泳い でゐるので、もう少しもう少しで、到頭逃がしてしまつた。何度も自分のそばの水を掻き廻はされたので、 すつかり驚いたらしく、今度は大分スピードを出して一生懸命逃げてゐる。
 それから纜(ともづな)を解いて、五六間向うへ行つてゐたのを、難なく捕へた。
 舟の中へ引あげて、身體檢査をしてみたが、眼も口の花も何もない。臓腑(わた)と云つてゐる部分も、 唯瑪瑙色を呈してゐるだけで、外の肉と變つてゐない。
 舟のそばへ放したら、泳ぎ出したので、鉤の柄で仰向けに引つくりかへしたら、すぐもとの様に 直つて泳いで行つた。
 父が或時、クラゲが飛ぶ話をした事があつた。それは祖父の友人の話だと云ふ。
 「親父(おやぢ)の友達の人だがな、夜遅く家さ戻る途中で、自分の四五尺前のところさ、 どつからか大きな火の玉が、フワリフワリと飛んで來たもんだ。喫驚して片(かた)つ方(ぽ)さ 寄(よ)けたつけ、又その方さ向いて來るんだとよ。どうにも仕様がなくなつたので、腰の脇差、ふつちま抜いて ヤツ!てぶつた切つたつけ、グチャラと云ふ音して何か落ちたんだとよ。そのまゝ家さ歸つて、 次の朝調べて見たつけ、大きなクラゲであつたさうだ」
 クラゲは濁つた汚い水に多いので、クラゲの多い時は、魚はあまりゐない。皆クラゲを嫌ふのであるが、 キナボだけはクラゲを好んで喰ふといふ。



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第十三章 氣象

一 風の名稱

 ほんやませ   東
 くだりやませ  東南東
 くだり     東南
 みなみくだり  東南々
 みなみ     南
 みなみひかた  西南々
 ひかた     西南
 にしひかた   西南西
 ほんにし    西
 にしたまかぜ  北西々
 たまかぜ    北西
 あいたまかぜ  北西北
 あい      北
 あいしもかぜ  東北々
 しもかぜ    東北
 しもかぜやませ 東北東


ニ 天氣豫知法

 イ 下山の近くに見える時は東風(やませ)がくる。
 下山といふのは襟裳岬及び日高山脈の總稱である。
 いつもは遠い爲によほど晴れた日でなければ見えないのであるが、時折すぐ間近に、はつきり姿を現はすことがある。
 こんな時は東風の時化が近い。

 ロ 輪西のボーが聞えると東風がくる。
 三里程西の輪西製鐵所の汽笛の事である。いつもは聞えないのであるが、東風が近い時には これがはつきり聞える。

 ハ 八方の山が近く寄ると大時化がくる。
 東の襟裳、南の惠山兩岬と、西の鷲別岳、北のオロフレ山などが間近に見えてくると、 近々に大時化がくる。
 こんな時には風の吹いてくる方と反對の方の空に、受雲(うけぐも)といふ雲がかゝる。 受雲が大きいと時化も大きい。

 ニ アイマワリを知る法。
 ミナミが吹いてから、その風ガアイになると、其間無風状態になる。
 この風の無い時に急に大浪が出る。これをアイマワリといふ。
 アイマワリの大浪は最も大きく、小山の様な浪が次々と押しよせて七八十間も 陸(おか)へ打ちあげるので、このため漁場や漁師の家などのガラス戸、壁(かべ)などを打 破ることは珍しくない。
 ミナミが吹いてから、急に無風狀態になつたら、油断が出來ない。

 ホ オヤクで天氣を見る。
 太陽や月などの圍りに傘を擴げた様に、虹の様な色の輪が出來ることがある。
 これをオヤクといふ。
 オヤクには「時化オヤク」と「凪(なぎ)オヤク」とがある。
 凪オヤクといふのは、太陽や月の圍りに完全に圓を描いてゐるもので、このオヤクは大して心配ない。
 時化オヤケといふのは、圓いおやくの何處かに(視力検査の輪の様に)切れ目がある。このオヤクの出來た 翌日は風が強い。そして、風はオヤクの輪の切れ目の方から吹いてくる。

 ヘ 近星は時化が近い。
 夜空で月のすぐそばに星のあるのを近星といふ。近星が出たら近々に時化がくる。
 ト 急に來る時化
 當地で最も急にくる時化は、ミナミ及びヒカタ等の風による時化である。
 無風狀態の凪の時など急に南の方から横浪がどんどんよせて、それが刻々大きくなつてくる。そして十數 分内に強烈なミナミ、又はヒカタが吹きつけてくる。こんな時は浪が少しでもそれらしいと思つたら、 直ぐに仕事を中止して逃げないと大事に到る事がある。

