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奥州白石片倉家中流 佐野家家誌稿

-佐野家家系図-

進退四貫七百三拾六文   佐野甚内定路
平姓
佐野源蔵 甚内
常路----
家紋 結厂金 輪内軍配 同剣片喰
旗 黒地白半月
天正年中、傑山様御代に御与力にまかり出で、拾六歳の初陣観音堂御陣以来所々 の御合戦ごとに欠くることなく御供つかまつり軍功これあり。大坂両度の御陣へも 御不断鉄砲組御相預かり一法様に御供つかまつり候。その後白井五右衛門と申す者 死去つかまつり、右家督幼少につき後見の為嫡子源蔵に家督相譲り白井の苗跡 仰せられ白井丹波と名改めつかまつり候。白井家にて子供もござ候よしのところのち 佐野家へ帰参死去つかまつり候。御知行五貫文頂戴つかまつり候ところ、右御墨 印所持仕らず候。

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源蔵 甚内
----広 路----
母 不祥
妻 関谷新左衛門重次女 子なしにして死ぬ
大阪夏の御陣のみぎり、拾七歳にて一法様に御供つかまつり、五月六日 道明寺口に相働き首打ちとり指し上げ申し候。御知行四貫七百三拾六文のところ、 寛永廿一年八月十五日御日附を以つて御墨印下し置かれ候。

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源蔵 甚内
----安 路----

女 高橋源左衛門宣実妻

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始盛路 源蔵 甚内
----路 礼----
母 渋谷与右衛門時信女
女 小嶋藤左衛門朝房妻
母 加茂兵左衛門女

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源蔵 甚内 仲太左衛門
----路 致----
母 松前辰之助様御家中中村上与左衛門女
方明 又四郎
母 紺野主計貞利女
加茂弥五郎養子

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玉之丞 甚内 仲太左衛門
----富 路----
母 大河内仲左衛門貞次女
先妻 渡部文左衛門道弘女
某 早世
母 同上
女 丹野源八正憲妻
母 同上
広 伴重一郎
母 同上
田制用太夫道直婿養子

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源蔵
----路 安----
母 小見平治郎安次女
女 早世
母 同上
某 早世
母 同上
女 早世
母 同上
女 早世
母 同上
女 佐藤治武衛門直卿妻
母 同上
路弘 十郎衛
母 同上

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長谷川弥五郎方正養子
----路 清  内蔵太----
母 佐藤束信清女
祖父富路承祖

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内蔵太 甚内
----路 清----
実は路安の一男

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源蔵 甚内
----豊 治----
母 角田宗吽院女

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源蔵 甚内
----定 路----
母 加藤直路武延女
女 鈴木源兵衛安直妻、一子あり離別後永谷宇殿守義妻
母 制野豪左衛門高蔭女

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女 早世
母 伊藤所左衛門頼之女(与勢)
----喜 路  源蔵----
母 同上
某 熊太 飯田家養子 後 飯田慤
母 同上
女(さだ)茂泉栄太郎妻
母 同上

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----徳 治----
母 片倉平馬女(シマ)
フミ 佐藤文三妻
母 同上
安子
母 同上
栄治
母 同上
一 小原家養子
母 同上
留 西尾次郎妻 後に瀬戸褜寿郎妻
母 同上
八郎
母 同上
キワ 喜多見豊妻
母 同上
十郎 佐藤文三養子
母 同上

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イチ 早世
母 藤江岩太郎女(ツ子)
ワクリ 梅田亀吉妻
母 同上

母 同上

母 同上
ミツ 佐藤時彦妻 後に押杵清妻
母 同上
よし
母 同上
カツ 武智忠夫妻
母 同上
トヨ
母 同上
徳三
母 同上
徳四郎
母 同上
徳五郎
母 同上

-系譜と佐野家系図について-

片倉家には全藩士の系図を集めた系譜書と呼ぶものがある。 その記載に従って若干よみやすいように手を加えたのが右にあげた系図である。
佐野家の関係部分は、十代佐野甚内定路(幌別に墓のある佐野甚内である。) が提出した書きつけをもとにして作られたものである。冒頭に佐野甚内定路 とあるのはそれを示すものである。この提出の時期は、一般に弘化年間 (一八四四~一八四八)といわれているが、嘉永元年(一八四八)生まれの 熊太が記載され、安政三年生まれのさだが記載されていないことから嘉永から 安政の初めにかけてであると考えてよいと思う
佐野家の系図・文書等がすべて鳥有に帰してしまっている今日、この系譜書 によって歴代がはっきりしたわけである。
各藩主がすべてすべて家臣の系図などを残しているわけではなく、これは 珍しく奇特な例である。片倉家の資料保存の熱意と努力に敬意と感謝を 表したい。
なお、系譜書には初代常路から十一代喜路の代(幌別に墓のある源蔵である。) までが記載されているが(ただし妹さだは記載されていないので補った。) 二代延長して、その孫の代までを書き加えた。



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武功記            佐野甚内

一、景綱様御代曽祖父佐野源蔵こと、景綱様御手にて、大町清九郎・片平 藤太郎、佐野源蔵三人はかなえの三足のごときものと申しとなへ候。たびたび 高名つかまつり候うち、なかんづく、観音堂・摺上・大里御合戦の時、勝れたる 働き仕り候。何の御合戦にござ候や、御旗先にて一番首捕りさしあげ申し候。 またまた、何の御城ぜめのときにござ候や、追い行き返し行き数度の働き 仕り候に敵に小旗を取られ申し候を城内まで追い入り、終に小旗を取り返し申し 候。また何の御合戦にござ候や城内より突きて出て申し候を大町清九郎・片平 藤太郎、佐野源蔵本通りを追い入れ申し候ところ敵来り城の門を立て申し候 ゆゑ引き返し申し候につき、片平藤太郎二人のうち壱人跡に引き申さずとあらそい 申し候ところ、また、両人の小旗持ちともに跡先を辞退申しおくれ仕り候うち藤太郎 小旗持ち櫓より鉄砲にて打ち倒され申し候。この死骸を右藤太郎・源蔵両人にて引き揚げ 申し候。源蔵こと拾六歳の初陣よりいずれの御陣にもはずれ申さず候。しかるところの役人は 自分の働き無用の由堅く仰せらるるにつき候ゆゑ存じのまま首数取り申さずと つねずねはなすを承り伝え候。大坂前後の御陣も御不断鉄砲組御頭になし下され 候にて御仕り候。右源蔵名改め仕り甚内と申し候。それ以後白井五右衛門と申す 者死去仕り佐野甚内白井之苗跡仰せ付けられ白井丹波と改名仕り候。甚内跡式には嫡子 源蔵仰せつけられ甚内あと名改め仕り候。右段はいづれも申し伝え候。

一、祖父佐野源蔵こと大阪御陣の時十七歳にて御供仕り五月六日約場にて甚内源蔵 父子ことばをかわし源蔵敵を討ち倒し首捕り申し候。右源蔵以後甚内と改名仕り候。 これにより甚内も逸山様より御武頭仰せつけられ候。以上。

武功記は片倉家に写本として残っている。原本は元禄時代の前後、あまりはなれない時期 に成立したものであろう。片倉代々記の資料となったものと聞いたような記憶がある。
譜代の家臣からその先祖の武功の伝承の提出を求めて編集したものである。佐野家の 場合、その提出者は四代甚内路礼である。



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系図にあらわれる人物について

(1)初代甚内常路について
 系譜書および武功記の記事に詳しい。三十歳で武頭に挙げられているのは、 人物のたしかさによるものであろう。一時白井五右衛門の跡をついだのはどの ような事情によるものであろうか。白井家が特別な家柄でないと考えられるだけに 不審が存するのである。
 傑山様=初代片倉小十郎景綱。一法様=二代片倉小十郎重長。逸山様=三代 片倉小十郎景長。
(2)二代甚内広路について
 系譜書および武功記の記事に詳しい。最初の妻は関谷新左衛門重次女。関谷新左衛門は 父常路と同じく武頭。片倉代々記によれば福島県須賀川の人らし。子を生んだ妻は だれであるかわからない。
(3)三代甚内安路について
 この人物の事跡は全くわからない。父広路六十二歳のおくれること十六年で死んで いるところから考えて、四十代後半から五十前半で死んだと思われる。実母より 四年はやく死んでいる。妻は渋谷与右衛門時信女と加茂兵左衛門女。渋谷家は 家中に数家ありいずれも定められぬ。加茂家は次代に出る加茂弥五郎も同系で あろうが、通称のみを記してあるのは、家格が低いからであろう。妹の嫁ぎ先の 高橋家もよくわからない。
(4)四代甚内路礼について
 歴代の中で最も出色の人物であると思われる。武頭さらに出入司であった。 種々の普請工事に関係していて、その名を記録にとどめる。戒名に院号をもつのは この人物だけである。武功記の提出者である。妻は松前家の家来村上与左衛門女。 松前家は北海道松前家の分家で、片倉家と血縁の深い家である。後妻の実家紺野家は 知行五貫弐百五文よい家柄である。妹の嫁ぎ先小嶋家は一家。当時は本沢家につづいてしばしば 記録にあらわれる。
(5)五代甚内路致について
 元禄十二年五月二十六日(一六九九)、片倉景明具足着初めに加子役を勤め ている外は記録にない。父路礼の威光による登用であったのだろう。妻は 大河内仲左衛門貞次女、大河内家はしばしば家老をだしている名家である。貞次も 家老であった。
(6)六代甚内富路について
この人物の事跡も記録にない。妻の父渡部文左衛門道弘、小見平治郎安次ともに判然としない。 妹の嫁ぎ先丹野家は武頭、弟の嗣いだ田制家は後の記録ではあるが二貫五百文、 奥老である。
(7)七代源蔵路安について
 この人物の事跡も記録にあらわれない。父より六年早い宝暦十三年十二月二十八日 (一七六三)に死んでいる。若死であったのだろう。家督をとらない前に死んだらしく 子の路清が父富路のあとを嗣いでいる。系図に「祖父富路承祖」とあるのはそれを示す。 妻の実家佐藤束家はよくわからない。妹の嫁ぎ先佐藤治武右衛門家は家老家、 その流れに札幌白石移住の中心人物となった佐藤孝郷がいる。弟路弘が嗣いだ長谷川家は 壱貫九百文村扱いとあるそれであろうか。

