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「丈草の記」宮武 藤之助

 丈なす野くさをふみわけて、精魂のかきりを傾けて、やうやうにたとりつきたる 峰のいたゝき、陽将に暮なんとして、路もはるかなる越し方をおもう、
 同行二人の遍路の姿にもにて、明治十五年卯月の始、讃岐之国会津の郷をいで立し いとけなきをの子は白かみの翁とはなりて、いまこれに在りへぬる  八十路のあしあとはつゆくさにおほはれてさたかならねとも、吾いのちをかけてのたびに しあれば、なつかしくも したはしきかきりなり、
冬はいてつくこほりにさえなまされ、 さかまく北海のなみとたゝかひ、夏は原始のもりにほゆるひくまにあかつきの ゆめやふられて、いぬるいとまもなかりし
そのかみをおもひいてゝ、 記してもって丈草記という
 昭和二十四年春日
  宮武藤之助
     しるす



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新天地をもとめて

 ドロのように、眠りこんでしまった土間の筵敷きの中で、いまだ、人の心を 強く押しつつむ深い夜の気配と寂寥の中で、軽く薄い布団につつまれた肩に、冷たい 寒さを感じながら私は眼を醒ました。
 炉の中に入れてある大きな木の根の一部が、赤く弱々しく、然しときには強く、赤い 光りを放ちながら燃え残っている。それは、全く異郷の地の夢を見ているが如くに 感じられた。やや馴れた眼の薄暗い中で、天井の葦や、屋根をささえる、太く曲がっては いるが丈夫そうな梁、そして、丸太や厚板、それに葦や笹をまじえての板壁と、その丈夫 そうな梁に、黒い影のように重く一様にぶら下っているものが、鮭の「アダツ」であることを 知り、愈愈、蝦夷が島に渡ってきたことの意識が、急に心細く感じられ、そしてその中にも 心の奥から湧きでる強い意志力、それは何か分らないが、同時に何かしら、急に眼に溢れる 涙の露間に、南の方はるか故郷、今津の郷の我が家の面影が走馬灯のようによぎった。

 那珂郡今津の郷、父、宮武清治(天保九年十月三日生)、母ナヲ(嘉永三年七月二十五日生) 弟、新吉、それに二人の妹、キセ、タケの一家六名が、親族や大勢の知己、村人達に見送られ、 涙を袖にして別れをつげ、丸亀港より遥かに霞む象頭山金毘羅大権現に、海路の安全を祈り ながら、故郷の山々をうしろに讃岐を離れたのは、四国にしては春もおそい、明治十五年四月 五日のことであった。
 丸亀港より神戸港へ、神戸港停泊一日半後横浜港へ、そして横浜港では五日間も停泊し、 天候のよい凪の日を見定めては航海を続け、肌寒い、そして自然の緑をいまだみることの 出来ない「蝦夷が島」函館港について、その第一歩印すことができたのは、四月も半ば過ぎ のことである。当時の北海道の玄関口にあたる函館港は、船の出入りも多く、役所や商店が建ち 並び、大勢の人が出入りして非常な賑わいをみせていた。
 いうまでもなく箱館は、ペリー来航後の安政元年(1854年)神奈川条約の締結により 開港され、江戸幕府は箱館奉行所を設け蝦夷地の拠点とし、更に東西蝦夷地を上知させ箱館奉行が 管轄したが、日米和親条約の他に、日露・日英条約なども締結、その後、安政五年、修好通商条約が 結ばれると、各国の領事が相次いで箱館に赴任し、松前・江差をぬいて貿易港や行政の中心として 急激な発展をみせていた。
 因に、修好通商条約から文久三年(1863年)にいたる五年間に、商船百四十隻、軍艦九十九隻、 猟船六十隻が入港し、軍艦はロシアが最も多く、商船はイギリス・アメリカが、蝦夷地産物を中国に 運ぶ、俵物と云われた昆布・いりこ(煮たなまこのこと)、干鮑などの輸出がほとんどであるが、 我国にとっては貿易よりも国防の拠点として最重要地であった。時代は移り明治元年、新政府は蝦夷地経営 の方針を計画、箱館裁判所を設置し、清水谷公考を任命するが奥羽越列藩同盟から榎本武揚を中心とする 箱館戦争に進展する。



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 然し、新政府軍に敵わず、一ケ月余りの善戦の後、五稜郭を出て降伏した。このようにして全国支配 を達成した新政府にとって、北方の地蝦夷地は「我国北門の鏁鑰(さやく)」という認識のもとに、時の 議定、岩倉具視の蝦夷地開拓の建議により、明治三年開拓使が箱館に新設、また、蝦夷地と云えば異国の 化外地という印象をまぬがれないので、同年、松浦武四郎の進言により蝦夷地を北海道と改め、十一国八十六郡 に分けられ、胆振国の幌別郡が誕生したのである。
 このような歴史性と北門鏁鑰の地として政府が最も開発に力を入れた北海道、そして北海道の玄関口の箱館港 ですら当時室蘭までの船便は、月三回程度の小船の定期船しかなく出航を見合わせる日も多く、五日、十日と 待てども船出せず、宿の支払いや、ただ徒食して船の便を待つのみであった。
 当時の幌別への経路には三つの方法があった。函館から徒歩で森・長万部と噴火湾沿いに、そして静狩・ 礼文華の峠を越えて有珠・伊達と陸路沿いに行く方法と、函館から森まで歩き、森から船便を利用して室蘭 へ行き幌別へ。そして直接函館から室蘭への船を利用する、という方法である。
 然し多くの家財、荷物を持っての旅であれば徒歩は難しく、船の便に頼らざるを得ないので、最も便利な函館 から室蘭への船便を待った訳である。然し聞くところによると、好天候で特に風の方向や海流など諸々の気象や他の 条件の他に、室蘭からの積荷の状況を見はからって船出する、ということも耳にはさみ、全く途方にくれてしまった。
 函館の町は、旅行者や船の便を待つ人の群で溢れていた。私達と同様に開拓移住の人々 も多勢いて、その目的地へ行こうと焦っている人々も多かった。そして中には、既に旅費も 使いはたし、或は千古の未開に立ちむかい、北海の開拓の厳しさに抗しきれず、夢も敗れて 本州に帰ろうとする人々にも多く出合った。中には一攫千金の夢を見て来道する人々も多く、 商人にしてもニシン・鮭・コンブは取り放題。鹿・狐・熊猟の他にトド・アザラシ・オットセイ などの狩猟で、毛皮は勿論、鹿の角・熊の胆のう・オットセイの腎臓及び他の内臓も 薬として珍重されていたのでこれら取り引きで一儲けしようと考えるもの、石炭・金・銅・硫黄 などの鉱山資源も大資本家だけでなく、所謂、山師として個人で捜し求めている人々も多勢きていた。
 ところが、活動期の春から秋を過ぎた十一月・十二月ともなれば、失敗して借財をふみ倒し夜逃げ する人々も多く、古道具屋・質屋の多かったことも当時の特徴であったと思う。
 私達が函館滞在中も、それは全く人生流転の様相をあらわし、多くの人々はその行動や善悪の 是非を問わず、必死になり次への生き方を求めていたに違いない、ということは同じであった。
 函館区役所はこれらの窮状をみて、東本願寺その他に収容して保護の手をさしのべていたが、勿論 充分なものではなかった。



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 宿にいた私達へも、この様な現状を考えて、極めて旅行の困難な、そして種々の状件の悪い幌別郡 へ入植するよりも、地味のよい函館附近の未墾地の貸し下げを受けた方がよい、と親切に進めて くれる人も多かった。
 考えてみると、新政府の北海道開拓については、明治二年七月、北海道の分領支配について「蝦夷地 開拓の儀は、今後、諸藩・士族・庶民にいたるまで志願の次第申し出候者は、相応の地、割り渡し開拓を 仰せつけるものである」との太政官布告をし、大いに開拓を督励し半ば強制的形式をとり、結果的に二十四 藩・ニ華族・八士族(幌別郡の片倉家も含む)二寺院などの他に兵部省・東京府をいれると計三十八領地に 及んだが、新政府の中心的行動力や権力を有していた大藩の鹿児島藩ですら「北海道は遠隔寒冷で商業実利が 少ない」との理由で領地を返上したので、他の藩は云うに及ばず、土地返上をし、旧幕府軍として朝敵視され 領土を没収された、仙台藩や斗南藩の如く、指定された開拓地で悪戦苦斗、成功の礼は誠に数少ないものであった。 当時の開拓の不振について開拓使次官・黒田清隆は樺太視察からの帰り「蝦夷藻屑紙」と函館で語っていた ほど初期の開拓は困難をきわめていた。然し明治十年代になると次第に様相も変わり、余力のある旧大藩主は、 旧家臣らの士族授産のために計画的な帰農策をとり、一方華族や事業家も資金を投資し、明治十二年には 「開進社」が創立、翌十三年には「赤心社」、その後「晩成社」などが結成されたが、これらは渡道資金の 援助や開拓についての補助はあるものの、集団で入居地指定の移住開拓であった。
 私達が函館に留めおかれた間にも、前記の如き函館近在への入植勧誘や開拓結社などの 誘いはあったが、旅費一切の支給・農器具・家具の貸与や種々の好条件のある集団入植に ついて岡山県の加藤清徳・兵庫県の実業家・鈴木清らの「赤心社応募」その他についても 充分検討済みで話し合っていた事なので動ずることはなかった。