 チ コヒが見えると時化る。
 日の出や陽の入りなどに太陽の傍が虹の様な色で一點が光り輝くことがある。これをコヒ (小陽)といふ。
 コヒが見えると近日中に時化る。

 リ 雁(がん)の腹雲(はらぐも)
 雁の腹の模様に似てゐるのでこの名がある。
 薄い藍色で鱗の様に重つて幾條(すぢ)にも長く引いている。
 どこかの空にこの雲が現はれたら、雨をつけた時化が近いのである。

 ヌ 綿雲(わたぐも)は雨が霽(は)れる雲。
 綿雲といふのは、綿で拵へた様にふんわりしたやはらか味を有つた、ふくれて 盛り重なつた雲のことで、雨降りの日どこかにモクモクとこの雲が湧き出たら、雨は間もなく霽(は)れる。

 ル 鴉の巢でその年の風の強弱が分る。
 鴉の巢が高く懸けてあればその年は平均風が強く、又反對に低いところに 懸けると、その年の風は平均おだやかである。(これは一般の考へと反對なのである。)

 ヲ 夕陽で晴雨が分る。
 夕陽が將に西の山蔭に落ちようとする時、その邊に一點の雲もなく光り輝いて(その 光が強く)沈むと翌日は雨が降る。

 ワ 星の光が強いと風が弱い。
 夜空の星が強いうるんだ様な光を放つてまたゝいてゐると翌日は風が強い。

 カ 横蚤(よこのみ)が逃げると大きい時化がくる。
 海老(えび)に似た、蚤の様に跳ねて歩く蟲で、渚近くの砂の中に穴をほつて 入つてゐる蟲である。

 ヨ ゴメの高上(たかあが)り。
 その邊に飛んだり泳いだりして遊んでゐたゴメ(鴎)の群が、急に一里近くも 上空に舞ひ上ることがある。
 それは間もなく強風の襲ふしらせであるので、急いで仕事を終るのである。

 タ 鰈(かれ)が沖へひけると時化になる。
 鰈類は陸(おか)に近い淺い所にゐるのであるが、それが殆んどみな沖合へ行つてしまふ ことがある。こんな時には大きい時化が近いのである。
 これは建網(たてあみ)やテグリ網などでよく分る。

 レ ホッキが砂を食ふと時化る。
 ホッキ卷をしてゐると、ホッキ貝が澤山の砂を含んでゐることがある。これは時化が 近いと知つてホッキ貝が海底深く這入るためである。

 ソ 「下鳴(したな)り」は東風(ヤマセ)のしらせ。
 すぐ家の前のは聞へずに、半里程東の波の音がはつきり聞えることがある。これを「下鳴(したな)り」といふ。
 下鳴りがすると東風の時化になる。

 ツ 波打ちぎはの砂がぬかると浪が大きくなる。
 波が少々大きく、出漁を懸念される時など、これから益々大きくなるか、このまゝで 小さくなるか、を判断する。
 それは波の引いたあとの濡砂の上を歩いてみる。もし砂がかたくしまつてゐると、 これ以上波は大きくならないから、安心して沖へ出る。反對に砂がずぶずぶぬかる様なら、 波はますます大きくなるのであるから、出漁は中止される。



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第十四章 漁師の迷信

 1 出産を嫌ふ。
 漁に従事してゐる家で子供が生れると、その家の人は出漁を休む。
 生まれた子供が男子であれば三日、女子なら七日の間休むのである。但し海の 仕事以外は何をしてもよい。又他に出産があつた時、御見舞になど行つても、其 家の火で煙草を吸つてはいけないし、お茶など飲んでもいけない。これを 「産火(さんび)を食ふ」といつて嫌ふ。

 2 葬式は縁起(えんぎ)がいゝ。
 出産と反對に、葬式に關することは縁起がいゝ。葬送の時などに用ゐた晒木綿を貰つて腹に卷く。

 3 朝の汁かけ飯を嫌ふ。
 朝食の時汁かけ飯を食ふと、その日は浪をかぶる、と言つて嫌ふ。

 4 梅干を嫌ふ。
 龍神様は梅干が嫌ひ、といふので、出漁の辨當などには梅干を入れない。稀に持つて行つても、 核は決して海中に棄てないで陸へ持つて歸る。

 5 節分の豆は大浪を静める。
 急に時化が來て、大浪の爲漁舟が陸へ上がれない時など、節分の豆を海中に投ずると、一時浪が静かになる。

 6 豆焼(まめやき)