(8)八代甚内路清について
 宝暦十年(一八六〇)生まれ。宝暦十三年(一七六三)四歳の時父の死にあう。明和六年 (一七六九)十歳のとき家長であった祖父富路の死ののち、家督をついだのであろう。 その後三年祖母を喪い、四十歳、その死の前年に母の死を送っている。妻は角田の 宗吽院女、宗吽院は今日も続いている修験場の道場である。
(9)九代甚内豊路について
寛政七年(一七五九)生まれ、父路清は三十五歳。享和元年(一八〇一)、七歳のとき父の 死にあう。その前年に祖母の死を送っている。兄弟がなかったようであるから母とふたりのさびしい 生活であったろう。文化十一年(一八一一)嗣子定路が生まれている。二十歳のときの子である。 その母加藤直路武延女が約一月後に死亡している。加藤家は脇番頭であったようだ。後妻は制野豪 左衛門高蔭女、制野家も脇番頭か、文政十一年(一八二八)正月七日没。行年三十四歳、 嗣子定路十五歳であった。
 家の流れにもある種の周期があるのであろうか、七代路安、八代路清、九代豊路とつづいて 短命である。十代甚内、十一代源蔵、十二代徳治、十三代督とみな七十歳を超える長寿を 保ったのとくらべると、きわだった対照を感じるのである。
(10)十代甚内定路について
文化十一年十月十五日生まれ。父豊路二十歳、母加藤直路武延女二十一歳、その母親は十一月十九日 に死亡している。産後が悪かったのであろうか。父豊路の後添いは制野豪左衛門高蔭女。 まもなく再婚したのであろう。妹がひとり生まれている。文政十一年正月七日、十五歳父豊路の 死にあう。その後継母に仕えること三十五年であった。明治元年一月十一日五十五歳で 二十四歳になった嫡男源蔵に家督を譲り隠居した。明治三年六月一家とともに北海道 幌別の地に移り住んだ。明治二十三年十一月二十三日没。墓は幌別の佐野家墓地内にあり、前年に 死んだ妻ヨセと合葬されている。
 墓標は
   佐野甚内
   伊藤与勢  之墓
とあり側面にはそれぞれ二行で「明治二十三年十一月廿三日、享年七十七歳」 「明治二十二年五月二十八日享年七十五歳」と記す。「伊藤与勢」とあるのは結婚しても 実家の姓を名乗る中国の習慣によったのであろう。漢学を学んだものに例の多いやり方である。 また戸籍所蔵の生年月日から推して享年は七十四歳のはずである。どこに誤りがあるのであろうか
 甚内定路、旧幕時代は筆頭武頭として不断組八番組を率い、かたわら具足役であった。
 性篤実で温良な人物であったという。また、学問に秀れていたとも。土地に古い人々 間には佐野家は片倉家の学問の師として幌別に移住してきたといういい伝えがある。
 妻は伊藤所左衛門頼之の長女ヨセ、伊藤氏は伊達家からの片倉家付家老。嗣子源蔵 の上に一男一女があったがともに早世、ただし男子は佐野家系図にはあらわれない。源蔵の 下に男幼名熊太、のち飯田家を嗣ぎ、飯田懃(まこと) 白石にあって漢学の私塾をひらき また各種の学校の教師として人々の敬慕をあつめたという。嘉永元年(一八四八)生まれ、 大正三年九月八日(一九一四)没、行年六十七歳。墓は傑山寺にある。
 女さだ、伊達藩士茂泉栄次郎妻、安政三年(一八五六)生まれと考えられるから、 佐野家北海道移住の明治三年(一八七〇)には、十五歳すでに結婚していたのであろうか。 夫栄次郎は安政元年(一八五四)生まれ、即ち、二歳年長である。賢弥・源次郎・栄の三子があり、 栄はなお存命であるという。賢弥は鴻堂と号した書家で、その未亡人きよのとその孫宏樹が 柴田郡大河原町に住む。源次郎の子格(タダシ)は、白石市で時計店を営んでいる。
 源蔵の四男八郎が明治三十八年(一九〇四)に戦死した時建てた墓の銘文は撰文飯田懃書茂泉 鴻堂である。
 異腹の妹は初め鈴木源兵衛安直妻一子であり、離別後、永谷宇殿守義(長矢守善ともつくる) に再嫁している。永谷氏は番頭、鈴木氏は脇番頭であった。そのあとは「永谷さんは釧路辺の大きな 町の町長、鈴木氏は先代が長年北海中学で漢文を教え、当代は兄弟で北大医学部出の医博である」 と片倉さんのおはなしである。
(11)十一代源蔵喜路について
 弘化二年三月十八日(一八四五)生まれ、父甚内定路三十二歳、母ヨセ三十歳 であった。元治元年六月十日、一家片倉平馬女シマを娶った。白石の夏の暑さは大層なものであるが、厚い さかりの婚礼であったのだ。源蔵二十歳の中小姓、シマは十九歳であった。明治元年一月十一日二十四歳で 父甚内定路の隠居によって家督をついだ。明治三年六月、片倉家中の他の十八家とともに幌別に移住した。移住第一陣である。 移住に先立って明治三年五月に制定された幌別開拓役所の組織では監察係に任命されている。最初に入植した地は蘭法華であると 伝えているが、まもなく来馬の地、今の星野さんのあたりに移ったらしい。明治七・八年ころには馬の払下げを受け農事につかい、 また養蚕も営んだ。明治十五年には幌別村総代に選ばれている。三十八歳のときである。翌十六年(一八八〇)には戸長役場の畢生 (書記であろうか)。俸給五円である。戸長本沢直養俸給十円、小使斉藤秀三郎俸給三円五十銭、以上が戸長役場の全職員である。 このころのことであろうか、土着していた人々の名前に漢字あてることを全部した。入植当時世話になった恩義に感じ、慎重に好字を選んで あてたという。隠居していた甚内は源蔵よりも学問があったと伝えられているが、しばしば相談をうけ助言していたという。源蔵に学問を 授けられたとし、それを徳とした人が古くは多くいたという。佐野家に学問があったのはこの代までで以後には伝わっていない。明治二十年代 の初期には来馬川で鮭の孵化事業を行ったという。明治二十二年母を翌二十三年に父を喪った。望郷の念しきりであったというのはこのころのことであろうか。 「百円あったら帰りたい」としばしば語っていたという。ただし、百円という額はあるいはききちがいかもしれぬ。ともかく生活のメドが立つなら かえりたいと強く思っていたのは事実であろう。明治四十三年ニ月十八日(一九一〇)六十六歳で家督を四十六歳になった徳治に譲り隠居した。 そのとき来馬から本町の千光寺裏の隠居所におりてきたのであろうか。この隠居所は虎杖浜で漁場をひらき産をなした次男栄治が建てたという。 明治三十七年に戦死した四男八郎の遺族扶助料が年額五百円とある。身長五尺をわずかに出る程度の短軀ながら槍の達人であったという。 碁盤などの上に手をおき相手が小柄でそれをうつ、うつ瞬間に手を引くという一種の武芸のようなものが行われていたというが、謀られてそれで怪我 をしたといいっ右手が不自由であったという。食事なども箸を使わず匙でしていたという。墓参の時などは帯刀する習慣があったらしくその時の姿などは 実に堂々としていたという。隠居所に毎日郵送されてくる新聞をよみに行くのが楽しみであったと孫である私の亡き父督はいっていた。 新聞など読む人の少なかった時代のことである。このころのことであろうか、自製のカルタを孫たちに取らせて楽しんでいたという。もちろんそれは現在 残っていない。その中の一つのことばが伝っている。そのところで、「ヰナカニヰキテハシュッセデキナイ」というものである。
 旧幕時代ならばこんなことを考える人も少なかったと思うが、明治の立身出世思想が、かれをも動かしていたこと、さらには旧藩士で、東京に出たり、 白石に残ったり、もどったりした人の中にははなばなしい活躍をしていた人もあったそうであるから、それらの人々に対する羨望の念が、本人は意識しなくともあるいはあったかもしれぬ。
 大正三年六月九日(一九一四)没。行年七十歳。墓は佐野家墓地からやや上手に妻シマのものと並んである。三思と号し俳諧をよくした。本沢家へしばしば句稿を往来する使いに行った とその孫たちは言う。辞世は「吹く風に身をばまかせて散るもみじ」である。
 妻シマは片倉平馬の長女、はやく父を失っていたらしい。家格が上である家から来たということでそれなりの矜持もあったらしい。 端然とした挙止が印象的であったという。「おばんちゃん」と呼ばれていたと。私の祖母徳治妻は晩年「ばばちゃん」とよばれていた。時代のちがいなのであろうか。 あつかいのちがいなのであろうか。夫におくれること七年、大正十年六月二十七日没。辞世「いまはとてかえる山路やほととぎす」。これは源蔵のものより はできがよいように私には思える。
源蔵・シマの間に五男四女あり、三男一は小原家養子、長子ではなくて一と名付けたのは出生前より養子とする約束のもとでの命名であったろうか。四男八郎は明治三十七年 九月十八日旅順港外で戦死。五男十郎は姉夫婦の養子となり佐藤家に入家。その妻しくは大石倫治の女、即ち環境庁長官大石武一の姉である。 アメリカに渡り商業に従事。昭和三十一年十ニ月五日かの地で客死。
(12)十二代徳治について
 慶應元年八月十二日(一八六五)生まれ、父源蔵二十一歳、母シマ二十歳、結婚の翌年生まれた子という ことになる。北海道に移住した明治三年(一八七〇)は六歳のとき。明治二十二年三月十二日(一八八九)、淡路島 からの移民である藤江岩太郎ニ女ツ子を妻として入籍している。徳治二十五歳、ツ子十八歳である。同年六月三日に長女イチが 生まれているから、実際の結婚はそれ以前であったろう。祖母ヨセを五月二十八日に喪い、六月三日に長女イチ誕生、あわただしい 一週間であった。祖父甚内は翌二十三年まで生きているから、曾孫を抱く日もあったはずである。佐野家の歴代で曾孫をだいたことのあるのがはっきり しているのはこの人だけである。明治四十三年二月十八日父源蔵隠居のあとを承けて家督をついだ。四十六歳のときである。父源蔵六十六歳。 この継承は遅すぎる感を与えるが、何か事情があったのだろうか。幼児病弱で、翌年のころは一日働くと二日寝こむような状態であったというが、 妻帯後は徐々に強壮になったという。りんご・なし・ぶどうなど果樹を多く植栽したという。幌別だけでなくあたり一帯に桐の栽培が流行した時があって、 その苗木の育成に名人芸を発揮して、近辺で植えられた桐の多くは徳治の苗木によったという。
室蘭から幌別に至る道は今日では坦々とした大道であるが、明治のころは海岸よりを行く難路であった。米をはじめ食品その他の物資が室蘭に荷揚げされるのを、 運んでくるのが大変であった。馬を飼っていたのでそれらの運搬もおした。米の場合でいえば米価のニパーセントくらいがその運賃であったという。 ひどい難路で随行した年少のものが、「道がよかったら楽なのに」と言ったのに対して「道が悪いから仕事になるんだ」と答えたという。
私は父をはじめ、その兄弟との問答でしばしばこの話しに類似した考え方を感じとった。佐野家の人々の物の考え方なのであろうか。
 世帯をもった時は入植後二十年に満たない時で弟妹も多く一家の生活は楽でなかった。その窮状を見かねて働き者のツ子を家中の人が口をきいて 徳治と結婚させたとも聞いた。徳治は私の七歳の時まで生きた。温厚で寡黙、長者の風格があった。なつかしい思いわくことしきりである。しばしば訪ねて行き、 いつも自家製の胡瓜の粕漬をご馳走になった。話した内容は覚えていないが、むかいあって座っていたことを記憶している。
 篤志家で弟や子女が小学校に奉職していたこともあって、幌別小学校にはその寄贈になるオルガンや衝立が置いてあった。 町のまとめ役で、あげられて、部落総代や区長をつとめた。年輩の人は白足袋・羽織袴姿で静かに歩を運んでいた姿を記憶しているという。
釣を好み、季節には山女魚釣りをよくした。一日にニ三百釣りあげてきたという。素焼きにしてわらであんでつるしておくのである。
 昭和十二年四月四日(一九三七)脳溢血で倒れ数刻の後息をひきとった。行年七十三歳。静かな最後であった。
 妻ツ子、働き者で夫をよく助け、ともに働き一代で一財産を作った。農のかたわら、豆腐を作って売った。分別がたしかで、また人の世話もよくした。 今にその愛を慕う人が血縁のものだけでなく多くいる。昭和八年九月十五日没。行年六十二歳、働きつづけての一生であった。鎮守刈田神社例祭の当日である。
 五男六女があったが、ミツ・カツ・徳三・徳五郎の四人が健在である。
 系図で明らかであるように、佐野家では、代々通称を弱年源蔵、後に甚内、実名の通し字として路を用いている。 通称の甚内は何かいわれがあって使われたもののように思えるが、それを明らかにするてだてをもたない。もどかしいことである。
 歴代のうち直接戦いに参加した経験をもつのは、初代常路、二代広路、十代定路、十一代喜路の四人であるが、特に初代常路が数多い戦闘参加を経験している。この 常路と、定路・喜路が最も波乱に富んだ生涯をおくったように私には思われる。
 特に定路・喜路が明治以降に経験した転変を思うとき、その時々にもったであろう心情に対して、しみじみとした共感の念がわくのである。
 なお系図には十三代までを記載したが、この解説は十二代までにとどめた。虚心に書くことのできる時期の到来を待ちたいと思っている。



