第十一章 川漁の話
一 鮭の話
「鮭(しやけ)は秋獲れる魚の中では一番味がえゝで、北海道では鮭のことを
秋味(あきあぢ)と云ふげな」
ーと、名古屋市の郊外で、百姓と魚屋とが話合つてゐたのを聞いたことがある。
新聞などでもよく秋味と書いてゐるのを見かけるが、當地方の實際の發音は、アキヤヂである。
鮭は九月の聲を聞くと間もなく、産卵のため川へ溯ると、適當な場所を選んで、
川底の小石や砂を掘つて、そこへ産卵するのである。その爲、時には大人の頭位の
大きさの石を幾つも動かす様なこともある。そして、産卵を終へる頃には、鼻は曲り、
尾鰭は擦り切れて、泳ぐことも出來ず、斃れてしまふのである。かうして斃れたものを、
ホッチャリと稱する。ホッチャリは既に産卵を終へたものであるから、今後絶對に子
を産む見込が無い。そこで子の無い女のことを、譬へて「ホッチャリ野郎」と罵ることもある。
鮭や鱒の、稚魚をカノと云ひ、雌魚をメス又はメシと云ふ。これは當地ばかりでなく、北海道
一般に行はれてゐる名稱である。
川で鮭を獲る爲に現在行はれてゐる方法は、刺網、ヤス突き、ドウ等が主なものである。
これらの方法の中では、ヤス突きが最も廣く行はれてゐる。それを次に説明する。
鮭でも鱒でも同じであるが、雨で川が増水した時に、一番多く溯るものである。
だから、川漁に行く時は、雨上(あが)りを狙つて行くのである。人数は三人位が最もよい。
同じ水が流れてゐるからと云(ゆ)つて、魚は何處にでもゐるものではない。
鮭も川に入つたら、大體宿所が定つてゐて、五十三次を順々に、休み休み溯つて行くのである。それで、
鮭を獲る人々もその通り、一番下から順次上の方へ、お宿を尋ねて行く。
このお宿は大抵、靑々の水の淀んでゐる淵か、葡萄蔓やこくわ鶴が覆い被
(かぶさ)つてゐる蔭の所に極つてゐる。そして、この宿の近くヘホリを掘るのである。
ホリは、川底の小石がすつかり除かれて、白い砂が現はれてゐるので、馴れた眼には
流れの上からでも、一見してそれと判る。
ホリを發見したら、直ぐに戦闘準備にかゝる。先づホリを中心にして、一人が十間程
川下へ下り、他の一人が十間程川上へ走る。そして二人とも、ニ間柄のヤスを下段に構へて、
川底へ眼を着けている。殘つた一人はヤスを逆に持つて、石突きでホリの近くの川底を突き
廻すのである。さうすると、ホリの近くで疲れを休めてゐた鮭が、喫驚仰天して横っ飛びに飛び
出し、川上か川下へつっ走る。それを、兩方に待構へてゐた者の内のどちらかが、間髪を
容れぬ早さで突き上げるのである。
メスを先に獲つた場合、カノは必ず近くにゐるので、流れに石を投込んだり、ガラスで川底
を覗いたりして、探すのである。
(ガラスとじゃ、五寸立方位の箱で、四圍を板で拵へ、底をガラスを張つたものである。)
次に、明治三十年頃、當地で盛んに行はれてゐた鮭や鱒の川漁に就いて、板久孫吉氏に
訊いたものを書く。
當時幌別川は、現在の約二倍の水量があり、それに鑛山もまだ始つてゐなかつたので、鮭や
鱒は驚く程多く溯つたものであつた。従つて、鮭や鱒の川漁は、海に於けるそれよりも盛んなもので、
寒村もこの時季だけはなかなか活況を呈したものであつたといふ。
その頃は既に川の各所に漁場が定められてゐて、漁場の持主も決まつてゐた。
各漁場の位置と名稱とは、一番下(しも)の川口に近い處が「仙臺引場」で、それから五六町上(かみ)
が「遠飛サンケウク(Sankeuk)の場所」で、此所から少し上つた處が「かねしめ漁場」であつた。
その上(かみ)が「金成(かんなり)漁場」で、次を「仙臺漁場」と云つた。
この「仙臺漁場」は千兩場所で、此處を中心に、上(かみ)と下(しも)へ順々獲れ方が少くなつてゆく。
この漁場の上(かみ)が「シケクル(Shikekur)漁場」で、一番上(かみ)のポロシュマ(Poroshuma)といふ
處が「田代(たしろ)漁場」であつた。
漁場は、個人所有のものもあれば、共同所有のものもあつた。元来これらの漁場はみなアイヌのものであつた
のだが、シャモが移住して來るに従つて、一場所減り、ニ場所減りして、いつの間にか半分以上がシャモのもの
になつてしまつた。そのうちでも勢力のあつた仙臺衆が、一番獲れる場所をせしめてしまつたのである。
漁の時季になると、各漁場では厳重に自分の領域を守つて、一本でも多く獲る事に努める。
各漁場とも、夕方の四時から、翌朝の四時までは、漁をする事が出來ない規則になつてゐる。そして此時間は
見張をつけて番をしてゐるのである。