 節分の夜、豆撒きを終へてから、豆焼をして其年の漁の豊凶を占ふ。
 爐に炭火をおこし灰をきれいにならして、其上へ豆を並べる。そして、その一つ一つへ、 鰯、鮭など自分に關係のある魚の名をつける。すぐそばへ眞赤な炭火を置くので、豆はだんだん 焦げて終ひには、燃え出す。そしてすつかり焼けてしまつて其豆が灰になると豊漁であり、 黒焦げのまゝ灰になつてしまふのは凶漁である。半分だけしか焼けないのは普通漁である。かくして同じことを三度 繰返して其平均をみる。
 魚の外に、何處の漁場が大漁するか等をも占ふ。

 7 猿を嫌ふ。
 猿は随分嫌はれる。沖でなど決して猿の話をしたり、猿といふ言葉を用ゐたりしない。漁場へ猿廻しなど 來ると、鹽を撒いて淸める。

 8 蛇を嫌ふ。
 猿と同様嫌はれる。

 9 口笛は風を呼ぶ。
 沖に仕事をしてゐる時、口笛を吹くと風が吹く、といつてこれを禁じている。
 反對に帆船などで航海する時、風が無いと、風を呼ぶといつて口笛を吹く。

 10 釣竿を跨いではいけない。
 釣竿を跨ぐと魚が釣れないと言はれてゐる。魚釣りに行く時など、釣道具の支度を してゐると、子供等がよく間違つて釣竿を跨ぐことがある。こんな時は、すぐ跨ぎ直 さしても元の所へ戻らせる。

 11 餌に唾をつける。
 魚を釣る時、釣針に餌をつけてしまふと、必ずその餌にペツペツと唾をかける。かうすると 魚のつきがよいと云はれてゐる。

 12 河豚を喰ふとき。
 當地方では、河豚を恐れないで食べる。眞河豚(まふぐ)でも熊坂(くまさか)でも、獲れた ものはみんな皮を剥いて、煮たり焼いたりして喰ふ。
 それでも、稀に中毒する者があるので、河豚を喰ふときには、必ず「曲り鐵砲つ!」 と大きな聲で唱へてから喰ふ。曲り鐵砲は當らないから、その當らないをとつたものである。

 13 河豚に中毒したとき。
 河豚に中毒した時は、濱の砂を掘つて、患者をその中へ入れて、首だけ出して埋めてしまふ。
 かうすると治ると云はれてゐるが、當地の久能氏の息子が河豚で中毒した時、この方法を用ゐたが、 到頭死んでしまつた。



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第十五章 漁師の副業

 四季の大半を出稼ぎに費してゐる漁師達には、副業らしい副業もなく、僅かに 畑を耕作したり、家畜を飼育したりしてゐる位のものである。
 三月中旬から四月にかけて、漁師達はそれぞれ契約してゐた漁場へ漁夫として働きに 行くと、家に殘つた主婦達は、少しばかりの畑を作りながら家畜を養つたり、近くの漁場の粕干や、 農家の草除りなどに傭はれる。

一 農業

 微々たる副業の中で最も目に見えるものは農業である。
 畠を作つてゐない家は無いと云つてよい。どんな家でも少くとも一反位の馬鈴薯は 作つてゐる。人手の多い、あまり生活に困らない家などでは、七八反から一町位も作つてゐる。
 畠の大部分は借地である。地代は上等の土地で一反三圓、痩地なら一圓位から稀には八九十銭の 處もある。一圓五十銭位の處が一番多い。
 肥料は主として、家畜の糞尿で、ヤステやベタ蟹を混ぜて積んだ堆肥と、人糞尿や、ヤステの 乾燥したものが使用されてゐる。この外、過燐酸石灰、硫酸アムモニア、ニトロホスカ等の化學 肥料も相當用ゐられてゐる。