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本系図以前の佐野家について

 上記のように佐野家の先祖で現在はっきりしているのは、佐野甚内常路(武功記その他により元亀元年、西暦一五七〇生まれと推定される) が最も古いものである。
 それ以前のことについては記録・口伝もなくまったくわからない。以下私が調査したことを記して参考に供したい。
 (1)平姓佐野氏について(太田亮「姓氏家系大辞典」による。)
 佐野家で最も有力なのは藤原秀郷流のいわゆる藤姓佐野氏で関東の佐野氏はおおむねこの流れに属するか、 あるいはこれに付会する。他に近江を中心とする源姓佐野氏がある。平姓佐野氏では三浦氏の一流に恒武平氏流の佐野氏があるとされているが 詳しいことはわかっていない。
 (2)上野(こうずけ 現群馬県)の佐野氏について(同「姓氏家系大辞典」による。)
 上野国群馬郡に佐野氏があり、人口に膾炙せる謡曲「鉢の木」によって有名である。ただし、最明寺入道廻国のことは実録には見えないが、 「太平記」や「増鏡」にも記事があり多少もとづくことがあったかもしれぬという。私は年少のとき、この「鉢の木」の主人公である佐野源左衛門常世が わが家の先祖であるときかされたことがある。はなした人がどれほどもとづくところがあってはなしたかはしらない。余談であるが その時もわが家はむかしから貧乏に縁のある家と感じたことを覚えている。この「鉢の木」の舞台は群馬県高崎市の南部「佐野の渡り」で現在も佐野という 地名が残っている。
 先年、片倉さんの白石のお宅にうかがった時も、この「鉢の木」の佐野源左衛門常世と佐野源蔵常路が源・常とニ字を同じくすることから、何らかのつながりがあるのではないかと はなされていた。しかし、血縁はなくても、同姓に著名な人物がいる場合それにあやかって命名することは古今例の多いことであるから、軽々しく判断できないことでもある。
 また、北条時頼が出家したのは康元元年(一二五六)で常路が生まれたのは元亀元年(一五七〇)、その間に三百年余の年月がり、世代でいえば十代をこえることになる。
 (3)会津地方の佐野氏について
 会津地方に佐野氏と称するものが多くいたという。地域的にはこれが一番縁が近いと思われる。ただし、その多くは葦名氏に属していたという。葦名氏は長年伊達家と敵対関係にあり、最終的には  天正十七年(一五八九)六月摺上原(すりあげはら)の戦いで伊達家に滅ぼされている。この戦いには佐野源蔵常路も片倉勢の一員として参加してる。  このことは会津の佐野氏と当さの氏とは直接深い関係にないことを示しているように思われる。ただし。保元・平治の乱における源氏、徳川家と豊臣家が対立抗争した時の真田氏のごとく親子・ 兄弟でも敵対関係に立つ例があることも考慮すべきことであろう。
 (4)家紋について
 佐野家の家紋は輪内軍配・輪内剣片喰(わないけんかたばみ)・結厂金(むすびかりがね)の 三種である。
 その内現在最もよく使っている軍配紋は中世関東地方の有力武士団である武蔵七党のうちの児玉党に属する ものの独占的な家紋であるという。即ち、この家紋のものは児玉党と関係があると考えてよいわけである。 これによれば佐野家も児玉党に属していたものと考えられる。児玉党は現埼玉県北部の児玉郡を中心とした地域 にあった武士集団でその分布は群馬県南部に及んでいたという。即ち、「鉢の木」の舞台である群馬県高崎市佐野も その範囲に含まれるわけである。
 また、厂金紋は信州(長野県)出自の家系に多く、剣片喰はその分布その他に特徴的なものは見られないが、 関東甲信越関係では長野県から群馬県にかけて一時有力な家であった村上氏にその使用者が多いという。
 以上のことがらから次のように推測することは必ずしも当をえていないといえないであろう。
 平安末から鎌倉初期にかけて、関東に栄えた平氏の豪族のうちとくに著名なのはいわゆる関東八平氏で、異説 あるが、普通千葉・上総・秩父・三浦・土肥・大庭・梶原・長尾の八氏をいう。いずれも、恒武天皇の曾孫で平姓を賜って 臣籍に降下し、上総介(かずさのすけ)に任ぜられた平高望の五男良文の末であるという。この中のどれかから佐野氏がでたのではないか。 地域的にいえば秩父氏、系譜でわかっているものでは三浦氏の可能性が最も高い。それが年代ははっきりしないが、鎌倉中期から後期には、群馬県南部に居住し地名の 佐野を姓とするようになり、児玉党に属していたのではないか。家紋の軍配紋はそのことを推定する有力な根拠である。後、関東の大半が関東上杉氏 支配するところとなりさらに、十六世紀半ばに小田原北条氏の勢力が南関東の大部分に及ぶようになった。このころ、群馬から長野にかけて 勢力をふるっていた豪族に村上氏があり、武田勢ともしばしば争っている。剣片喰の家紋もあることを考えれば、一時村上氏の配下にあったと考えるべきでえあろう。 この村上氏は結局武田氏に滅ぼされるのであるが、その時山形県置賜(おきたま)郡にあった伊達家の臣片倉家に仕えるようになったのではないか。片倉家を頼って行った理由はわからない。 あるいはもっと以前に東北の地に移住していて、身代の大きくなるに従って家臣を求めていた片倉景綱に臣属することになったとも考えられる。 常路が片倉家に仕えて十余年後の記録にすでに鉄砲隊をあずかる武頭となっているのは、その能力によることはもちろんであるが、その家柄も決して低いものでないことを思わせる。 また、当時鉄砲がようやく使われだした新兵器であることを考えると、片倉家に仕える以前に何かの理由で鉄砲をあつかう特殊な技能に習熟していて、それによって抜擢されたと考えることも あながち無稽なものといえないだろう。
 なお、佐野という氏は日本全国にひろがっているが、山梨に特に多く、さらに、隣接している静岡・埼玉両県にも多いという。



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佐野家の家格と役職について

 片倉家には一家・家老家・着座・一番席・二番席・三番席・士扱い等の家格があった。このうち一家は片倉家と 特別な縁故特に血縁関係のある家で、一家筆頭の本沢家は初代景綱の母の実家、また、矢内家は二代重長の母の実家である。 佐野家十一代源蔵の妻シマも一家である片倉平馬家の出である。
 一家には、他に特別高い家柄のためにその待遇を受ける家がある。例えば、日野家は関が原の戦いののち改易  された最上家の家老で最上家滅亡後片倉家に仕え、一家として待遇されたのである。文久三年白石役人帳によれば 一家は七家、家老家はニ家、着座は九家。家老家、着座は特に勲功があるものや、一家の分家から選ばれたものの ようである。一番席から三番席までは片倉家に仕えはじめた時の前後によって定められた家格で、景綱の最も初期 の家来である佐野家は従って一番席、一家から一番席全部で約四十家、即ち、佐野家は家格も知行髙も片倉家では 上の部であった。
 佐野家当主の役職は代々武頭(ぶがしら)、管見した文書・記録に、おおむね武頭としては最初にあげてあるのは 武頭筆頭としての地位が定まっていたのであろうか。武頭は不断組や足軽を通常五六十ひとくらいひきいる実戦部隊の 隊長。物頭(ものがしら)・足軽大将と称することもある。通常の組織では、この上に徒士(かち)侍ー番士 ーをひきいる番頭があるはずであるが、片倉家では武頭の方が番頭よりも格上であったようだ。
 なお、白石市史昭三収の片倉代々記によれば、四代路礼と考えられる人物が出入司(しゅつにゅうづかさ)であったとよめる記事がる。 出入司は勘定奉行のことであり役方ではあるが、武頭よりは上級職であったらしい。
 通常の藩組織は役方(やくかた)ー政治面を担当ーと、番方(ばんかた)-軍事面を担当ーにわかれており、武頭はもちろん番方である。
 馬印は黒地白半月、三幅、長さ七尺、黒地に白ぬきのややかけた半月。指物は軍配赤短冊、黒い棒に家紋の軍配  をつけたもの。ただし、軍配の地は水色、中の筋は紺、それに赤短冊を下方に付ける。



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佐野家の知行高について

 知行髙は初代常路が五貫文、二代広路以後は代々四貫七百三十六文である。二代以後が少なくなっていることに ついて、片倉さんは家臣の数が多くなったため、みんなが減知されたのではないかとはなしておられた。最近私は このことについて次のように考えることも可能ではないかと思っている。一家として記しておく。系譜書および 武功記によれば、初代甚内常路は隠居後、白井五右衛門という人の死後、その家にはいり、白井丹波と名乗った とある。白井家にて子供もござ候よしのところとあるによれば、白井丹波の子があったということであろうか、結局は 佐野家にもどって死んでいるのである。この白井家の苗跡をついだ時、隠居料として知行の一部をもってゆき、そのまま白井家で できた子供のために残してきたのではないか。大坂冬の陣。夏の陣はそれぞれ慶長十九年(一六一四) 同二十年で、この時常路はまだ佐野家にあり、四十五歳四十六歳で出陣しており、二代広路は十七歳で夏の陣に 初陣である。その後五年を経て広路二十二歳の時に隠居したとしても五十一歳子供のできない年齢ではない。  寛文三年(一六六三)から延宝八年(一六八〇)の間に作成されたと推定されている片倉家中知行録の中に、  佐野甚内
 一、弐百八拾文  本郷  一、九百六拾壱文 郡山  一、五百九拾五文 蔵本  一、二貫九百文  足目
   合 四貫七百三十六文
とある。本郷は白石城下、郡山・蔵本は近年の地名、足目はたしめとよみ、直接お蔵から支給されるものである。 分限帳には知行録の記載につづけて、此米三十九俵三斗二升三合と記してある。一俵は当時のこととして五斗で あろうから、結局二十石弱が年収ということになる。
 東北の諸藩はおおむね地方知行(じかたちぎょう)といって、家臣に土地を分け与える知行形態をとる。この 分け与えられた土地を采地とよぶ。その采地からの税収にあたるものが収入になるのである。即ち、佐野家の場合、 本郷・郡山・蔵本に上記のような年収のある土地があり、その税収にあたるものと、足目によって支給されるもの、 あわせて二十石の年収になるということになる。
 知行の髙は通常石であらわされるが、伊達家がそうであるため、片倉家でも貫髙制を採用していた。貫は石の十倍であると普通いわれているが、それに従えば、佐野家では四十七石余、非常に少ない感じである。そして実収は 二十石弱、これは約十人の主食分しかない。また他の藩では、その役向きに従って役料があるのが普通のようであるが、 片倉家の場合、これの有無ははっきりしていないらしい。知行録には一人扶持として二百文をあてている。 一人扶持で大人ひとりが生活しうるはずであるから、それによれば四貫七百余文では二十三四人が生活しうる知行 髙になる。はっきりしない面が多くあるので軽率な判断はさしひかえなければならないが、仲間・小者をかかえ、 馬の飼育などの必要もあったであろうから楽な生活ではなかったと思われる。ただし片倉家中では三貫文以上 を大身とよんだという。それによれば佐野家もそうであったわけである。
 知行録には寺社若干を含めて二百三十五家が記載されていて、その合計髙は六百八十六貫八百二十九文、 最高は十八貫余、佐野家は三十三番目である。
 なお、片倉家は中期以降は千八百貫、石高に換算すれば一万八千石であるが、実髙は十万石といわれていたという。 その公称一万八千石の三分の一を百姓分、三分の一を片倉家まかないその他、残り三分の一を家臣の知行に あてていたとい。それにしても藩士の総数は、千四百、そのうち士階級三百数十、残りは不断組・足軽であるが、 これは一万八千石にしては異常に多い数字で、伊達家における軍事面の中心であった片倉家にしては、家士の多さ と強さに存在理由があったわけであるが、それだけに家臣個々に対する給付は少なくならざるをえない面もあった と考えられる。そのため多くの藩士の家族は主人を城に送り出してから内職にはげんだといわれている。
 特産の紙布(しふ)織りは、この地方でできる上質の和紙から作った紙糸をよこ糸に、たて糸に絹糸を使った 織物で武士にだけ許される内職であったという。できるだけ出費を少なくするため菜園を屋敷内につくり、自給自足 的な生活をすることはもちろん、知行地を百姓にまかせないで自作によって収入を多くするやりかたをとる家もあったという。
 なお、不断組とは足軽よりやや上級の家士のあつまりで、これに属するものは七八百文から二三百文の知行を受けて いたという。多くは城下ではなく近郊に居住して半農の生活をしていたであろうか。



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佐野家屋敷跡について

 現在地番 白石市調練場十一ー三のあたり。
 慶長七年(一六〇二)十二月二十五日、片倉小十郎景綱が白石城主となり、家臣たちは翌年に、亘理城から 移り住んだらしい。佐野家の屋敷はそれ以来ひきつづき上記の場所にあったという。この場所は白石城厩門の直前で ある。厩門は実際はこの城の大手門であったが、北に向いているため、仙台の方に向かっている門を大手門と いうのをはばかって、厩門と呼んだという。
 古い絵図で仙台青葉城の大手門の直前に片倉家の屋敷があるのを示しているものを見た記憶があるが、この配置 は片倉家が伊達家大手先の将たることを示しているように思われる。同様に片倉家大手先の武者であった佐野家の 屋敷がこの実際は大手門である厩門の直前にあったのだと私は考えたい。
 なお、佐野家の北側、即ち厩門を出て次の家は矢内家、小路をへだてて小嶋家とつづき、また厩門から下る道 をへだてて、向側に本沢家、その北側は小路をへだてて斉藤家があった。これらの家々はすべて、片倉家と特別な 縁故があり、一家とよばれる最高の家格をもった家々であった。佐野家はこれらの家々とくらべるとはるかに低い 家格の家であるが、屋敷の配置では武頭という役向きのせいもあるが名誉ある待遇であると思われる。
 白石城は高台にあるため水がなく(ただし、城のことであるから容易にかれない井戸はあったという)、お城 で使う御膳水は折助が毎朝佐野家屋敷内の井戸からお城へ運びあげていたという。
 分限帳によれば、屋敷の広さは、表十九間四尺四寸、裏十九間五尺七寸、南二十七間一尺八寸、北二十九間一尺五寸 とあるから、概算して五百五六十坪であろうか。屋敷の建坪わからない。この屋敷は明治四年二月、 白石城が兵隊屯所となった時とりこわされて、その調練場となったらしい。町名にそれが残っているのである。今は 阿子島さん矢内さんなどという人の家がる。
 当時の侍屋敷がごく少数ではるが、原型をとどめたまま残っている。その一つである後小路の小関家は知行一 貫四百二十文で、これは佐野家の三割くらいであるが屋敷の地坪およそ五百八十坪、建坪は三十三・七五坪である。 即ち、知行髙と屋敷の広さはあまり関係がないかもしれない。古い絵図等をみても、屋敷が特別広いようにみえる のは、本沢家ぐらいで、その他の家は大体同じように画いてある。家屋建坪と知行髙の関係はわからない。
 多くの武家屋敷では敷地内にひいらぎやもくせいが植えられ、その他梅・栗・柿・うこぎ・茶などの実用植物も 多く植えられていたという。