 入植についてのこれらの好条件を排除してまでの理由、これはただ一つ、誰にも束縛されない自由な移住、 そして自由な地を自分達の力で求めようではないか、という事であった。幌別郡を選んだ 理由、これも明治十四年、同郷の津村留吉氏ら二名の移住者を得ている事がただ一つの理由で あったが、同郷意識への結束は、安易に私達を他の地に求めるような考えは精神的にも許容しなかったのである。
 それに私達家族には、土地開拓は当然であるが、新天地での第二の事業に対する計画をたてていた。それは、 先代から伝わる醸造業であり、今津郷の近隣にも知れた名家としての誇りと、開拓に寄せる意地でもあった。
 宮武家の誕生も、利仁流藤原姓から分流した宮武二郎成忠などの名が知られているが、この 頃からの家系のほどは多く分らない。
 時代は下って江戸藩政時代になると明確になってくる。それは、親藩御家門の大名である、高松藩松平家 の藩医として代々仕えていた家柄で、特に儒学にもすぐれ、また藩医として仕えた、宮武良順(器号と号す) がその人で、「高松藩由緒録」・「高松藩分限録」には家臣の苗字として「宮武」が記載されている。
 その後、宮武良順から分家した一族が、江戸末期讃岐国那珂郡今津村の名主になり、この地方で活躍しているが、 特に、京都九条家は讃岐の金毘羅大権現と深い由緒のある家柄で、代々参内しているが、その案内役の一員として、また、金毘羅 山御礼、お守りなどの管理者として知られた名主「宮武喜兵衛」が先代の一族である。



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 そして、今津村の宮武忠兵衛が父の直接の先代で、村役人であった。村方三役の一人として、先代から醸造業 を営み、五人組制度や寺請制度などを通じて村民生活の統制を行ない、貢租納入の責任を負い、封建制度の厳しい 統制の中でも貧困者を助け、醸造業を営んでいたので近郷五ケ町村の長者として信望も厚く知れわたっていた。 金毘羅宮には今でも先代の納めた石碑が保存されている。
 然し、昔の家族制度は厳しく、忠兵衛の本家筋は村役人で経済的にも社会的にもその高い地位を得ていたが、 分家は土地の一部を贈与されたものの、本家の家を保持する協力者たるに過ぎず、当時二男・三男は、所謂、厄介物 に過ぎなかったのは武家や公家階級とて同じであった。特に四国讃岐は人口に比し一人当りの耕地面積も少なく、丸亀藩・ 多度津藩は貧乏藩として知られ、それだけに藩政の改革として、讃岐三白と云われる錦・塩・砂糖の生産は盛んであったが、 農民も四反百姓と云われる零細農民が多く、家内工業に依存する率も多く、両藩が明治維新の時にいち早く新政府に 恭順の意を表したのも、朝廷への忠誠というより敗政時に、抵抗できなかったからであると云われる。
 慶応二年は、江戸末期に於て最も百姓一揆が多発した時期である。特に世直し運動として知られる「ええじゃないか運動」 は、下級の公家・下級士族は云うに及ばず、生活苦から解放されようとする地方農民の中にまで浸透し、地主・豪農の家に 上がり込んでは強奪をくりかえした。「天朝様の新しい世の中に、世直しせよ」、これは倒幕運動への策謀であったにせよ、 革命的強烈さをもって全国に広がり、一定の価値判断に基ずく大衆運動とは異にしてその強奪をくりかえした。当家に確たる 記録はないが、一族筋にあたり、明治・大正・昭和の初期の三代にわたり、独立独行の著名なジャーナリストであった「宮武外骨」 は次のように語っている。
 「当時の宮武家は、中讃の近郷一帯では勤倹力行と聞えている。庶民の立場に理解をもち、開明的思想をもって農民から 慕われた家であり、これが農民から豪奪を受ける理由はない」と。
 今津の宮武家は、どのようにしてこの危機をのりこえてきたかは、明確ではない。然し、 このような大きな変革の中で考えられ、影響を受けた事は当然であり、父を中心とした私 達家族が、蝦夷が島・北海道渡道への固い決意をしたのも、分家は収まるべくして収められる、という この時代としては当然の古い「しきたり」からの脱皮であり、また一方、今津郷の近隣に 知られた名家としての誇りと意地を、新しい自由の地に求めようとしての考えからであった。
 函館滞在は長かった。一日でも早く目的地の幌別郡へと、同じ島の陸続きであれば飛んで でも行けそうな気がするものの、担いきれない多くの家財を抱えては如何のしようもな かった。確かに荒天の日も続いた中で、このような有様ではどのような処置の仕方もなく、 遂に森まで徒歩で行く事にした。
 陸路約十里の山道のため、持てる荷物にも制限がある。遠い讃岐から持ってきた荷物の中から、 持てるだけの開墾用具と先代から伝わる物を背負い、生活のにじみ出るような家財道具は、情容赦 なく只値のように引き取られていった。



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 五月五日早朝、約二十日間に及ぶ滞在をした函館の町を出発した。七重の村まではどうにか 順調であったが、以後山道にかかると被いかぶさる大木や、いまだ枯れ草に被われた山道に 困難の限りをつくし、途中一泊して翌日午後ようやくにして森に到着した。
 当時の森は、室蘭より人口が多く、江戸期から漁業で栄えた町で、宝暦十年(1760年) に建てたニシンの供養塔は当時の盛況をしのばせるが、当時も街並は漁業でにぎわい、漁油 の製造や水産加工、それにオニウシの異名のある、意味が「木の茂るところ」という地名、 即ち「森」の名称であるところから木材の生産も盛んで、周辺の部落からも農産物が集散されていた。 また交通の要点で、対岸の室蘭にはほとんど毎日のように定期船が通い、伊達紋瞥にも沖がかりで 必要に応じて寄っていた程のにぎわいをみせていたので、船の便はよく、森に一泊した翌日は、たやすく 室蘭に渡ることができた。
 ムロラン村は昔、室蘭市石川町附近を云っていたが、明治五年十月、現在の室蘭駅に近いトキカラモイ (チカ・湾)の地に打ち込まれた一番杭から、新室蘭の名称で建設工事がはじまり、札幌に通じる 札幌本道の建設となり、明治九年、新室蘭港の名称でよばれるまでには、海関所の設置、電信局の開局 など、その他の公共施設はもちろん、ロシアに対する太平洋側の室蘭港は、日本海側でロシアに対峙 する小樽港に比較して重要な意味をもつ主要な地位にあり、その意味に於ての活況・発展もまた著しいものであった。
 翌朝早く、旧山道、札幌本道を歩いて五里の路、最後の目的地幌別へと向った。
 現在の道路とは異り、海が所々に見える山道は、やはり深い雑草や樹木に被われている細道である。 多くの荷物を持ちながらの山道は難所であったが、ペシボッケからイタンキ(現輪西・東室蘭附近) にかけて、野性の群居した馬と出合い、それも数十頭と群をなして暴走し、前を駆け抜け、横を走り、 またはたち止って引き返そうとする様は、生きた心地もなく、追い払うすべもなく、ただ樹を蔭に 荷物を背に家族がかたまって身を隠すのみであった。当時、登別ハシナウシの牧場・札内などにも 牧場をつくり馬の放牧をしていたというが、木柵とて完全なものではなく、すぐに倒され、乗り越えて 自由に山野をかけめぐる野性化した馬は、相当数いたようである。
 このような難儀に合いながら、長い旅中一抹の不安と希望を胸にしながら、まだ見ぬものの安住の地 と心に定め、旅の途次幾度か夢にみた目的地「幌別村」に一家中手をたずさえて着いたのは、 春の日の暮も近い五月八日の午後七時頃であった。
 故郷の今津村を出発以来、実に三十有余日に及んだのである。



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大地との斗い

 当時の幌別は、主として漁労従事のアイヌ人家屋、約五十戸、片倉家旧家臣五戸、 南部藩旧家臣三戸、駅逓一戸があり、国道以北は、幌別川添いに樹木の為家は見えないが、 処々開拓されており、来馬川添いは開拓土地も比較的多かったが、雑草の茂るままに放置され 、全体として海岸沿線のハマ以外は未開の地が多く、柏を中心とした雑木が天高くそびえ、その他 、鷲別川河口、ワシベツ・トーボシナイ地区からチリベツ地区、ランボッケやノボリベツ川 東側添いなどに点々として家があるだけで、幌別郡内の全戸数は、私達の移住前半の明治十四年 は、戸数約七十余、人口約二百七十余を数える程度の寒村であった。

 幌別郡の開拓は、明治三年以来、明治五年までの、片倉家旧家臣は、四十五戸、約百八十余名 の家族移住があったが、室蘭郡移住を併せるとまだ多かったようである。然し、片倉景範公が 明治十年、札幌郡白石村へ転居する事によって与えた、幌別郡開拓への影響は大きく、その後 三十余戸が白石へ転居することによって、初期の開拓計画も挫折せざるを得ない状況にあったようである。 一方これら先人達の苦斗や、残留して初期の開拓を貫こうとする精神的支柱は以後も引き継がれ、 前記の戸口、戸数約七十余、人口約二百七十人が、更に十年後の明治二十四年には、戸数三百六十余戸、 人口約千五百余人を数える程になるが、その開拓移住の先端をなしたのが讃岐の人達で、次いで、淡路・ 徳島の人達であろう。