 1 馬鈴薯
 作物の主たるものは、馬鈴薯、玉蜀黍、南瓜、豆類等で、この内馬鈴薯は全部の約八割を占めてゐる。
 水田が皆無と云つてよい當地では、馬鈴薯は、常に糧食として米の次に位する程重要な位置にある。 それ故に馬鈴薯の豊凶は、冬期の景氣不景氣を左右するものと云つてよい。
 畠は海岸に近いので砂質が多く、盛夏の七八月になると表土が五六寸位まで乾燥してしまふので、 作物は悉く葉が黄色になつて、秋も待たずに枯れていまふ。それ故馬鈴薯の作付けは早春四月中旬、雪が 消えて畠土の濕り工合が丁度よくなつたら直に行ふ。
 四月は漁場の納屋入の時期なので、漁師達は稼ぎに出る日迄に家族を總動員して、何を措いても 薯を播いてしまふ。
 春風の吹く空に凧が二つ三つ唸つてゐる晴れた日など、作業用の靑い菜つ葉服を着て、中折帽を 冠つた漁師が肥桶を擔いで、その後から子供を負つたおかみさんが唐鍬(とんが)を持つて、薯播きに 行く所や、妻君が種薯を落して行く後から亭主が兩手を腰に組んで呑氣に足で土を被せて行く 所など、漁師の薯播き風景として氣分百パーセントのものがある。
 薯の種類は早生種が多く、アーリーローズ、早生白丸種(男爵薯)、蝦夷錦、メークヰーン等である。
 四月に播いた薯は六月下旬から食ふことが出來る。朝夕のお菜には勿論のこと、間食に茹でゝ、砂糖を 付けて食べたり、餅に搗いたり、生のまゝ擂つて團子にしたり、この頃は薯パンなども作られるやうになつた。
 秋十月になると全部掘上げて、翌春までの分を窖(むろ)に入れたり、畠に大きな穴を掘つて埋めたり して貯蔵し、殘つたものを水車で澱粉にしたり、俵詰にして賣つたりする。
 薯の値段は其年の豊凶によつて違ふが、普通百斤詰一俵が一圓五十銭位で、豊作の年は 一圓二三十銭から一圓に下落する。それが凶作の翌春などになるとニ圓から二圓五十銭、三圓 にまで高騰することがある。
 こんな年は極つて魚も不漁なので、冬の内に種薯まで食い盡してしまつて、春になると飴玉大の屑薯をやうやく 買ひ集めて播くのである。

 2 玉蜀黍
 玉蜀黍は馬鈴薯に次いで多く作られてゐる。當地方では「トウモロコシ」と云ふ者は無く、誰も皆 「トウキビ」又は「トウキミ」と云つてゐる。
 唐黍(トウキミ)は初秋の頃には無くてはならぬものゝ一つで、どこの家でも作つて樂しんでゐる。 これは大部分完熟しない内に茹でたり、焼いたりして食べてしまふもので、種實を冬季の食糧に 貯蔵したり、販賣したりする家は數へる程しかない。
 値段は百斤詰一俵が普通四五圓である。
 種類は、ロングフェロー、札幌八行、なとが少し作られてゐる外、大部分は雑種である。

 3 南瓜
 南瓜は唐黍と同じく、夏秋季の自家用野菜として作付されてゐるもので、馬鈴薯や唐黍などに比して數は随分少い。
 種類は、デリシャス、甘栗等の作り易いものが大半を占めてゐる。

 4 その他蔬菜類
 蔬菜類は、極めて少しづゝではあるが、季節々々のものを作つてゐる。
 大根は、大部分が靑頸宮重で、練馬や聖護院等は、殆ど作られてゐない。
 甘藍は別に畠がなくてもよい。苗床で仕立たものを、薯畠や、南瓜畠の隅へ植 付けて置く。追肥はやらなくとも、植ゑる時に基肥を少し多く施しておけば、あとは 害蟲に氣を付けるだけで、八月末から九月にかけて見事に結球する。
 種類は、コペンハーゲンマーケット、サクセッション、等が主なものである。
 豌豆も大抵の家で作つてゐる。
 種類は、白花、赤花、の二種で、白花は早生、赤花は晩生である。
 播種の時季は何れも四月上旬である。
 白花種は此時季に播くと五月の下旬に食べる事が出來る。併しこれは莢が小さく 繊維が多いので、莢豌豆としてはむしろ莢が大きくて柔い赤花が喜ばれる。
 豇豆(ささげ)は、大福、中福、鶉等々澤山の種類があるが、播付は至つて少なく、 何れも短い畝を五六本位しか作つてゐない。秋になつて實を収穫するといふことは 殆んどなく、夏のうちに莢で食べていまふ。
 この外、葱、白菜、胡瓜、茄子等も家の近くへ申譯ぐらゐづゝ作つてゐる。



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ニ 家畜

 漁師は、百姓の様に自給飼料を得る事が少く、その上出稼ぎが多いので、家畜を 飼ふ事には恵まれてゐない。
 昔の様に、肥料を施さなくとも馬鈴薯や、南瓜が澤山穫れた時代には、豚や兎は各戸に 飼はれてゐたが、此頃は、自家用の野菜さへも、満足に穫れないので、
 「口のあるものは片口もいらない」
と云つて、みんな家畜の飼養を止めてしまつた。
 現在飼養してゐる家畜のうちで、一番多いものは兎で、次は豚である。