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佐野家の白石にある菩提寺について

 菩提寺 時宗(じしゅう)白石山(はくせきさん)常林寺(じょうりんじ)
 所在地 白石市兀山(はげやま)三番地
 住職 菅野直秀師
 佐野家の宗教はいま神道であるが、これは北海道移住後、寺院がなく、また僧侶もいなかったため、その祭祀を 神道で行ったのに始まるときいている。士族の移住者にこのような例が多いという。白石に居たときは上記の寺 に属していたのである。
 時宗十三世紀後半に一遍智真の開いた浄土教の一派で、時宗・一向衆とも、また一所不住を原則として、教団 の主宰者である遊行上人(ゆぎょうしょうにん。教団内では知識とよぶ)を中心に遊行するので遊行衆とも よばれた。鎌倉末から室町初期にかけて最盛期をむかえ、その信者は一般庶民だけでなく、武士階級がその中心をなし ていた。また。時宗僧は遊行するため、伝教だけでなく、華道・香道・和歌・連歌・書画等の文化芸道の地方伝播 のうえでも功績があったという。
 戦乱のため道場が破壊されたこと、また、交通が杜絶して上人が廻国できなくなったこと、連絡がたえたこと、浄土真宗 急激な隆昌の影響をうけたことなどの諸因が重なって急激に衰微したという。
 現在は日本全国に四百余寺があり、関東地方では茨城県でサ貫であり、北海道では函館に寺があるという。 総本山は神奈川県藤沢市西富にある清浄光寺(しょうじょうこうじ 通称遊行寺)である。
 常林寺は時宗の寺院がそうであるように、元来時宗道場であったものが寺院になったもの。盛期には 境内もも現在より広く、白石市近辺では最も古い寺であり、時宗内部でも九代目遊行上人をだした由緒ある名刹である。 境内に桜の古木が多く、また、これが早咲きで、東北の地に春を告げる桜として著名であるという。
 精進日写しその他の断片によって、佐野家に残っている戒名について、同寺の住職菅野直秀師の好意に すがって、過去帳との照合、その他いろいろなことの教示をお願いして、判明したことを以下に記す。
 〇印を付したものは過去帳に記載のあるもの。
 〔〕内は記載されていることがら。
△印は同寺内佐野家墓所に墓標のあるもの。
()内は私が補ったことがらである。

 〇 武宗春光士 (初代佐野甚内常路) 寛永十一年三月十六日(元亀元年 ー一五七〇-~寛永十一年三月十六日ー一六三四-行年六十五歳)〔佐野甚内先祖 白井丹波〕
   弧蹊妙桃信女(常路の妻らしいが不明、精進日写しによれば三月十五日歿か)


 〇屋意道源信士 (二代目佐野甚内広路) 万治二年十月朔日(慶長四年ー一五九九-万治二年 十月朔日ー一六五九-行年六十一歳)〔佐野甚内〕
   桂林妙昌信女(広路の妻らしいが不明)
   月岑妙秋信女(〃)
 〇夏室妙本信女(広路妻)延宝七年五月十三日(延宝七年ー一六七九)〔佐野甚内祖母〕


 〇嘆義永讃信士 (三代佐野甚内安路) 延宝三年九月二十七日(延宝三年ー一六七五-) 〔佐野甚内〕
 閑雪栄春信女 (精進日の写しによれば安路の妻のようであるが過去帳の記載とあわない。)享保十三年十二月三日(享保十三年ー一七二八-)〔佐野甚内伯母〕


 〇久松院但阿宗円信士 (四代佐野甚内路礼) 享保元年十二月十日(享保元年ー一七一六)〔佐野源蔵父〕
 〇桂室妙心信女(路礼の妻)元禄五年三月四日(元禄五年ー一六九二-)〔佐野甚内室〕
  ●(編者注 「譚」のへんが人偏の文字)月妙湛信女(路礼の妻か、詳細不明)
 〇浄屋清俊信女(路礼の妻)享保二十年八月三日(享保二十年ー一七三五-)〔佐野甚内母〕


 〇△良雲洞水信士 (五代佐野甚内路致) 元文二年九月朔日(元文二年ー一七三七)〔佐野甚内父〕
 〇△雪光栄智信女(路致の妻、富路の母、大河内仲左衛門貞次の女か。)元文二年 十二月六日〔佐野忠太左衛門母〕


 〇△歓阿喜法信士(六代佐野甚内富路) 明和六年五月二十二日(明和六年ー一七六九-)〔佐野甚内〕
 〇法雲妙性信女(富路妻か) 享保八年四月四日(享保八年ー一九二三-)〔佐野甚内ヨメ〕
 〇△音●(編者注 「弐」の横棒が一本だけの文字)智秋信女(富路妻 小見平治郎安次の女)明和九年八月十九日(明和九年ー一七七二ー〔佐野甚内祖母〕
 〇了空清解信女(富路後妻)元文四年五月二十九日(元文四年ー一七三九-)〔過去帳〕に脱落後記して「佐野甚内妻カ娘カ不知」とあり


 〇△順阿安性信士 (七代佐野甚内路安) 宝暦十三年十二月二十八日(宝暦十三年ー一七六三-)〔佐野甚内子〕
 〇△尊●(編者注 「弐」の横棒が一本だけの文字)妙貴信女(路安妻、佐藤束信清の女)寛政十二年三月十九日(寛政十二年ー一八〇〇-)〔佐野甚内母〕


 〇△道阿教徳信士 (八代佐野甚内路清) 享和元年八月十三日(宝暦十年ー一七六〇-~享和元年八月十三日ー一八〇一-行年四十一歳)〔佐野甚内〕
 〇△徳●(編者注 「弐」の横棒が一本だけの文字)妙尊信女  (佐野甚内路清妻)天保八年九月二十四日(一七六四-明和元年ー~天保八年九月二十四日ー一八三七-行年七十四歳、宗吽院女)〔佐野甚内才〕(才は同音の妻に通用)


 〇△清阿浄善信士 (九代佐野甚内豊路) 文政十一年正月七日(寛政七年ー一七九五-~文政十一年正月七日ー一八二八-行年三十四歳)〔佐野甚内〕
 〇△泰室妙善信女(豊路妻、加藤直路武延女)文化十一年十一月十九日(寛政六年ー一七九四-~文化十一年十一月十九日ー一八一四-行年二十一歳)〔佐野甚内妻〕
 〇△称室妙量信女(豊路後妻、制野豪左衛門髙蔭女)文久二年二月十一日(寛政八年ー一七九六-~文久二年二月十一日ー一八六二-行年六十七歳)〔佐野甚内継母〕


 〇△善光童子 (十一代佐野源蔵兄 母伊藤氏女) 弘化五年正月十一日(弘化五年ー一八四八-)〔佐野甚内子〕
 〇妙心童女(善光童子姉 母伊藤氏女)天保九年七月四日(天保九年ー一八三八-)〔佐野甚内娘〕
 大用自現信士(すべて不明)享保 八月十七日(享保 一七一六~一七三六)
 〇花仏妙紅信女(佐野甚内富路女〉延享四年九月十九日(延享四年ー一七四七-)〔佐野甚内娘〕
 〇△瑞仏智光信女(佐野甚内富路次女)宝暦二年正月二十六日(宝暦二年ー一七五二ー)〔佐野甚内次女〕
 〇秋露童子(佐野甚内路致子)宝暦七年七月十八日(宝暦七年ー一七五七-)〔佐野源蔵子〕
 幻了童子(佐野甚内富路子)十月二十五日(他はすべて不明)
 〇了秋信女(佐野甚内富路女)享保十五年七月六日(享保十五年ー一七三〇-)〔佐野甚内孫〕
 〇新皈西 順阿俊信士 明治三年九月十日〔当時の戒名形式でうが過去帳に見当たらない〕
   (九月とあるのが不審であるが、あるいは甚内定路が生前戒名をもとめたものか)  弧蹊・桂林・月岑・●(編者注 「譚」のへんが人偏の文字)月・大用は常林の戒名形式ではないそうである。  また、初代武宗・二代屋意等もそうであるときいた。四代久松院但阿宗円信士の戒名はかなりよい戒名であるという。  片倉代々記にこの四代路礼と思われる人物がかなり活躍しているような記事がある。



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佐野家の白石にある墓地について

 上記白石常林寺に佐野家の墓地がある。場所は寺門を入って右、庫裡の背後にせまる丘の中腹。墓域は区画が はっきりしていないが、東二間半、西三間半、北二間、南二間半、ほぼ六坪。南側が道である。残っている墓は十四基。 隣接した二辺にほとんどすきまなく並べてある。茂泉家でこの墓地を使っていたというから、配置を変えたものであろう。墓石は すべて、高さ二尺以内幅一尺五寸内外の卵形の自然石。碑銘は次のとおりである。五代甚な路致以降の墓だけでそれ以前のものがないのは どういうことなのだろうか。あるいは、他に墓地があり、それに収容しきれなくなって この墓地を定めたのであろうか。
 1  文化十一戌年十一月
     泰室妙善信女
     加藤武延女
     佐野豊路妻二十一
 2  宝暦二年壬申
     瑞仏智光信女
     正月二十六日
 3 判読できず
 4  享和元年酉年
     道阿教徳信士
     八月十三日 佐野甚内路清
     行年四十一
 5  明和九辰年
     音●(編者注 「弐」の横棒が一本だけの文字)智秋信女
     八月十九日
 6  天保八年九月二十四日
     徳●(編者注 「弐」の横棒が一本だけの文字)妙尊信女
     佐野路清妻
     行年七十四才
 7  明和六年己丑
     歓阿喜法信士
     五月廿二日
     佐野富治
 8  元文二年十一丁巳
     雪光栄智信女
     十二月六日
 9  元文二年丁巳
     良雪洞水信士
     九月朔日
     佐野路致
 10 文政十一年
     清阿浄善信士
     正月七日 佐野豊路
     行年三十四
 11 宝暦十三年癸未
     順阿安性信士
     十二月二十八日
     佐野路安
 12 文久二壬戊二月十一日
     称室妙量信女
     佐野豊路後妻
      行年六十七才
 13 寛政十二庚申年
     尊●(編者注 「弐」の横棒が一本だけの文字)妙貴信女
     三月十九日 佐野路安妻
 14 弘化三年
     善光童女
      正月十一日