 幌別郡の香川県人による入植は、明治十四・十五年、このように他に先駆けて、三十余戸が入植 したのである。そして多くは集団的に、札幌本道(現三十六号線)を間口に、東北方面の山麓附近まで、 基点は、オカシベツ川附近から東に向ってランボツケ側に伸びていった。このようにして、幌別郡 開拓の第二期は開かれたのである。
 私達家族の選んだ地域は、東来馬の地である。西に来馬川が流れ、東北の山麓からは、冷く綺麗な湧水 が流れでていた。湧水と谷地水の流れる川には、丸木のままの橋をかけ「宮武橋」と名づけ、村人達からも 通称の名で「宮武川」「宮武橋」として親しまれた。

 本当に苦しい長い旅路であった。そしてようようにして辿りついた今日、自由の地を選び、自由に大地を 伐り開く事ができるようになったのである。
 このようなよろこびに、私達は感激し必ず初期の目的を成し遂げようとの未来への誓い と、勇気に心は満ち溢れていた。
 然し、現実はより厳しく、自然は全く我々を容認しようとはしなかった。入植者は誰でも経験するであろう 自然は冷酷なほど厳しかった。
 特に、入植した当時の東来馬の地は、千古斧を入れぬうっ蒼たる樹木で蔽われ、楢・桂・せんの樹など、胸高 の直径三尺余の大木は普通で、中には直径四・五尺に及ぶ、桂の大木は、中が空洞化しながらも、天空一杯 に聳えたち、まるで、小さな人間を嘲り笑うが如く我々を威圧した。



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 温暖な気候と、よくゆきとどいた平坦な土地に、多少の知識をもった私達であるがそれだけに、予め開墾に対する 十二分の覚悟はしてきたものの、現実の地に立ち向かった時の状況は如何ともなす術を知らなかった。
 かねて用意の開墾用の、鋸・鉈などの道具は「蟷螂の斧」という有様で、大木の下に密生する、熊笹にも、鎌 や鍬では全く歯のたてようがなかった。
 開墾の仕事は、遅々として進まず、一日一家中で働いて、平均約三・四坪の土地をつくるのが精一杯で、 開墾の重労働の中で開いたその地にすぐ種を蒔く、という方法を続けていった。
 開墾の順序は、南西面の日当りのよい方角から、巨木を倒すことの作業からはじまり、樹を 倒そうとする方向に、ウケ、を斧で切り込み、反対側から鋸をいれ、ウケ口の方向に倒す事からはじまった。
 倒した樹の小枝を切り払い、玉切りにして始末するのである。しかし、これらの稼働力は到底、 家族の力だけでは出来ることではなかった。
 耕地としての畑地が必要、急務なのである。そのために、切り払った枝を一定の所に集め、下草や笹を刈り、 枝や樹ととともに焼き払った。
 伐りとった大木の根は、耕地の邪魔になるがすぐに取り除く事はできないので、斧や鍬を根元に打ち込んで 早く腐らせ取り除くことにした。
 また、来年に予定とされる開墾地の大木については、根元に近い所に幅一尺五寸程、樹の皮を剥がし また、斧で伐りめをいれて放置すると、自然に枯死することも覚えた。
 笹の除去も巨大な樹の処分と同様、大変な仕事であった。笹を刈り取ってそれを乾燥させて焼くのが一般 的方法であるが、地下茎が残って地中に縦横に伸びているので、鍬を打ち込み根を引き出して処分しての仕事は 、根が強いので、また新しいなかなかの重労働で、少しでも疎かにすると芽が伸びてくる。

 余裕のある土地では、一定の間隔をおいて一列に切り倒し次の列を刈りとって前列に被せて 燃やすなどという方法もとった。
 このように苦労して伐り開いた土地も、面積にすると、大自然の中では、ごく一部分に過ぎず、五月 も下旬近くになると、伐り開いたが周囲に残る大木には一斉に葉が茂り、朝日も遅く、 日中の陽が射す時間も少なく、夕暮れが早かった。結局、日光に当る作物の時間が短いということである。
 畑の周囲の樹によじ登り、枝を払って少しでも作物に日光が当たるように、鉈をふりまわした。
 此のような苦労の中で、土地がよかったせいか、ぐんぐん作物は伸びて、芽を出し花をつけた。 ところが花は咲けども収獲の実はつかず、麦は全滅で、大豆・小豆や、それに、副産物として植えた、 芋と南瓜を少々穫り入れたのみであった。大豆や小豆などは日当りの悪いせいか、実入りの少ない小粒である。



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 九月を過ぎると間もなく北風が一段と冷く感じられるようになる。未だ経験した事のない 北国の果の冬、酷寒の中で過ごす準備はできているのだろうか、これで良いのだろうかという 不安であり、はじめての開拓者が、最初に当面する問題は、まず食糧を確保することであって、 このように少ない生産の食糧では決して生きていけるものではなかった。
 然し、先人達の冬の生き方の教訓で、原始の樹林を伐り倒し、作地をきり開いて耕作し種蒔・ 育成をしながら、秋の収穫を期待し、それを頼みに冬を生きていけ、というような生易しさ、安易 さを語ってくれる人は誰もいなかった。
 とにかく、食べれるもの「食糧となるものはすべて保存確保せよ」という鉄則は、ふきわらび、こごみ、 ぜんまい、うばゆり、キトビロ、竹の子、きのこ、そして大根など野菜の葉は、干したり、塩に つけたりして、保存する事は、入植当時からの教えで、これが準備には普段から怠りはなかった。
 秋になると来馬川をのぼる鮭の群で、川は、ごったがえすような賑わいぶりをみせ、はじめは手製 の槍で突いては獲っていたが、大量にのぼる鮭の群には、畑の耕作用の三本鍬で突き刺して獲る、という 荒っぽさで、槍を使う未熟さから失敗する事を考えながら魚をとるような仕方では、量の確保に 間に合わなかった。また、産卵後の「ホッチャレ」といわれた、くずの鮭まで獲って、腹をさき、内臓を 出して小さいのは、そのまま干すか、大きい魚は縦に切りさいて干し易いようにした。三枚に おろし骨をとり除いて尾をつけたまま乾したものを、アダツ、いうが、貯えるためには頭部を切り とる事すら惜しかった。乾燥させる為にも、炉の上につくった「火棚」に吊るしたり、木の根のような 燃えづらい煙の多く出る木を燻して燻製のようにして貯えた。

 明治十四年、登別地方は大雪のために、大量の馬や鹿が、雪に埋もれた笹草などを食べる事が出来ず、 大量に斃死したと言われ、所々に鹿や馬の骨が非常に多かった事もうなづけたが、それでもまだまだ 多くいたこれら鹿や狐・兎などに「わな」をかけ捕える事もした。
 また、時化のあった翌日は、海岸までは遠いが、仕事を見はからって海岸に行くと、大量のコンブが 海岸から打ち上っているので、海岸で干しては貯えた。
 また、時期は秋口であったが、大量の「北寄貝」が海岸に寄せ上った。大抵、割れているものは多いが、中には 割れないものも相当あり、大きさも、現在のように小さいものと異って、貝表面の色も真黒く、年を 経ているせいなのか表面が少し白くなっているものなど、いずれにしても大きいものばかりである。
 早速、持参の大鍋を股木を拾って備え、海岸にうち上がっている木を拾い集めて火を炊き貝を一度、 ゆであげてこれを乾燥させ貯えものにした。
 北寄貝の他に、十月、波静かで西風が弱く海にふきつける頃、いわしがどっと海岸に寄せ 上がることがある。



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 それに十一月頃から「毛ガニ」が海岸に寄せ上ったが、夕方海岸に行き少し歩くと忽ち 背負いかごに一杯になる程の量で、これは一部持参し翌朝まで漁師の家に預けて早朝とりに行った が、夜明けと同時に、ゴメやカラス、トビなどが何処からともなく大量に飛んできて、つついて 食い散らしてしまう。
 食糧確保のため米や麦、豆や栗、稗なども買いこんだが、少し位では間に合わない、とにかく、北海 の果のはじめての冬に、生きる経験、それは冷く厳しかった。
 移住者の当時の家、それもはじめは大体きまっていた。手頃の、丈夫な太さの股木を二本 作って主柱とし、股木に、これも手頃の丸太棒を渡して棟木とし、葦を刈って屋根を葺いた 「おがみ小屋」式のものであった。然し我が家はこれに四つ柱をたて、下見板の代わりに丸太 を積み重ね、金はかかったが、手斧で荒削りした板状のもので壁も少々組み入れた最初に しては、おがみ小屋よりはやや良い建て方の家ではあったが、これも仮小屋であった。然し、 秋頃には、土間続きの横にやや大きく家らしきものを続けてつくることが出来た。
 外まわりの囲いも、家の周囲に残した樹と樹の間に、丸太を組みたて、虎杖葉の大きく 枯れた「ドングイ」や葺を幾重にも重ね合わせて家を囲い、冬の厳しい風雪に耐えなければと 懸命に作ったが、冷い北風に、時には霰の舞い落ちる十一月には、周囲も一段と淋しく狼か野犬 の遠吠えに冬への恐怖を払いぬぐう事はできなかった。