 イ 兎
 兎は飼料費が殆んどかゝらなく、路傍の雑草で飼育出來るし、繁殖が容易なので、女や 子供等の仕事として丁度よいので、大抵五六頭位飼つてゐる。多いところには三十頭位もゐる。
 冬期は餌が不足勝なので、晩秋の仔兎を五六頭位、大根の干葉や馬鈴薯の屑などで飼つておく。
 それが翌春三月頃になると、立派な若親になるので、靑草の出る頃から繁殖にかゝる。
 仔は、一度に普通五六頭位、多い時には十頭位も産むので、三頭の牝に二度づゝ産ましても、 秋までに三十頭にするのは容易である。一頭の牝の分娩囘數は、春から秋までの間で大體四五囘位が普通である。
 かうして繁殖させた兎は、十二月の末頃に、若いのを四五頭殘して全部屠殺する。
 毛皮は、上等な物は農會の手を經て陸軍へ納入するし、普通品は土地の毛皮商人に賣る。
 値段はその年々によつて一定しないが、昭和十年の相場は、一枚七八十銭平均であつた。 十年位前までは普通物で一枚一圓五十銭で飛ぶ様に賣れたが、近年は平均一枚一圓以上になることは珍らしい。
 肉は雪の中へ埋めて置いて、大部分は自家用にするが、多い時には賣ることもある。値段は一頭五十銭位である。
 種類は、雑種のものが斷然勢力を占めてゐるが、近時白色種ではニウジランド・ホワイト、イタリアン、メリケン等、 有色種ではベルジアン、チンチラ等の高級種を飼ふ者も出て來た。

 ロ 豚
 豚は魚菜屑で飼育出來るので、漁師の副業としては比較的良いものである。
 當地で飼育されてゐる豚の大部分は、小型のヨークシャー種で、成體量は二十五六貫が 普通である。
 十年位前までは、黒色のパークシャー種も飼はれてゐたが、どうして絶えたのか現在では 一頭もゐない。
 豚は、春の仔を飼育して、翌年の春か夏賣るのが普通であるが、あまり太つてゐないものは 尚秋まで肥育して賣る。
 飼料は、野菜屑が主なもので、馬鈴薯、大根、甘藍、人参、南瓜等である。これに屑魚を 少し混ぜて、釜で煮て與へるのである。
 豚は毎年相場が變るが、平均十文(もん)位が普通の値段である。十文とは百匁十銭のことであるから、 三十貫の成豚なら三十圓になる。
 仔豚の値段は普通五六圓である。
 約一ケ年飼育しての賣上げがこれだけである。この中から、仔豚代、燃料費、肥育用の米糠、 南瓜、人参等を差引くと、二十圓位になる。努力はこれらに加へてない。

 ハ 牛
 牛を飼つてゐる家は極く少數である。
 乳牛を飼つてゐる家は殆んど無く、みな生肉用の去精牛である。
 牛を飼ひ始めたのは最近のことで、まだ一般に行渡つてゐない。
 生後六十日位の仔牛を、一頭十五六圓で買つて、これを約一ケ年位飼育して 四十五六圓に賣るのである。これは豚と違つて、動物質の飼料もいらないし、飼料 を煮て給與する必要もなく、路傍や、草の生えてゐる空地へ繋いでおけばよいのである。 一日に二度位飲水を與へて、草の良い所へ繋ぎ替へてやるだけが仕事である。
 牛は豚より遥に割が良いので、今後豚の飼育はだんだん牛に變つてゆくことゝ思ふ。
 飼育されてゐる牛の大部分は、ホルシュタイン種で、エアーシャ種は稀にしかみえない。br>
 ニ 馬
 七八年前までは、馬を飼つてゐる家も相當あつたが、近頃は随分少くなつた。
 主として飼つてゐる種類は、中間種のアングロノルマンと重種のペルシュロンである。軽種の サラブレットや、アラブなどを飼つてゐる家はない。これらは高價であり、且つ労役に向かないから、 畠を耕したり、舟を卷上げたりに使用出來る種類を飼ふのである。

 ホ 鶏
 一番多く飼はれてゐる種類は、名古屋種と、これの準種である。何れも少羽數の 飼育であり、繁殖を母鶏孵化に依つて行ふため、就巣の念に乏しい白色レグホーン種等は、 たとへ産卵が少し位多くてもあまり喜ばれない。
 それに當地方産出の赤殻卵は、室蘭、登別温泉等で、産みたての地卵として評判がよいので、 それなども白殻卵を産む鶏の歓迎されない原因である。
 卵の販賣には、室蘭、登別温泉、カルゝス温泉、幌別鑛山等の消費地を有してゐるので、 他の地方よりは有利な立場にある。