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幌別にきてからのこと

 佐野家の人々が、他の家中の人々と、幌別移住第一陣として、松島湾内の寒風沢(さぶざわ)から鳳凰丸で出発 したのは明治三年六月二十五日であった。旧暦の六月末であるからすでに夏の終わり、二十九日(新暦七月二十七日)室蘭の港についたと きは、この北の地にはすでに秋風が立っていた。今日の暦でいえば八月中旬から下旬にかけてのことである。 始めて経験する船の旅は苦しかった。しかし、船旅の苦しさよりもっと強く人々の心をしめつけていたのは新たに 移り住む地、未知の地での生活の不安であった。
 未知の地での生活の不安は大きかった。しかし、人々はこの地での生活に賭けた。期待をつないだ。 戊辰戦争の結果、城地封禄を召しあげられ、生活のすべてを失った人々が、エゾの地に片倉藩の再興の望みをつないだ のだ。室蘭から殿様の新たな支配地ホロベツへ、五里の道のりである。細くつづく海岸ぞいの道、潮風が海岸の砂を ふきあげていた。右手に大きな波を打ちあげる海をみるころ、あと二里という声がかかった。はまなすが赤い花を つけていた。蛇行している大きな川が作っている湿地に生えているあしもいたどりも見慣れているくにのものより 大きく荒々しいいきおいをもっていた。
 五日間の船旅と半日の歩行に人々は疲れきっていた。わずかに開けた海岸の砂浜ぞいの地に小さくかたまった  かやぶきの家々、それに住む土着の人々がこの新たな支配者たちをむかえた。
 翌日から休む間のない人々の生活が始まった。支配地内の検分をするもの、燃料を作るもの、夜はすでに寒さをさえ 感じるころであった。だが一番急がれているのは住む家を作ることであった。十分な工具をもたない新来の人人に、 土着している人々は底知れぬ善意を示した。彼らが漁場で使っている丸太が提供された。それらは早速 新しい家々の柱に梁に棟木になった。この人々の厚志を佐野源蔵は忘れなかった。彼らに姓を定め、それに漢字をあて ることになったとき、周到に好字をえらびその恩にむくいた。女たちはかやを刈った。屋根をふき、壁にするので ある。しかしなれない仕事で大きな失敗もした。葉先を切り落したかやを使っての掘立小屋はいく棟か できあがった。十分壁代わりのかやも厚くした。安心してきびしい寒さというエゾの最初の冬もむかえられると思った。雪が 容赦なくこの壁代のすき間から通って入り込んできて寝ているまわりに積ったのは冬に入ってまもなくであった。 翌年からは葉のついたままのかやを本末入れまぜてたてて雪の舞い込むのを防いだという。
 人々が家を作るのに忙しく立ち働いている間に川に鮭の上る季節がやってきた。古くからいる人々はマリップと よぶ銛を使って上手にこの大きな魚をとった。この魚も二月前にあとにしてきた故郷の川白石川・児捨川・松川などで とれるものより大きかった。
 最初は何度となく突き損じた人々も、やがて自在にこのマリップを使うようになった。槍の修練が役立った のである。こうしてとった大きな魚の皮を使ってはきものを作ることも覚えた。ケリとよぶ靴である。
 最初の冬がやってきた。人々は毎日毎日集まって翌年の仕事のことを語りあった。米はこの土地ではだめだろう。 栗・稗・大豆など、桑の木もあるようだ。あれで養蚕をするのはどうか、物を運ぶのに馬もほしいが、このあたり に多くいる野生馬をとらえては、来年は網を用意して鮭をとろう。熱心に彼らは語りあった。そして最後はいつも 雪がいつなくなるのか、春が来たら、春が来たら、その時には待ち望んでいる第二陣、第三陣の人々が来るはずで あった。語りつかれ、沈黙する時、人々はそれぞれ、春になって来るはずの親しい人々のことを想うのであった。 晴れた日には何人かが一組になって川ぞいの小道を山奥に分け入った。鹿をとるのである。この地の鹿も蔵王の 山山の鹿よりもはるかに大きかった。この獲物を海水で煮立てて食うのである。初めは肉食をきらっていた老人や 女たちもやがてこの肉の味をよろこぶようになった。あまった肉は常時火をもやしつづけているいろりの上につるした。 自然の燻製ができあがった。子供たちはわなをしかけてうさぎをとることをおぼえた。皮は防寒に役立った。 肉を取ったのちの骨をくだいて団子にして食うなど、この小動物は人々の食事に変化をもたらした。元気な若者は 暗夜の海岸をガンビの細枝をたばねたたいまつで照して歩きまわった。砂浜にあがってくる毛がにを捕らえるのである。
 雪が消え始めると北国の春は駆け足でやってくる。野にひばりがあがり山桜が咲きはじめるころ、三月下旬、 今の暦でいえば五月半ばすぎ。第二陣がやってきた。斎藤良知が、矢内信内が、片倉広が、この二十歳になった青年 を源蔵の妻シマは待っていた。はやく父平馬を失った姉と弟である。弟は九か月前から見ると背丈ものび肩巾 も広くなった感じであった。鈴木軍治もいた。源蔵の叔母が鈴木家で生んだ子、いとこである。新たに建てられて 彼らを待っていた小屋を含めて、すみかの入れかえがあわただしく始まった。佐野源蔵一家は鈴木軍治一家、阿部甚十郎一家と すむことになった。この同居生活は翌年三月十日、佐野源蔵が新たに家を建てて移転するまで続いた。
 様子が変った故郷の事もはなし合う間もなく、人々は割りあてられた土地の開墾を急ぐのであった。耕す土地に  槍をたて、変事にそなえるという白石での習慣もまだ残っていた。
 ある程度事実にもとづいて、私はこの章をかいてきた。通読されている方は、すでに気がついておられるだろうが、 この章を私は他の部分とスタイルを変えて書いてきた。しかしこのやり方をつづけるには、私の手持ちの材料 は乏しすぐる。これは独立した一遍として、資料をととのえてから書きはじめるのがよいと思う。佐野家関係年表 の 簡単な記載から、多くのことを読者が読みとってくださることを期待して、私はひとまずここでこの章をうちきりとしたい。 今日は三月十五日である。四月一日の父母の一年祭の時、人々に読んでいただくためにはもう筆を おいて印刷にまわさなければいけないのだ。
 すぐ次に書きつづけるはずのことの一つをかんたんに書いておく。第二陣できた人の中に斉藤良知という人が いた。一家の家柄である。この人があるとき源蔵と話していて、「うなるのはまったくこわい。」といった。畑を耕すのは疲れるという意味である。 源蔵も同感であった。しかし疲れるのは当然のことである。源蔵にはこの 良知の弱音が理解できなかった。他日、源蔵は良知の畑打ちをしているのを見て、彼がつかれる理由を知った。 ふりあげたくわを土にうちこんでそのまま手もとによせるやりかたであった。打ちこんだ手首をうごかし、土を くずしてから手もとに引けばずっと楽になるはずであった。そのことを聞いて、良知は大変らくにやれるようになったといったという。
 なお、文中の鈴木家・阿部家・佐野家同居のこと、三月十日佐野家新築移転のことは、片倉さんが鈴木家伝の 中にあると私信で教示されたことである。このお手紙は昨日受けとった。槍を立てての農事のこともそうである。 なお、このお手紙は三月十日にお書きになったものであるが、その日はお手紙中の佐野家新築移転満百年に あたることになり、「不思議な日にお便りを記すことになりました」と書いてくださった。鈴木軍治が佐野家の人から 生まれたとかいたのは、系譜書によって可能性があるという推定である。
 もし失考であれば鈴木家の人々に申しわけないことである。



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佐野家に伝来しているものについて

 佐野家は昭和になってから、二度火災にあい白石以来もち伝えてきたものの 大部分を灰にしてしまった。現在残っているものには、次のようなものがある。
 一、刀一振 銘国宗、室町期のものという。手入れ不十分のためさびついたので、こしらえをはずし、 白木の鞘にしてある。その時かざりの一部を失った。痛恨である。
 一、脇差一振 無銘 火事のため若干損傷したものを鍛えなおした。
 一、精進日その他の書き付け断片数葉。これは白石以来のものとはいえないが、十一代 源蔵以前の書写しになるものである。
 また、所在がある程度あきらかなものとして次にあげるものがあるはずである。
 一、懐剣一振 虎杖浜佐野家にあるという。代々佐野家家刀自の守力であったが、 源蔵次男栄治が両親源蔵・シマのために隠居所を建てたときシマが栄治に与えたという。
 一、刀一振 栄治の孫初男が下士官に任官したとき軍刀にしたてたもの。長さを若干ちぢめたという。 他に人々の記憶にあり、かつて存在したことがたしかなものに次にあげるものがある。
 一、知行墨印 系譜書にある二代広路が寛永二十一年八月十五日に受領したものであろうか。  一、疋田流槍術書 極意書のようなものであろうか、巻子仕立で二・三巻。槍をもった動きを 略図で示し、解説を加えてあったという。
 一、槍一本 明治のころの早い火災で失われたという。
 なお、十一代源蔵はすぐれた槍の使い手であったといわれているが、佐野家には代々槍術に 熟達した人物がいたようで、槍と火事にまつわる次のような奇怪なはなしが伝わっている。 信をおきたいことではあるが、私意によって収捨することをつつしみ、一応記して。十二代徳治を経て その三男徳三に伝わっているはなしである。
 「何代か前に、非常に槍がうまい人がいた。それをねたまれて、誣告され、取り調べをうけたが、いかように 調べても、無実であった。取り扱いに苦しんだ役人が揚げ屋に火をかけて殺そうとした。戸、木戸の類三つをうち 二つまで破ったが、ついに力及ばす焼死した。それ以来わが家に火がたたっている。火事に気をつけなければいけない。」 取り扱いに苦しんで火をかけるというのも、いかにも乱暴なはなしであり、また、こちらが役人側であったら「火の たたり」をおそれるにも理由があるといえようが、不可解なはなしである。
 余談をさらに重ねる。これも火災に関係することであり、また年代もわからない。
 ある夜お城に火災が起こった。その時登城するのが遅れて、大いに面目を失した。(一番近いのであるから、 そうであろうと思う。あるいは泥酔して寝こんでいたのであろうか。)それ以来佐野家では上をぬぐだけで寝る習慣が のちのちまであったという。
 一、刀数振 前記した現在残っている刀以外に数振の刀が最後の火災で失われるまであった。屋根裏が物置きのように なっていて、そこに他の什器用のものと一緒においてあったような記憶がある。三十年以上も前のことであろうか。 何かのおりに集まった同年配のいとこたちとこの刀をもちだして斬りあいの真似をしておとなから大いにしかられた ことがあったという。同罪のいちこのひとりが先日はなしていた。私の記憶には全く残っていないことであった。記憶力に 決定的な差があるのであろうか。都合の悪いことはきちんと忘れるという特性を私が持っているのであろうか。
 一、刀箪笥 表面は網をかぶせた上をうるしぬりにしたようにみえたという。あるいはこよりを編んだものの上に うるしをかけたものであろうか。
 一、狩装束 鹿皮製のもの。片倉領の山々でしばしば狩猟が行われたと記憶があるが、その時着用して参加したものという。



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幌別の佐野家墓地について

 幌別の共同墓地内に佐野家の墓地は二か所ある。始んどの墓が一か所にかたまってあるが、 十一代源蔵とその妻シマの墓はそれより上手の奥にある。
 今度、十三代督とその妻マツのことがあり、新らたに一基、「佐野家之墓」を建立し、埋まっている ものはすべて掘り起こし、改葬埋骨することとし、従来の墓標の位置も若干移動した。
 埋骨されるのは次にあげる十三柱である。
 佐野甚内・ヨセ・源蔵・シマ・安子・徳治・ツ子・イチ・よし・徳四郎・トヨ・督・マツ。
 源蔵とシマの墓は、動かしていないがかりのそうあつかった。
 墓標と墓誌は片倉さんにお願いして書いていただいた。
 一、「佐野家の墓」
 一、墓誌 以下その全文とそれに付された片倉さんの解説を加える。
   平姓佐野家ハ始祖源蔵常路ガ天正年中米沢ニ於テ
   片倉景綱ニ与力シ鼎足武功ノ誉高キ譜代ノ重臣ト
   シテ代々奥州白石城三之丸ニ住シ明治三年片倉家
   幌別郡支配ノ時十代甚内定路亦移住開拓ニ従イテ
   ココニ五代ヲ経ルト今改メテ佐野家ノ墓碑ヲ建ツ
   始祖君ト固キ信義ニ結バレテ四百歳死生辛酸ヲ共
   ニセル深キ縁由ヲ温メ請ワレテ墓誌ヲ記ス
    昭和四十八年四月一日 小十郎十五代 正五位元男爵 片倉信光
 〔解説〕
 佐野家の系譜や武功書上などを参考にして与力という字は単なる主従ではなく寄騎とも書いてあるように 協力者の立場にあったようです 後の八丁堀の与力同心の意味と異なるのですが、後者の意味にとられる おそれもありますが、これを使いました 鼎足武功 片倉家の三羽烏といった三人の武者が(大町清九郎 片平 藤太郎 佐野源蔵)が有名であり鼎の三足といわれた故事です。鼎は中国の国の重宝(三種の神器)で それが 三本足でささえられえいることから云われ いわば片倉家のを支える武功三人の一人を意味します 
幌別郡支配は新政府の命ですから入れました そして私の肩書は封建的とお思いでしょうが、この男爵を 授けされた光栄は白石の移住家中全体に賜った光栄であり、片倉は代表者にすぎないので 敢えてこれを 書きました 後半の死生(戦場)辛酸(開拓)であり 主従とはいえ 主あっての従 家中あっての主であります
 古くは形は上下でも内実は親子以上に親密な関係にあったものです でなければ二百年も三百年も続くはずありません。 こんなことを敢えて書いておきたかったのです。今日の目で見ないで当時のそのままを やはり見なければならぬとする私の意見です。