 厳しい冬も過ぎ開墾二年目を迎えた。耕地はやや広くなったものの、畑に蒔いた種も昨年 同様の結果となり、為す事、する事、すべてが志と異り悉く失敗に帰した。
 それは、南の暖い風土に馴れた栽培形式のためでもなく、技術法も意識し、研究しながら、 寒冷な北海道の農業形式を教えられ、学び、肌で感じながら、先達の経験を生かそうと努力し、適切 な作物を植えたのであるが、手法の異りか、馴れぬせいか実りがなかった。
 そのうえ、この年に発生したバッタの大群は、特に札内地方から東来馬を襲い、 我が家に於ては大被害を受けた。
 バッタの襲来については、明治十三年、十勝地方に発生した大群は忽ちにして 日高地方を襲い、一方は北上して石狩地方に蔓延し、また一方、胆振地方に南下して 襲来し、当村の札幌開拓使は、多数の人海戦術で人を狩り出し駆除に当ったものの、 全道的にその被害は甚大なものであった事を聞いていた。
 一時鳴りを静めていたそのバッタが再度発生したのである。
 もっとも、ひどい状況の時は、大群が襲来すると、今までまばゆく輝いていた太陽が 見えなくなり、薄雲が太陽のまわりを被ったような薄暗さになった。またその飛翔する時の 翅音は飛行機(当時のプロペラ機)の如く、過ぎ去って一夜明けた翌日は、作物の葉も 食いつくしてしまう程の凄じさであった。



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 それに加えての長雨が、六月・七月の成長期に大きな影響を与えていた。
 また、手不足で不充分な仕事の中には思わぬ被害も待ちうけていた。これは前記 の如く南の国から、はじめて渡道した、遠い、長い苦しみの日も終りをむかえ、室蘭 から幌別への最後の路、それは目的の地に今一歩の、よろこびの路に、突如として襲来 する如く、暴走し、我々の身の置き所もなく慌て隠れた立木の側を駆け抜けていく 野性の馬の大群に出会った時の恐怖・・・ 熊、狼の類はかねがね聞いてはいたものの、 身体は大きいが、温和しい動物の代表と目されている馬が、眼を血走らせ、歯をむき出し にして数十頭となく走る様に、一同声もなくただ驚くばかりで、かって夢にも思わぬ事であった。
 このような野性の馬は、入植時にもしばしば出合ったが、飼主さえ分らぬ数十頭の馬が 時には現われて、丹精こめて耕作し、成育した畑に入り込み、作物を食い荒らす事も時々 あった。見つけては一刻も早く追い出さねばならぬ。長い棒切れをふりあげ、石を投げ、 声を枯らして追い払う。二度と入らぬようにと所々に木の柵を畑の周囲にめぐらすが、 これは大変な、そして畑作りには馬鹿げた仕事であるが、仕方のない事であったし結果的に、 丈夫でないので、すぐにこわされてしまった。
 このように、思いがけぬ出来事の連続の中で、耕作地は少しずつ広がったものの、秋の 収穫への期待は、昨年とは異った不凶・不作となり、不作への失望よりも、冬を迎える 食糧への不安により一層心を曇らせた。多少の確保はあるものの不足は眼に見えていた。
 そして、とうとう一家が郷里を離れるに当って処分した、家・屋敷の全財産を、そのまま、 親戚に預けておいた一部の中から、百円の送金を願った手紙を出す事になったが、約一カ 月後に送付された手紙の中には、ただの五円しか入っていなかった。
 当時、室蘭局で取扱う金額の限度額は、僅か五円までで、百円の金額となると、当幌別郡 の最も近い郵便局は、森郵便局しかなかったのである。
 再度、手紙で送付先を知らせ、送金の連絡を受けたのは、冬の近い十一月の初旬であったが、 此の間の生活に対する不安は勿論のことであるが、この一年間の経験は、人間最低の生活の 中でも生きていける自信がついたので、この事よりも渡道に当っての基本計画の一部が崩れて しまう恐れのある事であった。
 それは、渡道後の再起を期す日のために、絶対に一文たりとも手をつけてはならぬ、と、 渡道に当っては勿論のこと、これまでも、僅かの資金で食いつなぎ、独立自律の体制を続けて きたのに、その資金にも手をつけねばならぬ無念さと、初期の計画の崩れに対する苛だたしさ でもあった。



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 そして、渡道三年目の春を迎えた。此の年とて開拓の苦労は並大抵ではなかったが、今までの 苦しい経験の中から得た教訓は、自然の中に生きる合理性を生み出し、生きる事への自信や方法 をより深める事が出来たし、耕地も現在の稼働力では一応の限界に達する程の畑地も得ることが 出来た。それは政府より、無償で払い下げを受け、三年以内に耕地にする、という契約の限界を 遥かにこえた三町歩余(約一万坪)の純然たる畑地であったし、耕作予定の地で手がけている 面積をいれると、まだまだ多い土地となった。
 それは苦しい生活の中から得た、血と汗の結晶でもあった。
 耕作するにしても、前記のように生易しいものではなかった。熊や、そして山犬や野性馬の集団、 それに狐などの動物の出没と被害、カラスやスズメなどの畑地に対する鳥の害は言うに及ばず、 小さな虫にしても、深い森林や谷地・湿地帯の多い、野性の生活の中では、これの駆除に方法も ない程人間は弱いものであった。そのために、畑仕事の時には火縄といって、ぼろ布や、木の皮 を軽く紀ったものに火をつけて燻らせ、ブヨやアブ、藪蚊を防いだり、家の中の生活では、炉の 中の木を煙で燻らせるという方法だけであった。
 衣・食にしても購入は出来るが、資金を節約し、履物は鹿や犬その他の動物の皮、そして鮭の皮、 などで「ケリ」と言われた、靴をつくり履いたが、鮭の皮でも丈夫で、月に三足で充分であった。
 着衣は、夏は薄物で何んでもよいが、寒さの訪れた時には、衣類を重ねて、細く糸をさして作った 「サシコ」を着たが、雨の日も水を通さず、何よりも丈夫で長持ちするので、外着として用いた。 また、犬の毛皮は勿論、狐・うさぎや馬、そして熊の毛皮で作った、チョッキ用の毛皮を、毛を表に して着衣にも利用した。
 このような苦斗を重ねて開拓三年目、ようやくにして、食する糧は貧しいが、生活を維持する一応の 基礎は出来あがった。
 恐らく、私達も此の土地にしがみつき、このまま今後の生き方を考えるのであれば、此のような土地での 適性植物の栽培、品種の改良、土壌の改良、灌漑への取り組みなど、商品になる作物の生産に、プラウ・ ハロウ・ホー・レーキ・荷馬車の購入・そして、室蘭へ行くと労働者も溢れているので、これらを 利用しての農地の拡大と合理化をはかり、より生産を高める為の努力をしたに違いない。
 また、牛馬を中心とする放牧業や、蝦夷の杉と言われた、蝦夷松、トド松やその他の木材の 伐り出しや、果樹の栽培など、一連的な当時の土着産業と目される事業についても考えたに違いない。
 然し、過去に於ける先人達の新しい試みも、失敗が多く眼を見張るような事業もおこらなかったし、 特に農業生産を中心とするものであれば、気候などの自然条件をよく考え、また周囲の発展性や、 価格状件も、その時の需給の量に支配される事が多いなどの問題はまだ未解決で多く残っている。



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 農業生産とはやや異なるが、その例として、特に、白石三白と言われる、紙・ウーメン・ 生糸の生産は仙台の白石が有名であるが、特に白石の旧片倉家家臣の先人達は、自信をもって 当時としても商品価値の高い「生糸」の生産のために、養蚕に力をいれ、多くの資本を投入 して、鷲別、幌別、冨浦などの各地で行なったが、桑の葉はよく成長するものの六・七月 に特に多い海霧の発生は、年三・四回は蚕を幼虫から生育しなければならぬ食料の桑の葉を 露で濡らすために、食欲の溢盛な蚕に桑の葉を乾燥させて与える時間もなく、乾燥状件のよくないままに 葉を与えるので、病気も発生しやすく、成長も遅く、従って良好な繭を得られない、という 失敗の苦い経験を教えられている。
 海霧による日照時間も少なく、北海道全体からみると降水量は、本州に比較して少ないのに、 幌別郡は、過去に於ても夏から秋にかけて集中豪雨が比較的多い事も知らされた。 これは、特に雨が少ない讃岐から来た者の日常的経験からであろうか。



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自立への道

 明治十八年、暖い日射しに残雪もまばゆく感じる中で、黒土も見え、ふきのとうが勢い よく芽を出してきた。なかには雪の中にも顔を覗かせているのもある。
 開拓に入植以来、四年目の春を迎えた訳である。此の間、口では云い表わすことの出来 ない苦斗の連続であった。然し三女カメ(鈴木家に嫁す)、四女セイ(塚見家に嫁す)と 家族も増えて八人。全員が健康であった事は何よりも喜ばしく、恵まれていた。
 開拓された土地も一段と増え、三町歩余の畑地が出来上っていた。所々に柵を設けた我 が家の土地を眺めて、満足感を覚えたのも確かである。
 然し、今此処に立って、今年も頑張らなければならぬ、と思う燃える意欲とは別に、や っと築いた土台の上に、次につくりあげるものは何か・・・という昨夜の父との話し合い の中に、暫し、幌別を離れて歩まねばならぬ未知への心の震えがあった。
 先達たちの、幌別郡開拓の経験と状態を考え合わせた場合、此処まできた次の我が家の 発展をどのように期待すべきであるか、しむけるべきであるかも家族で充分話し合った。
 それは、現状の打破であり、現状打破と云っても少なくとも、現状件を維持しながら次 への進展を考慮すべきでないだろうか、という問題であった。
 この事については、讃岐今津の郷から北海道に渡道するにあたっての、最も大きな課題 であり、また、渡道を決定づけた条件でもあり、目的でもあった。
 赤々とよく燃える、土間の炉ばたを囲み、天保九年(一八八五年)生れの父清治と、 讃岐の国、金藏寺士族の名家として知られた、土井覚信の長女嘉永三年(一八五〇年)生れの 母ナヲ、それに、私と明治五年生れの弟新吉を交えて、夜も深々と過ぎゆく中で今夜は 最後の詰めであり、渡道以来、第二の布石としての話し合いであった。