三 その他の副業


畠や家畜の外には目に見える副業は殆んど無い。
春は、筍や椎茸を採つたり、秋は山葡萄や茸類を採つて賣つたり、夏のうちは銀杏草(みみ)拾ひなどが主なる ものである。
 室蘭地方は、冨浦やアヨロなど、磯に岩のある所で銀杏草の採集が初まると、器械から落ちた銀杏草が流れて來て澤山上るのである。
 朝早くから、皆は手籠を持つてこの銀杏草を拾ふ。
 銀杏草は、乾燥したものが一貫匁六七十銭に賣れる。澤山上る朝などは、一人で四貫も五貫も拾ふことがある。



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第十六章 冬の漁師の生活

 當地の漁師達は、その大部分が、春から秋までの間を、各地の漁場で漁夫として 働いてゐるので、自由に仕事をするのは、冬だけである。
 秋漁季(しの)は十月下旬頃から終り出すので、その頃になると、漁場が切揚(きりあ)げた順に、 漁師達はぼつぼつ家へ歸つて來くる。秋漁季は遅くも、十一月末までには殆んど終つてしまふので、十二月 に入ると、村では急に男が増えてなかなか賑やかである。
 漁師達は、一年の大半を村から離れて暮してゐたからといつて、切揚げて歸つてから遊んでゐる餘裕 もないので、來年の春漁季が始まるまで、何か仕事をしながら、冬期間を籠城してゐなければならない。 冬期間の主なる仕事は、ホッキ卷や蟹網等であるので、漁師達は家へ歸るとすぐ、舟の修繕をしたり、 綱や網などを用意したりして、これらの仕事に取かゝる。そして、十二月の月は一日でも多く出漁して、 正月を少しでも樂 にする様に務めるのである。
 かうして暮してゐるうちに、十二月の中頃になると、各地の漁場から、村へ「漁夫頼(ひとたの)み」 が這入つてくる。これは、來年の春漁季の漁夫を雇入れるために來るのである。
 當地方の漁師は、近海の鰮場を始め、日本海沿岸の鰊場や、遠く、カムチヤツカ半島兩岸の、 鱒場や蟹場等へまで雇はれて行くので、各地の漁場では、他より早目に、前金を貸して契約して置かなければ、 漁季になつても漁夫が無く、わざわざ南部(靑森・岩手兩縣)まで頼みに行くつたり、各地から一人二人と、未経験 の者を高い給料で雇つたりしなければならない。それで、良い漁師を、比較的安く雇入れるため、年の瀬を見込んで 來るのである。
 一番早く來るのは、近海の鰮場である。これは、春漁季が四月上旬から七月下旬までなので、雇入契約も、大抵四月 一日から七月三十一日までゝある。給料は、一ケ月二十七八圓位である。前金は、契約と同時に一ケ月分位を貸すのである。
 鰮場の次に來のは、カムチヤツカの鱒場と、蟹場である。
 鱒場は、六月中旬から八月下旬までが漁季である。給料は、全漁季間が七拾圓位であつて、これを一度に全部前貸するのである。



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 蟹場の漁季は、四月中旬から八月下旬までで、期間は一番長い。その代り、前金も一番 多く借りられる。全漁季間の給料は百二十圓内外で、これを全部前金として貸すのであるが、鱒場 の様に一度に全部貸さない。前金はこれを一期と二期に分けて、一期は正月前、二期は年を越えてから 貸す。一期と二期の割合は決つてゐない。
 このカムチヤツカの「漁夫頼(ひとたの)み」と前後して、鰊場の「漁夫頼(ひとたの)み」が來る。
 鰊場は、鰊の漁季が、三月中旬より五月下旬までの、僅か二ケ月半位なので、給料も一番安い。普通、二ケ月 半で三十五圓位のものである。そして前金には、この内から、歸村の時の旅費に五圓を殘して置いて、殘額三十圓位を貸す。
 鰊場は一番割が悪い様であるが、これには一つ都合の良いことがある。それは、鰊場は漁季が短いので、他へ働きに行く前に、 こゝで働くことが出來るのである。そのため、カムチヤツカの鰊場へ行く者や、鰮場へ遅く納屋(なや)入りする者達は、大抵鰊場へも 一緒に賣るのである。
 この外、室蘭の港を根㨿としてゐる、「發動機船トロール」へ雇はれる者もゐる。これは、一ケ月三十圓位の給料で、一ケ月分位の 前金を貸す。そして、これは別に漁季間を厳重に契約するといふことはない。
 漁師達は、この五つの變つた「漁夫頼み」のうちの、どれかへ身賣をして、それぞれ前金を借りる。
 これらの前金が手に入るので。濱の者達は、比較的樂(らく)に正月を迎へることが出來る。
 前金を借りてしまふと、發動機船に雇はれた者だけは、すぐ室蘭へ働きに行く。他の者達は、三四月頃の、約束の 日までを、ホッキ卷や蟹刺網や、ヤステ釣り等をして暮らすのである。冬期間は時化が多いので、一ケ月のうち十五日以上は、 沖へ出られない日がつづく。こんな日は、道具を繕つたり、薪を採つたりして暮す。