 別のお手紙に「幌別白石手稲三カ村開拓ヲ嘉セラレ 明治三十一年七月廿日 片倉家授男爵ノ事アリ コレ従事セル 片倉家中ニ賜シ栄典タリ というような一章を加えさせて頂こうかと考えましたが余り長文に亘るので割愛いたし ましたので意味だけは何所かに記して頂きたく」と書かれていたことも披露しておきたい。
 墓誌のおことばは佐野家にとってまさに過分なおことばであるが、ありがたくいただいた。



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片倉家のことについて

 片倉家のことについては、この小冊子の読者は十分承知のことと思う。十分な調査なしで記す のは無礼であり申しわけないことであるが簡単に記させていただく。
 初代は片倉小十郎景綱である。「日本歴史大辞典」の記載を引用する。
 片倉景綱 一五五七~一六一五、安土桃山時代の武将 父は式部景重 伊達政宗の小姓となり、その才智によって次第に 重用された。一五八五(天正十三)年会津檜原および塩松の戦に武功をたて、二本松の在番となり、ついで 八八(天正十六)年の本宮および窪田の合戦、八九の摺上原合戦にも功があった。一五九〇(天正十八)年、 豊臣秀吉が関東奥羽の攻略に当ると、主人政宗を説得して秀吉に屈伏させ、また大崎・葛西の反乱に智謀をもって 善処して、よく伊達家の危局を救い、政宗の地歩を安泰にした。一六〇二(慶長七)年知行千三百貫を与えられ、 陸奥刈田郡白石城主となった。上杉景勝の重臣直江山城守兼続とともに天下の陪臣として並び称された。
 佐野家に伝わっている片倉景綱のはなし
 片倉の殿様は頭のいい人であった。片倉の殿様の殿様(伊達政宗か、あるいはその父輝宗か)が片倉の殿様に 「おまえに百五十石を与える」といった。片倉の殿様は返事をしなかった。重ねて「百五十石を与える」といった。 片倉の殿様は「都合三百石ありがたくいただきます」とお礼言上した。伊達家は石高制ではなく貫髙制であり、 内容も細部には問題もあるが、きいたまま記した。
 小田原に参陣した政宗に随行したとき、秀吉から五万石を与えてさぢみょうにするといわれたが、政宗からの禄で十分 であると辞退したという。
 元和元年六月十三日、いわゆる一国一城の令が発せられた。これは諸大名の分国中居城以外の城は破却せよとの 命令で西日本を主として、数日のうちに四百を超える城が破却されたというが、白石城は破却を免がれている。 これは非常に珍しい例で理由を確かめえないでいるが、片倉家に対する幕府の待遇が陪臣といっても特別なものが あった証拠の一つとなるかもしれない。
①景綱(傑山)-②重長(一法)-③景長(逸山)-④村長(別山)-⑤村休(體山)-⑥村定(周山) ー⑦村廉(天山)-⑧村典(見山)-⑨景貞(徽山)-⑩宗景(寿山)-⑪邦憲(俊山)-⑫景範ー⑬景光ー⑭健吉ー⑮信光とつづく。
 伊達家には一門・一家・一族・着座以下略等の家格があったが片倉家は一家でありしばしば奉行になっている。
 八代村典は鬼子と号した俳人で「鬼子句集」なる一冊がある。私はこれを見せていただいたことがある。その 子九代景貞も鬼孫と号する俳人である。佐野の十一代源蔵は句作を楽しんだというが、家中全体にその影響があり、 その風をうけてのことであったのだろう。明治二十八年生まれの私の父督は、子供のころややはなれた片倉さんの お屋敷にしばしば使いに行ったという。食事をすすめられたこともあったが「殿様ところは窮屈でいやだ」などと いってにげかえったといっていた。明治四十年幌別を去られたときにいただいたのであろうか、食事のときの テーブルは片倉さんからいただいたというものを使っていたという。
 現当主信光氏は明治四十二ねん、当時千歳孵化場に勤務されていた父健吉として千歳で生まれ、国学院 大学高等師範部卒業。
 在学中から森本六爾に師事した有望な新進考古学徒であった。人類学者・考古学者として著名であった鳥居龍蔵 の知遇をえて、卒業後東京市公園課に勤務「有栖川宮記念公園」内の「東京郷土資料陳列館」の創設にあたった。 昭和十三年から仙台の斉藤報恩会の博物館に勤務、政宗ゆかりの青葉神社宮司もつとめられ、現在奥羽種白石郷土 工芸研究所長として紙布織の研究に専念されていられる。一男四女あり、嗣子重光氏は青葉神社の禰宜である。本来 なら祖母の実家である赤城信一家を嗣ぐはずでそのため信光と名付けられたとのお話であった。赤城家は室蘭で 医を開業されており、明治天皇行幸の際の室蘭での御宿であったと。
 この小冊子のこと、墓のことで大変お世話になった。ありがたいことであった。
 なお、白石城のことに全くふれることができなかったのは残念なことであった。資料がないためである。 他日を期したいと思う。
 片倉信光氏の現在のお住まいは 宮城県白石市兀山三番地(郵便番号九八九ー〇二)である。



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捕遺 断片あれこれ

 この小冊子が成ってから、私は中野区鷺宮の佐藤家を訪れた。そのときに聞いた話を。
 十郎はアメリカに渡りたくて、佐藤家に籍を移した。私は養弟ときいていましたが。当時北海道は開拓が急がれ ていたので、北海道に本籍がる人間の移民は許されていなかったの。パパは(シクさんは十郎のことをこう呼んで いた。)十四歳で小学校の校長の代わりをしたくらい頭のよい人であったという。だから私はいつも言ってたの、 十で神童、十五で才子、二十すぎればただの人。アメリカに渡りシアトルで商売をしていた。大正八年嫁さがしに 帰国した。その時結婚したら親孝行ができなくなるといって母シマをつれて、日本全国をまわって親戚にあわせた。 このはなしに感心して父大石倫治がはなしをきめた。結婚式は仙台のブラザー軒でやった。当時は一番ハイカラで 立派なところだった。宮城県知事や仙台市長も出席して盛会だった。佐野家関係では、小原一さんが出ていたのをよく おぼえている。父親の倫治は苦労した人間でいろいろな職業を経験しているが、郵便局につとめていたことが あって、その時小原さんが上司であった。奇縁をよろこんだわけ、だからおぼえている。去年一緒に北海道に 行って暮らしました。隠居所で生活してました。母シマと栄治さんのところからきていた娘さんがいました。徳治さん、 栄治さん、キワさん、督さんをおぼえています。すごい美男子でいましたが、写真をやる人で(徳治次男弘である) 鼻曲りの鮭がおいしくて、毎日たべたいけどたべさせてくれないの、近くの川でとれるんでしたね、一本ぶらさげ てあるの、毎日見ていました。栄治さんの漁場にも行きました。鮭を取っていた。栄治さんの家の前に道をへだてて 番屋があって、広い板敷まわりが何段かのベッドになっている。漁夫はそこにねるの、魚なんかもう忙しくて みんなふんづけて走り回るの、鰊づけ、私は生臭いものは、だめなの、それが食べてみるとおいしくて、キャベツ、 北海道ではカイベツですよね、大根、鰊の切ったの、糀を入れてね。カルルス温泉にも行きました。パパが出資して いたとかで、泊った日に火事があって、隠居所は三間か四間ありましたよね、北海道ですから大きな木は植えてないけど 、庭なんかもついていました。帰りは青森の帆立貝、めずらしくてたくさん買ってきて親類にくばりました。
 アメリカに行ってこども壌治ができてから日本に戻ってきました。パパは残りました。戦争中も、軟禁されてる 状態ですよね。仕送りがなくなって、まあ大石の家にいましたから。三十一年十二月五日にむこうで死にました。 武一がアメリカに戦後行ったときも強く帰国をすすめたけど帰りませんでした。淋しい一生ですよね。墓は小平 霊園につくりました。ここから電車で一本ですからね。そのころ私は区会議員でした。そのあと教育委員をやって。 今はもうだめです。七十二ですから。父親の倫治も次は農林大臣だって約束されていたんですが死んでしまって。 もう十年早く世の中に出ていたらっていつも言っていましたが、農林政務次官にはなりました。今とちがって 政務次官になるのは大変だった。武一もあとでなりました。親子二代同じ部屋です。武一もあまり評判がよすぎて、 またバリバリやられたらと田中という人も小心ですよね。小原さんの住所知っています。佐藤一族・小原一族みんな 近くに住んでいて、私もすすめられましたが。むかしはかなり行き来があったんですが、今はご無沙汰して、飯田 さんも知っています。青山辺のハイカラな家で、奥さんもいい家の人ですがきさくで、気持がよくてよくよせてもらいました。
 気持よく話をきける夕であった。仏壇を拝んでから辞去する。壁間に大石倫治、佐藤十郎の写真がかかげられて ある。十郎四十歳のころのものという。これもまさに佐野家の顔、一番よく似ているのは、叔父徳三であろうか。
 小原家に電話して聞いたとこrでは、小原一、明治八年八月二十五日(一八七五)生まれ、昭和十年三月三日 (一九三五)歿。行年六十一。養子となった事情、小原家と佐野家のそれ以前の関係もきいていないとのことであった。 小原家は会津若松の出である。徳治さんともう一方が見えられたことがあると。一の長男の方とその妹にあたる 方二人が健在であると。
 シクさんのはなしにあった栄治のことにつては二・三別のところに書いた。この人は昭和二十五年まで生きた。 明治五年生まれであるから八十歳に手のとどくところまで生きたわけだ。佐野家の人々の中でも最も長命な人で ある。時にわれわれ兄弟が訪ねていくと「幌別かあがりやんせ、あがりやんせ」このことば、その動作、今も目に うかび、耳にのこる。
 鮭のはなしをひとつ記す。
 幌別鉱山の銅の廃液がながれこむまでは、幌別川に鮭が沢山のぼった。白石から来た人々のもっていた仙台漁場 が一番よい漁場であった。一日に千本も千五百本をとれることがあった。それを分配するのである。網からあげる のはよいが、それを家まで背負ってはこぶのが大変であった。薄塩にして土間の天井からぶらさげてあった。豆腐 をつくるため、毎日豆をにるので、自然の燻製になった。これは大変うまかったそうだ。腹の子のイクラはもちろん 食いもしたが、これも薄塩で保存しておいた。山女魚つりのえさにするのである。
 鮭や鮎はお国自慢の多いもので、どこの土地でも、その土地のものが、一番うまいといっているが、幌別川の ものもうまいという定評があったらしい。鮭は川水を少しのんだころが一番うまいというから条件もよかったのだ。 栄治は晩年に、よく幌別川の鮭を食いたいといっていたという。そのころはもちろん、幌別川に鮭は のぼらなくなっていた。
 余談であるが、私は朝おきぬけにつとめにでる。朝食は勤務先でする。その方が調子がよいからである。その お弁当のおかずはいつも鮭の切り身である。これが一番うまいのである。幌別川の鮭で人々が育ったことの影響が あるのであろうか。この習慣を知っている人はしばしば言う「三百六十五日、朝もサケ、夜もサケ」。夜のアsケはもちろん 魚ではない。
 以下、こぼればなし、当然きちんと入るべきところがありながら、落したもの、伝承の消滅をおそれて 書き加えておく。
 十代佐野甚内定路は、片倉家最後のころの筆頭武頭であったが、別に具足役を兼ねていた。当時各藩は乏しい 藩費をやりくりして、武具を備えるのみ大童であり、片倉藩もそうであった。役目柄武具購入に関係することもあったらしく、 若干役得もあったらしい。また、刀剣の鑑定にも才があったらしく、幌別に帰農したとき持ってきた 多くの刀剣の中にも、彼が買い入れたものがかなり入っていたという。
 同じ甚内定路のはなしであろう。私は嘉永年間の練兵行軍のときのことかとも思うが。
 この練兵行軍のようなことが行われたとき、甚内の馬がよく肥えた逸物であったので殿様にほめられたという。 当時の武士の家系の逼迫ははなはだしく、多くの人々は馬上階級でも、平素良い馬を飼育するゆとりもなかったらしい。 甚内は自分の知行地の百姓に金を与えて(あるいは年貢を減じて)良馬を飼育させていたのである。殿様の おほめに甚内は正直にその旨を答えたという。
 これはその次の代の十一代源蔵のはなし。入植当時、幌別には鹿が多く、それを狙う狼や山犬が多くいた。 その狼や山犬が残飯などをあさりに、よく家のまわりをうろついていた。
 ある夜台所をうかがいに来た山犬を源蔵が切り捨てたことがった。同座していた人々はまったく気づかなかった という。それほど静かに出て行って、さっと片づけ、静かに戻ってきたのである。
 後日のことであるが、その時の刀を、栄治の孫初男が軍刀に仕立てるために、旭川にとぎにだした。とぎ師は 人間を切ったものではないし、なにを切ったものだろうと不思議がっていたという。
 また一つ、これは知っている人は教えていただきたい。夕顔その他二・三の植物を植えないという習慣が あったようであるが、これはたしかか、またその植物は、いわれは、教えていただきたい。