 渡道することを決定づけた状件は、北海道で生産されたものを活用し、四国での経験を 生かす、という事で、前記の如く、今津郷の本家は、醤油と味噌の醸造業をし、近郷に 知れわたった長者で村役人をしていたが、分家した、父清治も本家の醸造を手伝った経験者 で、北海道渡道後は此の業を生かそう、という念願があったからである。
 それにしても、全く経験のない私を函館へやり、醸造酒の技術と販路等、商業経済を勉強 して来い、という家族の決定も幸運なことに、力強い援助者がいたのである。
 当時、函館で頼る事のできる人、その方は、北海道政界の長老といわれた、木下弥八郎 氏の子息で木下成太郎氏。彼も後日、代議士として活躍された程の人物であるが、当時は 函館で、酒類、味噌、醤油などの取扱いの他、雑貨の取扱いを手広く営業していた、三中商店 の支配人成太郎氏を頼り、商業の道を教えてもらう、ということであった。



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 木下弥八郎氏は但馬国、豊岡藩の家老であったが、明治維新を迎えてからは、特に北門 警備の必要性を説き、自ら北海道の開拓を志して、私達が幌別に入植した同明治十五年、 二カ月程遅く、オカシベツに入植なされ、その後、室蘭の仏坂附近に転住されたものの、 非常に立派な人格者で、同時入植の誼として、父も御交際を願っていた間柄であった。
 幌別入植当時、成太郎氏は東京に勉学中であったが、その後間もなく、弥八郎氏の渡道 された北海道へ、そして三中商店に勤められたのが縁であったのである。
 三中商店の営業は、前記の如きのものであったが、醸造関係の卸売り、小売りは勿論、 特に、秋田、新潟方面の取り引きで、醸造関係の出入り者も多く、私も酒造り職人のかしら である、杜氏の人達を数多く知り、各醸造の技術なども夫々の製造倉で直接学びとる事も できた。そして後日、此の時知り会った、秋田の杜氏を私の酒造りの責任者として呼ぶ事 になるのであるが、また商人としての徒弟からの仕事も覚え、商店取り引きの勉強もさせて貰った。
 当時の函館は、私達が渡道当時過ごした時とあまり変りはなく、同様に人生悲喜こもごも の状況を呈し、相変らず一攫千金の夢を追う商売人や、移住者は相変らず溢れていた。
 私共が室蘭へ直接船渡り出来なかった為に、二束三文で引きとられた大切な家財道具を 取り扱った店も、他の業者に代り、店内にも昔の面影を残す品物は何一つ残っていなかった。
 それでも、人生流転の中で、その当時の心細さに比べて、今の私は希望一杯であり、 函館での三年間も、生易しいものではなかったが、以後の自分の生き方を大きく変様させ たことは事実であったと思う。
 明治二十年、修行のためとはいえ、貰った百円余の金をふところに、私は勇躍幌別に帰って来た。

 ところが、幌別の我が家では、大水、そして病虫害の発生に、手不足などで疲弊のどん底 にあり、それに郷里からも大切な資金を少しずつ仕送りさせていた事もやむを得ない ことであった。虎の子の如く大切にして持参した百円余の金、そして郷里にまだ残っている 二百円余が現金としての全財産であった。
 醸造を行なうにしては、小規模で一部行なう事は出来るものの、失敗した時の危険を思い、 父と相談して今暫らく待つ事にした。資金の面でも当時、適性な金融機関から、 知り合いを通じ借用できたが、事業の失敗した時の事を思い、これもやめにした。
 農業でのじり貧を恐れ、資金面でも適当な仕事を見つけようとの家族の話し合いが続 いた中で、人馬車継立業を営むことはどうなのか、という話がでた。
 私は、父と共に早速この事を、室蘭の木下氏を訪ね相談したところが、室蘭と札幌の 交通や物資の移送が最近特に増え、これに対し移送力が不足しているので継送業は適当で ないだろうか、との返答を得、早速、この準備にとりかかった。



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 用具については、当時室蘭で馬車用具一切を準備する事はできないので、札幌へすぐ 行って用具をすべて買い入れると同時に、札幌本道沿いの現在の幌別本町に居られた、 旧片倉家家臣、西東勇吾氏が川上の開拓に移転するのを幸いに、土地・屋敷とも買い求め、 また、品種の改良された良馬三頭と、労務者を求め、国道沿いで、継立業を開業、弟新吉 と共に仕事をすすめていった。
 木下氏の話された如く、此の当時、室蘭港は非常な発展を遂げていた。
 北海道の行政の中心は、いうまでもなく、始め函館に開拓使が設けられたものの、明治 四年、既に北海道の中心に位置し、千島・樺太開拓の拠点としても条件の良い、札幌に 開拓使庁が移設され、国家的見地からも、札幌は行政の拠点として枢要な地位を占めて いたのである。
 それと同時に、ケプロンの進言した「ムロランを開港し、東岸、及び札幌に送る荷物は、 室蘭の新設港に送るべきである」との主調は、明治政府にも採択され、明治五年、室蘭港 の開設と同時に、幌別郡を通過する、室蘭・札幌間の札幌本道の開設となって表れたのである。
 その後、明治十五年、私達が幌別郡に移住した年開拓使庁は廃止され、札幌県、函館県、 根室県の三県時代を経るが、幌別郡は札幌県に所属されていた。そして明治十九年、札幌 に北海道庁が設置されて、今日に到っている訳で我国北方圏の中心は、既に札幌に移って いたのである。

 明治五年開設の室蘭港の役割、これは当時誠に高い重要な位置を占めていた。
 北海道の玄関口と云われた、函館港から、北海道の中心となっている札幌までの距離は あまりに遠く、函館・札幌間の物資の移送に困難を生じていたのである。
 また一方、札幌に近い小樽港の開設も物資移送には便利であったが、日本海沿岸で対 ロシアとの国際紛争があることなどの場合を思うと、港の効用は無用に等しいものと考え られ室蘭港への評価が一段と高まっていたのである。
 このような時代的枢勢からみて、継立業は当時、的を射た仕事と云えたのであった。
 最初、私は仕事の範囲を、西は室蘭、東は苫小牧までとし、同時に、弟新吉には、 苫小牧・札幌間の仕事に当らせ、二頭引き、五人乗りの客馬車を準備させた。
 仕事の量も順調で途絶える事もなく、忙しいくらいで輸送力の増加を要望されたが、 資本投資を出来るだけ押える為に暫らく我慢をした。然しその後また札幌から荷馬車用具を 求め一段と輸送力が増強したので、輸送の確実性と信用が相まって利潤も多くなり、明治 二十一年、業をはじめたその秋には、役所からの公的貨物の運送は勿論「人馬車継立駅逓 取締」を命じられ、他の継立業者の監督をする事になったのである。逓送の仕事には地元 のしっかりとした若者を使い、運賃も他より安くして、多くの顧客を得るように務めたのも 成功の原因であった。



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 然し、このような運輸に関する仕事は勿論、生産性と確実性の高い仕事があれば、誰し も開業するのは当然で、競争者が増加してくると、過当競争に勝つ為には、資本力を 再投資して組織力の拡大をはかり、独占的方向に進める必要や、低運賃で競争する必要もあった。
 此のような状況の中で、私が「人馬車継立業」をした目的は、醸造業を行うまでの、 資金獲得のために始めた仕事であったし、二年程にしては思いがけない利潤を得ていた。
 それ以後、継立業に資本力を投資しなかったのは、北海道の主要都市となった、室蘭港の 重要性が増々高く、前記の国際的立場からみて、必らず、札幌と室蘭、または北海道の 主要産業地とを結ぶ、鉄道敷設が考えられるだろう。
 「このような立場から、将来の此の事業の経営に対して、長い眼で考えるのであれば、 継立業に対する新しい方策・考え方が必要でしょう」という事を、木下氏と相談し意見を 伺っていたからである。
 鉄道敷設によって、運輸逓送の形が変るのは当然で、現在のような長距離輸送では、 全く問題にならない。地方の運輸逓送もよいが地域的な事業では限界があるし、特に幌別の 地域ではどうしようもない、室蘭港進出への冒険を考えると、此の辺が適当な潮時では ないだろうか、と考えるようになっていた。