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第十七章 無䀆の話

 無䀆は、村に於ける唯一の、金融機關である。
 娘が嫁にゆくとき、倅が徴兵検査のとき、又嫁を貰ふとき等を初め、 家を建てるにも、舟や網を買ふにも、病氣をした時にも、無䀆は一番利用される。 村の人ーと云つても、漁師達は特に多く、大抵一二本は有つてゐる。多い家は七 八本も有つてゐて、毎月掛金が二十圓以上にもなつてゐる。
 私はこゝに、村で行はれてゐる無盡に就て、簡単に、通俗的な説明を試みる。
 正幸さんの家では、二十年も使つてゐたホッキ卷の礒舟が、すつかりボロになつて、 もう使用に耐へない。それで、新しい舟をはぐ爲に無盡を起(た)てる事に相談が決つた。  磯舟は一パイ百二十圓で出来る。現在家には五十圓程あるが、いろいろ小さい事にも 金がいるから、九十圓程の無盡を拵へたい。と云ふので、一本三圓掛で三十本の無盡にする事にした。
 次に、大事な保證人を頼まなければならない。萬一の場合、全部責任を持つと云ふ様な、 力のある人でなければ、皆は心配して加入してくれない。そこで、村でも相當信用のある 米吉さんを頼まう、といふことになつて、正幸さん夫婦は、夕食後米吉さんを訪れて、
 折入つて頼むと
 「そんなら仕方ない。俺でも好(い)かつたらなつてやるべ。なるべく堅い様な人ばかり、集めた 方がいゝな。俺も二三人ぐらゐ見つけるから」
 と心よく引受けてくれた。
 夫婦はこれに力を得て、別々に、知人の間をそれからそれへと廻つた。
 「・・・それで、どうにもならないから、無盡でも建てゝ磯舟一ぱいはぐべと思つてね。 隣りの米吉さんに保證人になつて貰つて、人集めに歩つてゐのさ、済まないけど一本入つて呉れられないべか」
 「あゝさうかい、俺んとこでも、四本もあるんで毎月の掛金に困つてるのさ。それでも先々月で、 太郎大工さんとこの分終つたので大分樂さ。まあ折角だから息子(むすこ)の名前で一本入るべ。 野郎にもそろそろ、嫁こでも見つけるべと思つてるから」
 「それはどうも、有難うござんす。それでは明後日の晩六時から始めますから、どうぞお願ひします」
 かうして、募集してしまつたら、日を定めて皆に三圓づゝ持つて集まつて貰う。集合時間は大抵六時前後である。
 皆が集まつたら、親元が
 「皆様の御蔭で無事に豫定の三拾本になりました。厚く御禮申上げます。就ては隣りの岩倉さんで、息子さん の嫁取支度に一本入れて戴き度い、云ふんですが、豫定の本數に達してしまつたから、一應皆さんに相談してから、 と云つて置きましたが、どんなものでせう?」
と、御禮旁々増數の相談をする。皆はいろいろ話合つて
 「いゝでせう。一本増えたつえt。どうせ花鬮(はなくじ)も拵(こさ)へなければならないんだから」
 「それでは、岩倉さんの花嫁さんの分を、花鬮にするべ」
 と滿場一致で増數も可決される。次に保證人が皆の前へ出て、自分が此の無盡をどこまで保證して、無事に終る 様にするーと云ふ様な事を云つて、すぐ毎月の開催日や、花鬮の額についての相談をする。甲論乙駁の結果、花鬮 は、五銭が二十本、十銭が五本、二十銭が二本、三十銭が二本、五拾銭が一本で、丁度三圓にした。そのうちに、 親元のお禮のしるしの、五目ずしか牡丹餅が出る。皆がそれに舌鼓をうつてゐるうちに、紙片を大豆粒位に丸めた 花鬮がお盆の上に載せられて出る。三十人の人はそれを一つづつ取る。五十銭の人もあれば、五銭の者もある。悲喜交々 の笑聲が起つて、第一囘の幕は下りる。皆は鬮札と引替に當つた金額を貰つて歸る。
 翌月からは毎月、同じ日の、同じ時間に、必ず集まるのである。