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佐野家関係年表(元亀元年~明治四十年

元亀元年(一五七〇) 初代甚内定路生まる。
天正十三年十一月十七日(一五八五) 十六歳初陣観音堂人取橋合戦「佐野源蔵働き武功あり」(代々記)
 この戦いは葦名・佐竹・岩城・石川・白河の連合軍と伊達勢との戦い。伊達勢苦戦するも、よくもちこたえて勝利に導く。
天正十四年八月十二日(一五八六) 片倉景綱、奥州安達郡二本松城番となる。
天正十四年九月十三日 片倉景綱、奥州信夫郡大森城主となり、羽州長井庄片倉館から移る。
天正十七年六月五日(一五八九) 常路二十歳。摺上原合戦。(会津猪苗代湖畔)出陣。「片平藤太郎・佐藤源蔵、渋谷清蔵三人共に相奪撃して各首級宛討捕」(代々記)とあるのはあるいは佐野源蔵のあやまりか。
天正十八年七月十九日(一五九〇) 常路二十一歳。大里合戦「佐野源蔵虎口迄相働うちに何とかして敵に指物を取られしに、城中に則乗入終に其指物を取返す」(代々記)
天正十九年七月一日(一五九一) 常路二十二歳、佐沼城攻め。「大町清九郎、片平藤太郎、佐野源蔵諸軍に勝れ大手先に仕寄、敵を本道より城内へ追入る所に、早く門を閉るゆゑ引返す、又藤太郎、源蔵両人にて 藤太郎は源蔵に早く退けといひ、源蔵は藤太郎に早く退けといひ互に相譲りて退かず、此二人の小旗持も亦先後を譲って退かざる内に、藤太郎が小旗持櫓 より鉄砲にて打倒さる。其死骸は両人引揚る。惣じて清九郎、藤太郎、源蔵三人は何方に於ても鼎の三足のごとく相働くと云々」(代々記)
天正十九年末(一五九一) 片倉景綱、亘理郡亘理城主となる。
慶長四年(一五九九) 二代広路生まる。
慶長四年四月二日(一五九九) 常路三十歳。「亘理馬上之組定書中に鉄砲武頭に佐野甚内」(代々記)
慶長七年十二月二十五日(一六〇二) 片倉景綱、白石城主となる。家臣は翌年に移転か、この時、厩門直前に屋敷拝領以後変らず。
慶長十九年十月十一日(一六一四) 常路四十五歳。この時片倉重長、伊達政宗に従い大坂冬の陣参陣のため 白石を発す。「重網 公の御供として白石城を発す、軍装黒糸威の鎧、同毛の●(カブト=兜の異体字)を着、朱の半月を 立物とし、大●(マトイ=麻かんむりに糸)白地に黒鍾紋の旗渡辺吉助原久助持之小●(マトイ)三階黒鳥毛朝日奈九右衛門持之 ●(マトイ)奉行藤田藤右衛門、大亀玄蕃なり、馬上六十騎、金の愛宕の札を前立物として面々の旗を指す、歩小姓百人朱の尖笠を冠り、白布の 単羽織後に愛宕山大権現守護所と大字に書き、惣地に心経観音経を細字に書たるを着し、黒鳥毛朱柄の 槍を持せたり、鉄砲三百挺不断足軽都て三百人木綿羽織紺地に白九曜の紋黒しないの指物の武頭佐野甚内、関谷新左衛門、 紺野蔵人主、小片丹波、大和田伊予、佐藤次郎右衛門、弓百張不断足軽都て百人軍装前に同じの武頭山村六右衛門、 佐藤大学、槍二百本不断足軽都て二百人軍装前に同じの武頭大河内弥内、根本令史、蒲倉二兵衛、氏家藤左衛門其勢都て一千余人なり。」(代々記)
慶長二十年五月五日(一六一五) 常路四十六歳。広路十七歳。大坂夏の陣、参陣 片倉勢河内国 道明寺口片山に着陣、軍装人数について、冬の陣とほぼ同様の記事代々記にあり。広路歩小姓初陣。
慶長二十年五月六日(一六一五) 道明寺の戦い。この戦いで、豊臣方の勇将、後藤又兵衛基次、薄田隼人 正兼相が片倉勢にうちとられる。「今村新九郎十七歳、佐野源蔵十八歳各首を討取る」(代々記) なお、翌日付の記事内に片倉重網の首牒の中、「歩小姓 佐野源蔵」とあり、これは前日首一つを取ったことの記録で あり、歩小姓の最初の名がある。(広路の年齢は系譜書・武功記に従う。)
寛永十年三月十六日(一六三四) 初代常路歿 行年六十五歳。
寛永二十一年八月十五日(一六四四)二代広路 知行髙四貫二百三十六文墨印を受領。
万治二年十月朔日(一六五九) 二代広路歿 行年六十歳。
延宝三年九月二十七日(一六七五) 三代安路歿 行年不明。
延宝七年五月十三日(一七六九)三代安路母歿 行年俗名不明。
天和四年正月二十七日(一六八四) 伊達肯山公 白石山鹿猟 片倉村長(四代) 惣奉行 惣人数千三百人 余を五番手に分けてとり行う。それぞれに指揮者として小奉行二人。四番手小奉行 佐野甚内・今村半之丞とあり。(代々記) 四代路礼か。
貞享元年八月十九日(一六八四) 白石城石垣修復工事始まる。「普請奉行柴三太夫徳仲 出入司丹野又左衛門、 武頭佐野甚内、斎藤理左衛門、小役加藤孫市、三戸助七、渡部長左衛門等他」(代々記)四代路礼か。
元禄五年三月四日(一六九二)四代路礼妻歿。
元禄十二年五月二十六日(一六九九) 片倉景明具足着初の祝儀あり。諸役の内「加子 佐野源蔵」(代々記)五代路致か。
元禄十四年八月五日(一七〇一) 「長袋村明神社建立、八月五日釿立九月七日造畢、奉行佐野甚内、 佐藤大右衛門、小役人国分久四郎、高橋与市、同九月十六日遷宮依之景明社参」 四代路礼か。
元禄十五年八月三日(一七〇二) 白石城石垣修復工事許可。十六日普請初、二十七日普請畢。「惣奉行  日野甚五左衛門孝興、出入司佐野甚内 武頭門馬儀式左衛門同丹野源八、小役人横山助四郎、佐藤権四郎」(代々記) 四代路礼か、この時出入司であったと考えられる。
宝永七年七月十八日(一七一〇) 五代路致男子歿。俗名・行年不明。
享保元年十二月十日(一七一六) 四代路礼歿 行年不明。
享保八年四月四日(一七二三) 六代富治妻歿 渡部文左衛門道弘母か。行年不明。
享保十五年七月六日(一七三〇) 六代豊治女歿 俗名・行年不明。
享保二十年八月三日(一七三五) 四代路礼妻歿 松前辰之助家中村上与左衛門女か。
元文二年九月朔日(一七三七) 五代路致歿 行年不明。
元文二年十二月六日(一七三七)五代路致の妻歿 大河内仲左衛門貞次女か。行年不明。
元文四年五月二十九日(一七三九) 六代富治妻歿 俗名・行年不明。
延享四年九月十九日(一七四七) 六代富治女歿 俗名・行年不明。
宝暦二年正月二十六日(一七五二) 六代富治次女歿 俗名・行年不明。
宝暦十三年十二月二十八日(一七六三) 七代路安歿 行年不明。br> 明和六年五月二十二日(一七六九) 六代富路歿 行年不明。
明和九年八月十九日(一七七二) 六代富路妻歿 小見平治郎女か。行年不明。
寛政十二年三月十九日(一八〇〇) 七代路安妻歿 佐藤束信清女か。行年不明。
享和元年八月十三日(一八〇一) 八代路清歿 行年四十一歳。
文化十一年十月十五日(一八一四) ●十代定路生まる。
文化十一年十一月十九日(一八一四) 九代豊路妻歿 加藤直路武延女。行年二十一歳。
文政十一年正月七日(一八二八) 九代豊路歿 行年三十四歳。
天保八年九月二十四日(一八三七) 八代路清妻、角田宗吽院女歿、行年七十四歳。
天保九年七月四日(一八三八) 十代定路女歿 俗名・行年不明。<
弘化二年三月十八日(一八四五) ●十代喜路(源蔵)生まる。
弘化五年正月十一日(一八四八) 源蔵兄歿 行年不明。
嘉永四年九月九日(一八五一) 藩内練兵行軍、十一日まで、武頭 佐野甚内定路馬上 弓組を率いる。
文久二年二月十一日(一八六二) 九代豊路後妻歿 制野豪左衛門髙蔭女 行年六十九歳。
文久三年(一八六二) 白石役人帳「武頭四貫七百三十六文 佐野甚内定路 五十歳」(武頭の筆頭にあり) また、具足役にもその名がある。「中小姓甚内倅佐野源蔵十九」とある。
慶応元年八月十二日(一八六五) ●十二代徳治生まる。
慶応四年四月九日(一八六八) 片倉家中会津に進発。隊中に「ヤリ佐野源蔵」 慶応四年八月四日(一八六八) 片倉家中官軍北上に備え、出陣、小原村戸沢境に出陣人数の中「一 武頭 佐野甚内上下三人マトイ持同断」(「奥羽盛衰見聞誌」)
明治二年正月(一八六九) 白石城・所領召上られ、南部氏白石に転封さる。
明治二年九月十三日(一八六九) 片倉邦憲「胆振国之内幌別郡 右一郡其方支配被 仰付候事」
明治三年六月二十五日(一八七〇) 佐野源蔵同家族遠藤震三郎 他十八家族とともに寒風沢を出帆、 同二十九日幌別着。
明治三年十月十五日(一八七〇) 白石城売却 開拓資金とする、鶴見屋専右衛門へ百五十両、後角田県直々 に買上げ、兵隊陣営となる。
明治三年十二月二十四日(一八七〇) この日から白石城取締のため旧藩士四五名ずつ交替で城につめる、二十七日 「佐野三思」とあり不審。「三思」は幌別にある墓碑によれば十一代佐野源蔵喜路であり、すでに幌別に 移っているはずである。
明治四年二月(一八七一) 「白石城兵隊屯所となり、岡山藩兵隊大隊引移り三ノ丸北小路細小路民家とりこわし調練 場となり、稽古あり」この時佐野屋敷もとりこわされたと考えられる。
明治五年九月(一八七二) 片倉家中一同平民籍に編入される。
明治八年(一八七五) 養蚕を試み好結果をえる。佐野源蔵・遠藤震三郎養蚕世話係となる。
明治十年十一月(一八七七)片倉景範上白石に転居、旧主を慕って、白石、上白石に移住する者三十余戸に及ぶ。
明治十八年十二月二十日(一八八五) 片倉旧臣一同士族復籍を認められる。
明治二十年(一八八七) 片倉家世子景光を幌別に迎える。
明治二十八年三月二十八日(一八九五) 十三代督生まる。
明治三十一年七月二十日(一八九八) 片倉景光が男爵になる。
明治四十年十二月(一九〇七) 片倉景光宮城県白石村に転居する。