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創 業

 明治二十二年、此のような経過を経て、ある程度の資本力を貯えたので、逓送・継立業 は、弟新吉に委せ、念願の醸造業に取りかかる事になった。
 そのために、小樽から大桶五本を購入し、前記函館時代に知り得た秋田の杜氏を雇い入れ、 来馬の旧家屋を倉庫にして、諸味百石を仕込み、父の経験や自分自身の意見などで愈々 生産に乗り出した。
 この結果は、品質もよく味も上々であったので我々家族親子は手を握り合って、此の 成功を喜び合い、近隣の家々にも配って歩いた。また販路については室蘭での売れゆきも 上々であった。
 翌明治二十三年、本格的事業にとりかかる事になり、当時の字ハマ、本町の現在宅の 地にはじめて間口五間と八間で、約四十坪で狭い製造場であるが、来馬の倉庫と合せて製造。
 明治二十六年、函館より二十五石入り、大桶三十本、米切桶、その他、味噌、醤油製造 のための諸道具を完備。
 明治二十八年には、間口八間、奥行き十五間の醸造場と、石造り倉庫の建築にとりかかった。
 かくして、明治三十年、創業以来約十年にして、総坪数約四百坪の醸造場と、敷坪約 七十坪の二階建居宅、それに若者達の住宅も完成させた。
 また、当時使用していた桶は、秋田から杉材を購入して専門の桶屋をよんで造っていたが、 桶材として、内地で活用されている、クルミの木で桶を造る事を考え、二人の杣夫の他に 木挽・桶屋など十数名の腕達者を雇い、当時は密林であった川上地区から、杣夫に正木の 胡桃を選び出させ、木挽に伐採させて挽かせ、大桶専門の桶屋に大桶を造らせる作業を 行なわせ、四十六石入り大桶を、年間約六十本作らせた。
 明治四十年も近い頃には、倉庫も次第に拡張され、約一万五千坪の土地に、四千六百坪 の醸造設備が完成され、また此の醸造生産のために充分活用されるようになった。
 北海道渡道後の目的、それは、今津の郷を出発する事になった大きな動機ではあるが、 醸造を志すことにより渡道移住が確定し、今にしてその初期の目的が半ば達成され軌道に 乗りだした事に満足感を覚えたのである。
 また、醸造と販売をすすめている間に、酒・麦・米、その他雑貨類の取り扱いと卸し 売り販売をし、函館の人造肥料の特約店、札幌ビール会社の特約店などと多くの特権を得、 特約・卸売り業として、東胆振地区に於ては当家を通さないと各商店では販売ができない ので、この利潤も相当なものであった。
 原料などの購入については、山形・秋田・新潟産の米を利用した。



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 一方、地元産業を盛りあげるためにも、大豆を中心とした農産物の引きとりを他村の 豊・凶作に関係なく、価格を一定にして、地元の全産物を引きとり、地元生産の向上と利潤 をうるおし、製麦については、我が出生の地、讃岐からも移入してこれを道内各地に紹介し販売した。
 明治四十年代には、手持ちの常時保有量、醤油の諸味八千石、味噌の仕込み八百石、 大豆は常に四百石は保有していた。
 一方、土地所有は、本村の一等地のみでも、七十五町歩、牧場も約二百町歩、弟新吉 には登別に数十町を与え、勇払郡厚真村に約三十町歩の水田をもち、作人支払い分を 引いて玄米約二百俵余の生産をあげていた。
 支店については、登別村に、弟新吉の家屋を建て、支店を設け、丸亀第一支店として、 分家させた。「丸亀」とは、四国讃岐の我が藩主居城のあった「丸亀」の名を、我が家の 屋号としていたが〇の中に亀の字を入れたものであり、商標として使用していた。
 苫小牧には、弟義則を分家させ、丸亀第二支店とし、その他、室蘭・社台・沙流太 (富川)などに、五支店を設け広く営業をすすめていった。
 醸造した製品は、支店は勿論、道内要地の小売店に置き、製品の良さは近在に知れ わたり、その需要は次第に増えていった。
 酒の「宮鶴」「富久娘」「いろ娘」や、醤油の「亀甲宮」などは、常に管内では、 壱等賞を受け、道内出品でも、醤油の「亀甲宮」、清酒の「宮鶴」などは同年共に二等を受け るなど、毎年入賞の栄与を得ていた事は、秋田に固定したものの本州から一流の杜氏を 招き、私共をはじめ従業員が共に県命に努力精進した結果からだと思う。
 また、私の製造工場や、屋敷地は、前記、西東氏の屋敷跡で、また、明治十四年、 明治天皇が御駐在になられた由緒ある地でもあった。
 そして、此の地域を中心として発展した、我が家の屋号などから、正式の地名ではない が、北海道幌別郡丸亀村、或は、幌別村丸亀、と呼称され多くの貨物や郵便物も届くようになった。
 此のような中での私の日常生活は、仕事についても、朝は皆より早く四時に起き、その 日の仕事の再計画や確認を行い、卒先して仕事場に於ても指図をし身体を動かした。
 人を使用する立場になった者が先頭にたって指揮をとる事により、従業員も働く事を 見習い、まじめに働くものである。
 私生活に於ても、事業が順調に円滑に伸び、収入も増えたので、衣・食・住に於ても、贅沢 すれば、それも良いのだろうが、人間の欲望にきりがなく、贅沢なものを食べたり、 着用したりという事を我が家に於ても慎しませ「質素と倹約」を旨とさせ、私自身、 寄り合い、会合の多い中での交際にも遊び事は一切行わなかった。
 酒屋でありながら、酒を呑む機会には、他人に美味しく呑ませる事をすすめるのが、自分 が呑んではいけない、勿論絶対に呑まれてはならぬ事を心に固く、酒屋としての利き酒と してだけ、呑む事にして、特に、自己の心の奢りに対しては、厳しく戒めた。



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総代人として

 明治二十七年一月、父は五十六才でまだまだ元気であったが、醸造業等すべての仕事を 私に譲り、私は宮武家の家督を相続することになった。当時二十七歳のことである。
 此の頃は仕事も順調にすすみ一家は次第に栄えてきた途上でもあった。前記のように、 家が栄え、財をなしてくると一般生活の面でも村との関わりあいが多くなりはじめた。
 凶作や洪水などの被災者対策、救済事業、学校や道路の新設、そして修理などの公共的 な仕事から、神社など村の祭りなどについても・・・。
 私はこれらの事に対し個人的に、出来る限りの手をさし伸べ、基金の拠出や寄附行為に 多額の援助をしてきた。永久のわが地と定めた幌別郡内のことである。当然の事であろう。
 然し考えてみると、寄附行為という事だけでは何んらの物事の解決にはならなかったし 個人の名与や顔をよくするという事だけにしか過ぎない。
 村づくりをする為の障害となる基本的問題や条件の解決がなければ何んにもならぬ事 なのである。いろいろな救済活動や基金活動など側面からの私の行為に対して、私に考え させた村政への直接的参加は、このような中から生み出たものであった。
 そして、家督相続の此の年、明治二十七年、私は「幌別村総代人」として村人達からも 宿望され選出されたのである。
 当時の幌別郡は、領内の自然状況に於ても一般的に恵まれている土地でなく、近隣の 伊達や、天然良港をもった室蘭港とは異り、気候不順、特に霧も多く、地形の関係から 集中豪雨もあり乍ら高原台地は乾いている沢を意味し、水不足と火山灰の土壌のため 耕作不適地。そして山岳地域も多く、後の観光資源や工業開発も後日の問題であった。
 一方、期待される平地は、鷲別川に蛇行しながら流れる、ワシベツライパ川は、トーボ シナイ、イワリカナイなどの沢水が合流し、鷲別からトンケシまでの広大な谷地となり、 一部、富岸・上鷲別地区だけが開発されたのみである。幌別では、幌別川・来馬川沿いに 開拓は進んだものの幌別川南西鉄北地区は谷地水が流れ、フレベツ(赤い川)の呼称で 未開の地で、オカシベツ沿いも、ニナルカ台地の南東の低地帯は、刈田神社の前に大きな、 タコ沼と云われた湿地帯がある程の不良地区で、前記紹介の大木弥八郎氏ほどの方が オカシベツに入植したものの、開拓を諦めたのもうなづける事である。
 また、登別では、登別川沿岸の地域、旧市街と云われた地域のみが、適作地で、現登別 駅前、西北一帯も、ポプケナイ・トラシコツ・ルオコツから流れる沢水のため、湿原を なして、フシコペツに流れていた。