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 第一囘目は親元が皆から金を受取るだけであるが、二囘目からは少し難しくなる。
 大塚さんの家では、長男の正男君が、今月の十日に、輜重兵特務兵に入營する。それで是非共此の無盡を落し度い、と思つて ゐる。ところがその裏の伊藤さんでは、隠居さんが區長に當選した祝賀會を、此の無盡で落して、やらうと思つてゐる。かう云ふ 時にはせり札によつて決めなければならない。
 當日、皆が掛金を持つて集つたら、そのうちで落し度い人は

   四十六銭也 伊藤

と云ふ様なせり札を書いて、小さく折疊んで出す。全部集まつたら帳場は、
 「もう落し度い人は有ませんか、皆で四人ですね。それぢや、増引(ましひき)は有ませんか?」と聞く。
 「私は少し多く入れたから二銭引きます」
 「はい板久春治さん二銭引き」
と云つて紙片に書留めて置く。
 「おれは一銭増すよ」
 「はい大塚さん一銭増し」
と云つて、又書留める。
 「さあもう増す人も引く人もありませんか、なかつたら札開きますよ」
と云つて帳場はお盆の中から札を一つ取つて開く、そして金額と氏名を讀み上げる。
 「伊藤さん四十六銭也、次は板久さん五十ニ銭也、二銭引きますから、丁度五十銭です。 次は岩倉さん十五銭也。お次は大塚さん四十九銭也、一銭増しましたから丁度五十銭です。 板久さんと合札(あひふだ)になりましたが、板久さんが先開(せんびら)きですから、 板久さんに落ちました。割戻(わりもどし)は五十銭です」
 これで第五囘目は落札五拾銭であり、今囘落とした板久氏と、前囘の四人を除いた、 殘りニ十五人の人達は、最高五拾銭を割戻しとして貰ふのである。それで、落札者板久氏は、 總額九拾参圓(三十一本分)より、花鬮三圓と、五拾銭の割戻し二十五本分拾ニ圓五拾銭、 合計拾五圓五拾銭を差引いた殘額の、七拾七圓五拾銭を受取る勘定になるのである。
 皆が花鬮を引いて歸つてから、保證人の米吉氏は、七拾七圓五拾銭を懐中にして歸つた。それからしばらくして、 板久氏が次の様な借用證を拵へて、米吉氏のところへ行つて金を受取つて來た。

   金圓借用證
 一金七拾八圓也 但シ平澤正幸氏發起積立無盡金
 右之金圓借用仕リ候處實證ナリ然ル上は昭和拾貮年壹月拾日ヨリ昭和拾四年貮月拾日マデ 毎月拾日金参圓宛支拂フモノトス
 後日爲念借用證一札差入置候如件
  昭和拾壹年拾貮月拾日
            幌別郡幌別村字本町
              借用人  板久春治
            同村 
              保證人  岩倉由春
            同村 
              保證人  大塚正男
  理事
  廣田米吉殿

 此種の無盡は間違ひが殆んどないので安全である。現在は大半この「親建無盡(おやたてむじん)」 であるが、中にはまだ「親無無盡(おやなしむじん)」と云ふ、保證人もなければ、借用證もない 危険なものもある。これは一名「廻(まわ)り無盡」とも云つて、前月落した人の家で今月宿をするのである。 昔はこの無盡が多かつた爲、よく逃げられたりして潰れたものであつた。こんな場合、先に落してゐた人は、 もう掛けなくとも良いので、大いに儲けるが、まだ落さずに居た人々は大損害である。
 この外に「品物無盡(しなものむじん)」と云ふのがある。
 これは大抵一圓か、一圓五拾銭位の掛金で、十人か十五人位の小規模なものである。主として、 おかみさん連が集まつて拵へるのである。この無盡にはせりがない、鬮で其月の當り人をきめるのである。そして 當つた人は、其金額に相當した品物を、特約の商人から取るのである。物品は、蒲團皮、綿、座蒲団、毛絲類が多く、 この外、メリヤス類や足袋、衣類などである。
 特約してゐるのは、村の商人ではなく、みな室蘭から來る行商人である。
 どの無盡も同じであるが、無盡に入つてゐるのは多く、「あまり金持でもなく、あまり貧乏でもない」人達である。 これ等の人達が一番多く無盡を利用してゐる。この爲、三圓掛の無盡で普通一圓位せるのである。これが時に一圓三十銭 から、一圓五十銭位までせり上る事がある。これを又利用する者がある。それは、小金を有つて ゐる隠居や、少し金持の妻君である。これ等の人々は、最後まで落さずに、毎月の割戻しを儲けてゐるのである。 三圓づゝの貯金に、毎月一圓平均の利子がつくのであるから、ずゐ分面白い利殖法である。


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