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あとがきに代えて

 私は今までに、白石を三回訪れた。最初が昭和四十五年七月下旬、ついで四十七年九月の初め、三回目は 四十八年一月末である。いずれも短い滞在であったが、そのたぶごとにこの地が好きになった。まさに人よし、水よし、 山よしである。
 こどものころから私にとって白石は特別な土地であった。大事な土地であった。いつか訪れたい土地であった。 しかし、私は行かなかった。行けなかった。学生時代から東京で生活していて、いつでも行けるはずの土地である。 しばしばの帰省の時にも、東京に就職してからも、ある種のおそれが私の足をこの地に向けさせなかった。白石は 私にとって全く美化された父祖の地である。私はこれを大事にしていたかった。この地を訪れて、心のなかに 作られていたものが、こわされるのを私はおそれた。若さを失い、ものごとに対してだんだん無感動になり、 ふてぶてしさのようなものが自分の中に育ってきて、始めて私は白石に行くことができたのである。
 四十五年七月下旬、白石は暑かった。この地に特別な手掛かりをもたない私は、まず市役所に行き、この地のことをきいた。 お城跡はすぐこの背後であること、そこに新明社という社があり、そこに、この地の古い道具その他を 集めて展示している郷土館というのがあること。片倉さんのお屋敷・常林寺への道・武家屋敷が残っていること。
 郷土館の入って正面のところ一枚絵図が掛けてあった。お城のまわりの武家屋敷の配置を図示しているもの であった。佐野甚内という名前がすぐに目に入った。それだけできてよかったと思った。その土地を離れて 百年を経ているとはいえ、その土地も二百数十年定住していたのだ。その長い生活の痕跡を残すものが何一つ残って いなかったら、わびしいことだろうと私は考えていた。ここに一つ確かにあったと思った。宮司さんは物識りで親切で あった。昔のこと今のこと。当時片倉さんも訪ねるべきだ殿様もよろこばれるだろうなど。この図から見て佐野家は すぐ下のそこにあったなど、見通しのきくところまで出て教えてくれた。この屋敷は一家、これは家老、この家は 仙台から来た付家老。二つあったはずだが、その一つが十代甚内の妻の実家であると後にわかった。
 翌日は蔵王に登った。バスが進むにれてその林相が幌別のそれにだんだんに似てくるような感をもった。帰りの バスがある停留所にとまったとき、待っていた老婆が車掌にたしかめていることばがきこえた。「白石け」こんなことばを こどものときにきいてと思った。
 小関家を見せていただいたのはその翌日であったろうか。わずかながらも残っている武家屋敷である。親切に いろいろ説明をしてくださった。
 常林寺は静かな落着いたふん囲気の寺であった。住職さんは来意を知り、墓に案内して見せてくださった。この 墓は茂泉家で以前は管理していたが現在はだれもみる人がいないこと、寺としては、どう処置しえtもよいはずの ものをそのままにしておいてあるが、いつまでもこのままにしておいてはいけないと、帰京後私は早速このことを 父にしらせた。父は何も意思表示をしなかったそうである。そのままにしておいた私がもちろん悪いのであるが、二度目に 訪れた時、私は住職さんに大いにしかられた。
 滞在最後に泊まったのは白石駅近くの阿子島旅館である。ここで私は思いがけない幸運をえた。旅館の一室に 書庫と札がかかっているのを見て、みせてほしいとたのんだ。勘定をすませて出発しようとするときである。この土地 の古い時代のことを知る本があるかもしれないと思ったのである。 はなしをしているうちにおかみさんが主人をよんだ。このお客さんは白石の古い時代のことを調べにきたんだって。そんならいいもんあげっから。 渡されたの片倉家中知行録と題するタイプ印刷の冊子である。自分の家で最近印刷したものだという。後に知ったことである がこの主人は白石郷土研究会の有力なメンバーのひとりであった。これにも佐野甚内が載っていた。白石の古い ことは片倉さんのところへ行かなければわからない。私はこれから馬印の写真をとりに片倉さんを訪ねる。一緒に行こう。遠慮する ことはない。大丈夫追いかえされることなんかない。親切に誘ってくれた。お訪ねしたい気はもともとあったが、 それまでは何となくためらいがあった。現住所も人にきいたし、戻ってから手紙を差し上げそれから再びこの地にきたときお訪ねしようと思っていたのである 。私の心はきまった。自転車で行くという主人におくれてゆっくりと歩いていった。とうとうー。そんな気持ちを覚えながら歩いて行った。
 私はもっといかめしいとりつくろった方を想像していた。もの静かで落着いた方であった。ともすれば固く なりがちな私をいろいろな話題でときほぐしてくださった。あなたのお父さんを知っていると言われた。系図その他が ないと話すと、早速とりだして見せられた。系譜書・武功記・馬印・嘉永年間の練兵行軍の図等。その図では 佐野甚内定路は武頭で馬上の武者だった。私は安心し満足した。大した違いはないとはいいながら、やはり単なる 雑兵よりは、その方がよかったのである。大いそぎでそれらの文書を写しとった。近々に刊行されることになるという 白石市史の申し込み書と、白石郷土研究会誌のバックナンバー一揃えと、白石の家中屋敷と題して後小路小関 家の解説をされた抜き刷りとをいただき辞去した。満ち足りた気持であった。後でこの解説を読み私は驚嘆した。 平明達意周到に配慮された名文であった。
 後に書き写した資料をもとに、初代甚内常路が一五七〇年生まれであることを知った。北海道移住が一八七〇、 私が初めて白石を訪れたのが一九七〇年、不思議な暗号であると、一種の因縁を自分の中に作りあげたことであった。
 昭和四十七年六月末に父を、そのあとすぐ、八月末に母を私は喪った。その時の叔父叔母兄弟等の集まりの中で 墓をどうするかが、当時話題になった。墓地がすっかりふさがって、新たに建立する余地がなかったのである。 結局今までの墓を掘りあげて改葬して、墓はひとつにすることになった。いつのまにか片倉さんに墓標を書いてもらいたい ということになった。つづいて常林寺にある墓が話題になり、やはりこれはお寺にお願いしてこれから 守っていきたいということになった。
 二度目の訪白はこうして実現した。母の葬いを終わってすぐである。叔父徳三・弟勝が同行した。九月六日夕刻 東室蘭駅を発った。函館で下車、母の実家に挨拶に行く。親切なもてなしをうける。深夜乗船。国鉄につとめている いちこがいろいろ世話をしてくれた。叔父と旅行するのはこれが始めてであった。私はうれしかった。同時に少し く不安であった。こんどの旅行がうまくいかなかったら・・・。小雨の白石駅に着く。白石城址で時間をまち、 午後片倉邸に伺候。お願いを快よくききいれてくださる。ありがたいことであった。前回に見せていただいた文書に 加えて分限帳。弟は写真撮影にいそがしい。白石名産の紙布織り、実物についての説明。当日はくしくも同行した 叔父徳三の誕生日であった。六十三歳の誕生日である。せめて片倉さんと一緒に記念撮影のお願いをするべきだった。 叔父の一生の記念になるはずのものである。これは後に気がついたことである。くやしいことであった。
 次いで常林寺にうかがい、墓のことをお願いする。今までのことがあるから簡単に承諾するわけににはゆかぬ。第 一管理している茂泉家に挨拶してからにすべきである。住職さんのお話しであった。前回にも教えていただいた のだが、この時のおはなしで茂泉家と佐野家の関係がはっきりした。茂泉家へ佐野家からさだという人が 嫁に行ったこと。そのさだに仕えた嫁きよのさんが、現在八十歳をこえ大河原町立病院で療養中であること。その人の 了解を取る必要があること。茂泉時計店はその佐野家の人に次男の系統であること。
 翌日、茂泉時計店に立ち寄り挨拶をする。系図などが見付かったらおしらせするとのことであった。
 きよの婆さんは、記憶もたしかであり、言語も明瞭であった。われわれの希望を知り、了解され、お寺にも口添えしてくれるとのことであった。
 私は佐野家に縁のつながる飯田という家があることを知っていた。しかし、続きかたがわからなかった。問に 答えて、飯田さんというのはおかあさんのにいさんです。しばしば見えました。墓は傑山寺にあります。本堂の ちょうど裏側になります。
 午後、再び常林寺にうかがう。はなしはわかったが、もう少し様子をみてからにしたい。墓をはっきり残すという ことになると、他の檀中と同じことをしてもらわなければならないと、住職さんのおはなしであった。くれぐれも よろしくお願いする。用意していった線香をそなえる。雨が烈しく掃除はできなかった。
 傑山寺はすぐその近くである。片倉家の墓にお参りしてから、飯田家の墓をさがす。「飯田慤之墓 大正三年九月八日 六十七歳」 とある
 佐野家家系図中、十一代源蔵の弟に熊太というのが記載されている。この人物と思われるのが、佐野家の戸籍その他に 現れてこない。片倉家所蔵の系譜書を見せていただいてからこれは私の疑問であった。この飯田慤が熊太だ。私はそう思った。同年に死んだ源蔵は行年七十歳である。あとはこの確認をするだけだ。
 翌日、叔父と弟は北に向った。ある程度満足してくれただろうと私は思っていた。帰京の時間まで私には三時間 余裕があった。ふたりを見送って私は新明社に向った。宮司さんにきけば飯田慤と熊太をむすぶ糸口がみつかるかもしれないと思ったからである。飯田という人のことは、中町角方の隠居さんがよく知っているだろう。その方の 先代がたしかその人の弟子であったはずだ。先生が養子ということはきいていない。
 角方の隠居さんは小柄で温和な感じの人であった。現当主の飯田毅さんからきた年賀状がある。住所がわかる はずである。慤さんの写真もあります。古く変色した写真であるが、まさに佐野のマキの顔立ちであった。私の祖父 はその甥にあたるはずであるが、全く同じ顔である。血のつながりの不思議である。帰京後早速教えられた住所に 便りをさしあげた。日ならずして電話をいただいた。照会した熊太即ち飯田慤に対してその通りですとの返事であった。また、慤はまことと読むと。小事ではあるがある物事を究明つくしえた快よさを感じた。
 三回目の訪白は墓の仕様書ができあがったのをもって、お願いにあがる旅であった。いろいろの話しのついでに、 飯田家のことをきいてみた。飯田のおじいさんを知っています。塾をやっていましたが、飯田家は初代片倉小十郎 景綱の叔父の家です。飯田小十郎といいました。片倉小十郎はその武勇にあやかるためにと望んでもらった名です。 飯田家の系図は私のところにありません。見たいと思っていますが。私は近いうちに飯田家の人に会いたいと 思っています。そのとき系図を見せていただいたら、書き写してお送りします。私はまだこの約束を果していない。
 常林寺では檀中としてのつとめをきいた。私はそのとおりにすると約束した。夏には必ず掃除・お参りに来る  といった。戒名と過去帳との照合もしてくださるということだった。のちにこれは早速お願いして教えていただいた。
 私はこの「あとがきに代えて」で、この小冊子ができるまでの経過をかくつもりであった。筆の未熟はあまりにくだくだしい  叙述を重ねることになっている。私は先をいそがねばならぬ。
 家のことをきちんと根拠のあることによって知りたい。私はかなり以前からそう思っていた。片倉家で 系譜書・武功記などを見せていただいて私は満足した。他の血縁の人々にもこれをしらせたいと思った。原稿の一部を 父に書き送ったりもした。しかし、できるならきちんとしたものを、こんな気持がなかなかこれを完成させなかった。きれいごと だけを書いてはいけない。せっぱつまるまでやらない。いやそれでもやらないのが親譲りの悪癖で ある。しかし、私はおおむね事にせまられている。境遇のちがいである。私はやらなければ生きて行けない。父の こと母のことで集まった人々が、私のこの計画を知り、はやくとせきたてた。結局私は父母の一年祭までにと 約束した。見たい知りたいという人がいたことを喜んだからである。。しかし、期間があまりにも短すぎる。私は内容 に多くの不満をもちながら、人々の前にこの小冊子を提出しなければならない。私はこの小冊子をもとにしてさらにより 内容の充実したもの正確なものを作ろうとするであろう。題名に「稿」と付したのは、この気持のあらわれである。この小冊子の不出来は、このことに免じて許していただきたいと思う。
 この小冊子ができあがるまでにも、非常に多くの人々のご援助をうけている。片倉信光氏、常林寺住職菅野直秀師、このお二方 からは本当にすべての面で教示をうけ、資料の提供をうけた。これができたのもこのお二方のおかげ である。記して感謝の気持を表したい。
 これを読む同族の方々、白石を通る機会があったら、感謝の意を表しにうかがってほしい。また、墓参も行ってほしい。
 多くの方々のご好意とご援助によってこの小冊子ができたことを再び記し、感謝の意を表して筆をおく。



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おわりに

 期日にせまわれての作文のため推敲はもちろん、読み直しもしないで印刷にまわすことになった。 句読点、用字の不統一は特に職業柄気になることである。事情を察して、寛大な判断をされることを切望する。
 文中のことばその他で思わぬ不快を与えることがあるやもしれぬと私はそれを恐れている。私の善意を信じて許していただきたいことである。
 本来もりこむべき多きのことを、私の知識、理解の浅さからのがしていると思う。気がついたことは どんな小事であっても教えていただきたい。たいていのところへは出向く労をも私は決しておしまないであろう。
    昭和四十八年三月十七日記
 連絡先
 180-04 東京都清瀬市旭が丘二ー三ー六ー三〇六
   佐野 甫
     電話 〇四二四-九一-九〇二



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