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 このような状態なので、まず気候条件に合う農作物を作らねばならず、米作は不適で、 大豆・小豆などの穀類、馬鈴薯、そば、などの他、栗・稗と云ったもの、これでも耕作地 を広げる為には、広大な湿地帯の灌漑が必要で、商品作物への工夫よりも重要であった。
 多く残されたこれらの大湿地帯は、大雨が降ると河川に流れ出し、河川は水で溢れ切 角の耕作地も水びたしになる。特に私が帰幌した、明治二十一年の強風を伴う豪雨は、来馬 川・幌別川の大氾濫となり、来馬橋以西は全て水に埋没し、大川の幌別川がどこを流れて いるのか分らぬ程の大洪水で耕地は勿論、大被害を受けた。
 特に伐採された木材が流されたので、オビラカシの橋梁や来馬川、その他の一本橋も すべて流されるという状況で、此の点、幌別川は大川の為、橋をわたす事は難しく渡船 による交通をしていたので橋の心配はなかったが、非常な不便さであった。
 蛇行している河川は、河川の切りかえが必要であり、湿地帯と河川跡の多くの沼地域は 灌漑と、湿地帯を作る凶作の谷地水の処理、そして樹林の問題など、治水を考えるだけで も大変であった。
 一方、他の産業の漁業は、江戸時代から、幌別場所として生産物の種類は多かったが、 生産量は少く屡々、ムロラン・エトモ場所と合流されたこともある。
 明治になると、場所の請負制から漁場持ち制になり、海岸や川に特定の漁場をもって、 網元が、船頭や船のりを雇い持ち漁場で漁を営んでいた。
 当時の魚類は、鮭・イワシ・カレイ・サメ・メヌキ・カスベや、それに北寄貝、などが 多く獲れていたが、収入金額としては、郡内三村中、鮭の金額が最も多く占め、生産量は 多いがイワシ・サバ・カレイ・サメなどは価格も安く利潤は少なかった。
 時には、ブリ・カツオ・カジキマグロ、など暖流系の魚も獲れ、鯨も岸にのりあがって 海岸をにぎわした事もあるが、結論として太平洋に面した荒海は、時化の時が多く稼働日 数の少ない事が大きな貧しさの理由で、それに漁法の改良や、魚の加工など多くの問題が あった。漁法の改良では、東峰彦作氏による、ホッキ貝漁法の改良があり、彼は千葉県人 であり、後日、弟新吉もランボッケに於て漁場を持ち、当地方における、鱈加工の先駆 を成したが、鷲別河口やランボッケ漁場の改良が強く訴えられていた。
 林業では、森林資源は非常に豊富で、入植当時は海岸近くまで原始の林が伸びていた。 江戸末期には、蝦夷松・椴松など蝦夷の杉と云われた木材も搬出されているが、明治以後 の土地開拓には邪魔者以外になく、私共をはじめ、木材を、ただ切り倒し、朽ちらせ、 燃して処理したものであった。然し、燃料用としての炭焼きは大いに行われ室蘭方面に 出荷されていたし、明治二十五年の北海道炭鉱鉄道の敷設には、栗や楢材が多く搬出され、 幌別川・来馬川・登別川などを利用した川流しの方法によって伐り出しも行われ、一般 的に造材事業は盛んであったが、川流し木材が洪水の時には大量に流出し、河川の流れを 阻害し橋梁を流すという、大きな問題もおこり、また伐採後の植林事業を行うことや、 特に、盗伐、乱伐への防止など、なすべき施策も多くあった。



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 一例をあげても、此のような多くの問題を抱えていた、幌別郡であった。
 前記のように、明治二十七年、私が幌別村総代人となり村政に当ることになったが、 これが村と、私との政治上の関わり合いのはじまった第一歩であり、今日まで幾多の苦難の 中から全力をあげて郷土を開き、その郷土に、骨を埋めようとする覚悟をもって村のため につくしてきたがまた今後、更に郡の発展を期待し新しい郷土をつくりあげていかねば ならぬ、とする私の決意の第一歩であった。
 私が総代人になった当時の幌別郡は、戸長役場の時代で、明治二十一年以来、幌別郡は、 郡内三カ村の他に、室蘭郡の千舞鼈村・輪西村・本輪西村の三村の一部を合併して六カ村 とし、戸長役場が、現在の鷲別神社下方に設置されて、いわゆる、鷲別戸長時代を現出し ていた。これは表面的には最初の戸長は、幌別の片倉家旧家臣、日野愛憙氏がなっていたが、 その後、室蘭郡の石川光親氏、伊達紋鼈(有珠郡)の伊達氏らと、幌別郡内人とは 異る、他郡内人の施策が行われる事に私は反対であった。
 歴史的にも片倉家が幌別郡支配分領の地であり、旧家臣らの尊い入植の地でもある。
 室蘭イタンキ・ペシボッケの山麓から、ピシュンモイワ(楽山)、そして現在の室蘭 工業大学の西方百八十二米山の方へ抜けるのが、幌別郡の統治体系で、イタンキ、ペシボッケ 牧場の開拓など尊い先人の苦労の跡も多い。それに江戸末期、松浦武四郎の三航蝦夷 日誌など、楽山の西方山麓附近にムロランとの境界の杭があった事も記されている。此の ような問題は別にして、行政面でも明確でない事が多くあった。例えば、現在の室蘭市の 一部の、イタンキ・知利別・水元などは、鷲別村に併合されたような形式で、江戸末期・ 及び、片倉家幌別郡支配当時の広い地域支配の様相を呈しているようにみえるが、明治二十年、 現在の中島町を中心とする、室蘭屯田兵村(輪西屯田ともいわれた)の成立に関与し た状態であれば、幌別郡の自主制はなく、室蘭郡の影響力が強いという状況である。
 事実、鷲別戸長時代の資料は「幌別郡村治類典」から欠徐し不明である。それに、鷲別 村に屯田兵村があった、などと云っても現在の室蘭内で、屯田保有地は、鷲別トーボシナ イ・イワリカナイ・そしてトンケシの幌別郡地区にあり、兵役義務年限後、これらの地区 に入植された方も多いが主体は室蘭郡の方にある。
 それに、室蘭港の開港以後、新室蘭から輪西、そして白鳥湾岸の室蘭市の占める重要性 は、前記室蘭屯田兵村の設置は勿論、明治二十三年、室蘭港を、第五海軍区鎮守府の位置 と定められたり、北海道炭鉱鉄道と室蘭との関係、特別輸出港の指定・各官庁の設置など 鷲別戸長役場自体が、室蘭郡の強い行政的影響力から離れる事は難しかった。



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 此のような状況の中で、明治三十一年、戸長役場を幌別村に再度もどすまでの、幌別郡 旧三村への重点施策に非常な苦労をしたものである。
 例えば、農・林・漁業の援助奨励・新開拓地道路の新設・河川の切りかえ工事・灌漑・ 郵便扱い等の昇級陳情・学校の新設など、政治事も上意上達の時代であるから処置のない 事も多いが、特に洪水などの災害発生の対策は緊急を要した。
 明治二十五年、北海道炭鉱鉄道の敷設は、幌別・登別に二停車場を設置したことは郡の 誇りでもあり、鉄道敷設の為の労働者移住・登別駅前フンベ山、及び登別ヘサンケ・ケネウシ 方面から土止め用の、けん置石や停車場施設用石材・幌別川上流からの鉄道敷設用 砂利の採取や、鉄道枕木材の伐り出しなど、郡内の産業に与えた影響や、その後の発展に 寄与した事は大であるが、鉄道敷設の位置が高いため、また鉄橋の不足のため、本流の水は 勿論、谷地水など、郡内山系・台地などから流出した水は、鉄北の低地域一杯に溜り、 さながら濁流が湖の如き景観を示し災害をなお増大させた事は皮肉なことである。
 このような鉄道敷設に関する災害の増大に対して、私達はねばり強く運動し、陳情を くりかえした。例えば、当時、登別停車場がフンベ山近い登別川寄りにあり、幌別駅もオカシベツ 川寄りに位置して設置されていたのを、夫々現在の位置に設ける事ができ、谷地水 の流れる所を集約して川の直線化をはかり、トンケシ川やフレベツ川などの鉄橋の設置を はかったり、長期間にわたったものの、略々、明治末には現状の位置に鉄道施設が改良されたのである。
 また一つには、幌別郡と白老郡との境界に関する問題もあった。
 これは、現在の登別駅前から登別温泉に向うトンネルを過ぎると、ポンアヨロ川が温泉道路に 添って流れ、川の北方に面する地域のほとんどの地名が、後々までポンアヨロの地名 地番であったが、川の変動によって境界が明確でなかったのである。幌別の総代人で あった私は、当時登別村総代人滝本金蔵氏とはかり、ポンアヨロ川が境界でなく、ポンアヨロ川 が上流では北の方向にあるので、上流に通ずる山間を両郡の境界とする事を提唱し、 円満に一時的に解決を得る事ができた。
 このような中にも、郡の発展は日増しに進んできた。登別温泉の開発は、滝本氏に よって、客馬車が走るようになり、カルルス温泉も、日野久橘氏や市田重太郎との共同出資 で温泉場も開かれたが、幌別から札内までの道路補修と札内からペンケネセ(カルルス) までの道路新設・明治三十九年、小田良治氏によって開設された幌別鉱山とそれの附随的 事業など、農・林・漁業・商業・鉱業に関することと、これら産業の発展や郡内の経済に ついて、また交通・通信・運輸などの公共的問題や、治山・治水、そして幌別郡を背負 って立つ重要な若者を育てる学校の設立や施設問題など。



