奥州白石片倉家中流 佐野家家誌稿
-佐野家家系図-
進退四貫七百三拾六文 佐野甚内定路
平姓
佐野源蔵 甚内
常路----
家紋 結厂金 輪内軍配 同剣片喰
旗 黒地白半月
天正年中、傑山様御代に御与力にまかり出で、拾六歳の初陣観音堂御陣以来所々
の御合戦ごとに欠くることなく御供つかまつり軍功これあり。大坂両度の御陣へも
御不断鉄砲組御相預かり一法様に御供つかまつり候。その後白井五右衛門と申す者
死去つかまつり、右家督幼少につき後見の為嫡子源蔵に家督相譲り白井の苗跡
仰せられ白井丹波と名改めつかまつり候。白井家にて子供もござ候よしのところのち
佐野家へ帰参死去つかまつり候。御知行五貫文頂戴つかまつり候ところ、右御墨
印所持仕らず候。
源蔵 甚内
----広 路----
母 不祥
妻 関谷新左衛門重次女 子なしにして死ぬ
大阪夏の御陣のみぎり、拾七歳にて一法様に御供つかまつり、五月六日
道明寺口に相働き首打ちとり指し上げ申し候。御知行四貫七百三拾六文のところ、
寛永廿一年八月十五日御日附を以つて御墨印下し置かれ候。
源蔵 甚内
----安 路----
母
女 高橋源左衛門宣実妻
始盛路 源蔵 甚内
----路 礼----
母 渋谷与右衛門時信女
女 小嶋藤左衛門朝房妻
母 加茂兵左衛門女
源蔵 甚内 仲太左衛門
----路 致----
母 松前辰之助様御家中中村上与左衛門女
方明 又四郎
母 紺野主計貞利女
加茂弥五郎養子
玉之丞 甚内 仲太左衛門
----富 路----
母 大河内仲左衛門貞次女
先妻 渡部文左衛門道弘女
某 早世
母 同上
女 丹野源八正憲妻
母 同上
広 伴重一郎
母 同上
田制用太夫道直婿養子
源蔵
----路 安----
母 小見平治郎安次女
女 早世
母 同上
某 早世
母 同上
女 早世
母 同上
女 早世
母 同上
女 佐藤治武衛門直卿妻
母 同上
路弘 十郎衛
母 同上
長谷川弥五郎方正養子
----路 清 内蔵太----
母 佐藤束信清女
祖父富路承祖
内蔵太 甚内
----路 清----
実は路安の一男
源蔵 甚内
----豊 治----
母 角田宗吽院女
源蔵 甚内
----定 路----
母 加藤直路武延女
女 鈴木源兵衛安直妻、一子あり離別後永谷宇殿守義妻
母 制野豪左衛門高蔭女
女 早世
母 伊藤所左衛門頼之女(与勢)
----喜 路 源蔵----
母 同上
某 熊太 飯田家養子 後 飯田慤
母 同上
女(さだ)茂泉栄太郎妻
母 同上
----徳 治----
母 片倉平馬女(シマ)
フミ 佐藤文三妻
母 同上
安子
母 同上
栄治
母 同上
一 小原家養子
母 同上
留 西尾次郎妻 後に瀬戸褜寿郎妻
母 同上
八郎
母 同上
キワ 喜多見豊妻
母 同上
十郎 佐藤文三養子
母 同上
イチ 早世
母 藤江岩太郎女(ツ子)
ワクリ 梅田亀吉妻
母 同上
督
母 同上
弘
母 同上
ミツ 佐藤時彦妻 後に押杵清妻
母 同上
よし
母 同上
カツ 武智忠夫妻
母 同上
トヨ
母 同上
徳三
母 同上
徳四郎
母 同上
徳五郎
母 同上
-系譜と佐野家系図について-
片倉家には全藩士の系図を集めた系譜書と呼ぶものがある。
その記載に従って若干よみやすいように手を加えたのが右にあげた系図である。
佐野家の関係部分は、十代佐野甚内定路(幌別に墓のある佐野甚内である。)
が提出した書きつけをもとにして作られたものである。冒頭に佐野甚内定路
とあるのはそれを示すものである。この提出の時期は、一般に弘化年間
(一八四四~一八四八)といわれているが、嘉永元年(一八四八)生まれの
熊太が記載され、安政三年生まれのさだが記載されていないことから嘉永から
安政の初めにかけてであると考えてよいと思う
佐野家の系図・文書等がすべて鳥有に帰してしまっている今日、この系譜書
によって歴代がはっきりしたわけである。
各藩主がすべてすべて家臣の系図などを残しているわけではなく、これは
珍しく奇特な例である。片倉家の資料保存の熱意と努力に敬意と感謝を
表したい。
なお、系譜書には初代常路から十一代喜路の代(幌別に墓のある源蔵である。)
までが記載されているが(ただし妹さだは記載されていないので補った。)
二代延長して、その孫の代までを書き加えた。