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 国際的には、日清・日露の両戦役を通じて、日本国が進展してきたのと同様に、明治の 幌別郡も著しい進歩を遂げてきた。
 私が、幌別村の総代人に選ばれたのは、明治二十七年、まだ二十七才の若輩であった。 然し、世のため、人のためを思い、精神誠意努力したつもりである。その真心のせいか私 は毎年、村総代人として選ばれ明治期を終え、大正期を迎え、大正八年幌別郡各村戸長 役場の廃止まで幌別村総代人を務めた。そして、その後、昭和三年四月までは二級町村制 施行による議員として、明治・大正・昭和の三代にわたり、一年・一度も缺く事なく、連続 して村政に務めることができたのも、私利・私欲を離れて努力した結果からであろうと 自負している。
 また一方、登別村に分家した、弟の新吉も、明治四十三年より登別村総代人となり、 大正八年戸長役場の廃止まで務めたので、鷲別村をいれた幌別郡三村中、ニ村から村総代人 として行政に参加し、町村制施行後も三期間、私と共に務め、幌別郡発展のため兄・弟で 身を粉にして村のために尽力した事を、我が家の誇りに思っている。
 そして、私が議員を離れた直後は、私の息子三男の忠兵衛が後をつぎ、新吉とともに 村政にたずさわり、弟新吉は、昭和六年急逝するまで、そして以後は忠兵衛が活躍している。
 此のように、私の議員退任後も息子達は、長男哲之助をはじめ、村政に参加し社会的な 事業に奉仕し、夫々が人のため、世のためにつくしている事に満足している。
 次男、勇蔵は、当時白老町で、酒の醸造や販売・菓子業・養魚業など幅広く活躍し、 村議を五期務めた。干場亭次郎氏(石川県人)の息女タスと結婚、干場家のあとをつぎ、 義父退任後村議として、また農業委員や商業協同組合理事なども務めていた。
 三男、忠兵衛は前期の如く、幌別に於てその後も長期に活躍し北海道町村議会議長会 表彰・全国町村議会議長表彰を受けている。(後日談)
 四男、朝雄は白老郡虎杖浜に分家し、私が虎杖浜に寄留中、白老村村議として一期務めた 後を引き受けて、虎杖浜を拠点に商業を経営、村議その他社会面で奉仕している。
 五男、藤一は、漁業や砂利採取業などに携っていたが早逝したのは残念である。生存 していたならば、決断力に富み、進取の気性の強い性格から、大いに社会のために貢献し、 奉仕的仕事もなしたと思う。また、これらの息子達が各産業や公的仕事をする中で、私と 同様、特に郷土の子弟を育てる為に、学校の保護者会や父母の会の中心となり学校教育を 後援し、長い間にわたり若い素晴しい村民達を育てる為の仕事をしている事を よろこばしく思っている。更に、娘の長女マツは、当時伊達第一の雑穀商・雑貨商を網代町で営んで いた三上家の吉太郎と結婚、次女フデは東京で弁護士を営み、後に国会議員として活躍した 浦幌出身の森三樹ニ氏と、三女タキは、大阪商船の創立者の一人、金沢直兵衛の孫、 金沢政之助と結婚し、私の末妹チヨは山地家に嫁してそれぞれの道を歩んでいる。



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むすび

 今や、齢、八十有二才ともなり、八十路の道をかえりみると、
 十五才にして渡道し、幾多の苦しみの中から、自分の志した事業の大凡の基礎をつくり あげるまで、約三十年、此の年月こそは、まさに血の滲み出るような連続であり、荊の道 そのものであった。
 若い者の常として、苦しみに耐えられず、自暴自棄になろうとしたことも度々あり、 より安易な途への誘惑も屢々あったが、その度毎に自分自身を叱り、自己をいましめて 耐え忍んできた。
 今にして思えば、右をみても左をみても、誰一人見知らぬ、しかも熊・狼の棲むという 原始の森に、衣は綻び、食も乏しい惨めな生活によくも耐えてきたと、自分自身をいとしく思うのである。
 然し、今一歩進んで考えてみる時、自分達は出来る限り、我が身の及ぶかぎりの努力は したものの、人の情・世の中の温い心のおかげで、今日の私となることが出来た事を思え ばこそ、自分は世の人々の苦しみ、難儀を傍観出来ない人間になっていた。
 そして、自分の苦しい生活の中から、凶作に苦しむ人々のために、水害で家や財を失った 人々のために、寄附をし救済につとめてきた。
 そのような事で、贈られた感謝状で筐底に蔵されているものだけでも、百余通にもなることであろう。
 児孫のために美田を買わず、とは、先賢の教えであろうが、自分は児孫のために敢て 美田を買いたし、と念願してきた。
 それは子や孫を楽しく暮させようとするためではない。
 徒食させようためでもない。
 世の中への、大きな貢献も奉仕も、実に財力の裏づけがなくては、そのすべを得ない ことを信ずるが故にである。
 国敗れて山河あり、と云えども、敗れた祖国を復興する力は財力にまたねばならぬ。
 我が財の力は、極めて微なれども、いささかの貢献なりともさせねばならぬと思うので ある。
 これが、今生の自分の希望の全てである。
 今や、齢八十有二才ともなり、余名いくばくもない事を知る自分の心臓のたしかなうちに、 八十路の荊茨の道を顧み、懐しさにたえず
     これを録して以て、吾が墓標とする。



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後記

 人間がたどる生成流転の軌跡は、時の経過が宿命的につきそい、人生のドラマを決定的に 演じている
 このようなことは、人間、誰しも同じであるが、また、主演者の画きだす像や、内容にによっても 夫々異にするものがあろう。
 「丈草の記」の著者、宮武藤之助の人生も、はじめは「大地と体力の限界との斗い」であり、後には 「人間の叡智と努力」を傾けて、事業や村政にうち込んだ波乱の人生そのものであった。
 私は、祖父藤之助と同居していたので、草創期以来の登別の開拓について、一般的な産業の発展や部落史 的な状況、それに人間としての生き方などについても、折々聞く機会に恵まれていたものの、当時は全く 浅薄な聞きざまであった事に悔悟の念を禁じ得ないでいる状況である。
 その中で、人生論について語ってくれた次のようなことを思いだす。
 よく「他人の飯を食って来い」という言葉もあるが、それは他人のメシには「トゲ」があるから、他人のメシ で苦労すれば世の中のことも分ってくると人々は云っている。勿論苦しみに対する我慢は必要だ。然し、ただ 苦労をすれば人間ができる。立派になる、という訳でもない。艱難は人間を玉のように鍛えるというが、その人 間を駄目にすることもある。
 だから最も大切な事は、人生のはじめに於て、人間将来における目的をはっきり持つこと。目的に対する 深い思慮による計画をしっかりたてる事、そして後は実行だから、努力、そして努力、とにかく忍耐力と生きる 強い闘志をもたないと駄目だ。当り前の事をやっていて、人の上に立とうなどとはとんでもない事だ。
 また、渋柿も甘柿になる、という言葉もあるが、自分の好きな、自分と同じ型の人間ばかり集めても、不向き な事に穴があき結果的には損になる。社会に出ても人間に捨て人はいないし、物の利用を考えたら捨て物がない、 相手をみる時は、相手の短所より長所をよくみるものだという事も語ってくれた事を思い出す。
 晩酌は毎夕食一合徳利に一本だけ、それ以上呑んだ事を見た事はない。
 機嫌の良い時や祝宴の時には開拓論や人生論を語り、必らず開拓時代の「北海全道歌」を、手拍子と身振り 宜しく聞かせてくれる。
 
   北海全道歌
 北海全道見渡せば 陸はさながら銀世界
 海は渺茫波高く 暁天錨地のうちに澄む
 人畜次第に繁殖し 植産拓地のもと拓け
 函館 札幌 小樽まで 文学教育ゆきとどき
 知識も次第に進歩して 山野に杣打つ樵でも
 海に綱引く漁夫までも 待ちに待ったる代議制
 既に拓けし甲斐もなく 民の参政権利なく
 内地の制度も制定かぬる 昔に等しき別世界
   実に扼腕 糠慨 悲憤
 そのもと如何にと問うたれば 開拓いたせし道民の
 生活程度の足らぬ故 琉球蕃地と形を同す
 早く我等の名をあげて 北門鎖鑰固くなし
 與論の旗を翻し 抗議の鋒先研ぎすまし
 東の空にと押し出だし 参百議員の數に入り
 各々腕によりかけて 滔滔縣河の辨振い
 社会に名誉を轟かし 外人雑居の暁に
 赤鬚野郎やチャンチャンに 侮り受けぬ用心を
 轉ばぬ先の杖ついて 勉強するが国の爲
  錦袍 錦袍 錦袍 愉快 愉快
 
 聞き覚えた文なので、誤りがあるかも知れない。
 然し、恐らくは「精根の限りをつくして生きぬいた・・・」と述べてある祖父の 開拓時代の意気ごみや、人生への努力の跡が実際の、祖父藤之助の生涯の中に、はっきりと 達成された事を強く感じるものである。
 結果的に北海道の開拓は、歴史的経過と、大きな事象の中では、中央政権と大資本力 の投資によって発展したものであったことも事実であろう。
 然し、移住した大勢の人々の故郷は、当時藩政時代という長い、身動きならぬ固定化 された社会構造の中にあったとはいえ、その地に芽生えた長い歴史的風土、それ ぞれの生活の跡があり、況んや先代の人々が骨を埋めた故郷の地であれば、どのような心 でどんな感慨に浸りながら故郷を離れたかは察するに余りあるものがある。
 そして渡道後は人間ぎりぎりの生活に追い込まれながら厳しい冬を迎え、中には挫折 し、或は倒れ朽ち果て、または逃れ去った多くの人々がいたことを・・・ 北海道ならでは 考えられぬことである。
 「丈草の記」にある如く、我が先代達も、ただひたすらに千古不易の登別、及び近隣の地に 青春をぶつけ、開拓し、事業をなし、むらづくりに生涯を過ごし、八十路のみちをたどり 乍らも、こよなく第二の故郷登別を愛し続け、登別の地に骨を埋めたのであった。
 先代の一生を思い、その労苦を偲ぶ時、これは人間の偉大な「朔北の地に生きたドラマ」 であり、また、我々子孫の者にとっても、今後の生きざまの座標ともなり、大きく我々の上に のしかかってくるものである。
 老年にいたり、柔和な顔の中にも広い額にある太いしわは、今まで生きてきた姿そのもの をあらわし、鋭い叡智な感覚と実行力、そして深い思考力を物語るものとして 私達の胸から忘れ去ることは出来ないであろう。
 
 
 昭和五十六年五月十七日発行
 丈草の記
 (北海道渡道百年を記念して)
  著者 宮武藤之助
 発行者 宮武家
 編集責任者 宮武紳一
 



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