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「山の想い出」幌別鉱山会(昭和53年6月発行)

まえがき

 一月十九日、雨夜秀明氏から、廃校になった幌別鉱山小学校の卆業生名簿が見つかった から、鉱山会本夏の札幌開催までに、同窓会名簿と小誌(山の想い出)をつくりたいので、 同封の名簿に知っている範囲で、住所を書き込むように依頼を受けました。
 考えてみると、離散した卆業生の住所を調べることは大変な仕事で、お言葉に甘え 同窓会名簿の方は雨夜氏にお願いするとして、小誌の方は、私に手助けさせていただきたい と申し出たのです。
 しかし、この時既に雨夜氏は、会員の方に原稿依頼後でありましたので、雨夜氏のお手元 に届いた原稿を頂いて一応纏めあげたのがこの小誌なのです。
 ここに改めて、雨夜氏の発意に対して敬意を表すると共に、お多忙の中原稿を、送り届け られた諸氏には、心からお礼申し上げる次第です。
 この「山の想い出」なる小誌の第一号は、昭和四十六年四月に出ておりますから、第二号 になるわけで、さらに、まだお書きにならない方の原稿が纏りましたら、次号をつくりたい ものとも考えております。
 この小誌がいささかなりとも、小学校時代の鉱山生活をしのんで頂けますならば幸いと存じます。
 昭和五十三年六月     谷口 達三



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郷土のうつりかわり  幌別鉱山会会長 大塚辰次郎

 鉱山の歴史は詳でないが、明治三十九年、五番舘主小田良治氏の所有になってから、 資本金400万円で、製錬業務が開始された。
 明治四十一年の戸数は、鉱山百八十一戸、六百七十一人、幌別浜の百五十一戸、六百九十七人で 三十戸も上回っていた。当時の住所は、幌別村字シノマン別と称され、多数の鉱夫を 移らしめ大溶鉱炉を設け、馬車鉄道五里余を敷設し、村勢急激に進展し、大正八年 村制施行の要因となった。
 小田氏は、河合敬二氏を支配人とし、開発経営に当たらせていた。岩ノ崎、旭鉱の金、 銀、銅から始まったもので、明治四十三年中一ケ年四万トンを産出に及んだという。鉱石 は、粗銅とし、一本三十キログラム程のナマコとし、馬鉄で幌別駅に運ばれた。当時 山子として入山したのは、千葉仲次郎、川又孫吉氏など二十名ほどであった。 最初の学校の屋根は茅葺の教育所であった。
 明治四十四年に壮瞥硫黄山も小田氏の所有となり索道により鉱石を降し、鉱山で 製錬し搬出したのである。大正二年には、日鋼で煉瓦職であった石井敬助氏が入山し 鉱山施設に精を出した。当時札幌局にした石井豊一氏は、翌三年に移住し親方仕事を 手伝った。大正五年には180戸にふくれ上がり、そのため豊一氏は、河合氏から勧められ、 大正五年九月開局(※鉱山郵便局のこと)が認可され、事務所小使いが郵送に幌別まで通ったものである。 学校はそれより早く、明治四十年に鉱山教授所が開設され、須田賢氏が子弟の教育に 当った。また旭簡易教育所も開設されたが数年を経ずして閉鎖した。



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 大正三年頃の長屋は、一棟六戸で柾屋根となっていた。そのうち四戸の住宅となり、 係長級は二戸建に入っていた。熊が多く出没したが被害は幸い少なく、魚類は、マス、 赤ハラ、ヤマベ、カジカ、ザルガニがいた。山菜では、竹の子が多く、タランボの芽、 ヨメナ、ウド、フキ、殊にブドウ、コクワなど採れた。幌別の畠には、アサツキが多く 有り採取に行ったものである。また、マスなど川の浅瀬でもたやすく捕まえることが 出来た。赤ハラなどは投網で取ったものである。
 幌別の学校え徒歩で通った頃、夕暮れになると、第二の橋の附近で鹿の声も聞こえた時代である。

 当時の物価は、米一俵七円、酒一升三十二銭、燃料は、一敷一円二十銭位、収入面では、 大工一日一円、鉱夫一円二十銭位、出面は、男六、七十銭、女三十銭位であって、生活は 楽で有ったようである。中学校へは、室蘭、札幌へ入れたものである。大正三年には、天野という 宿次一軒あった。店舗では、野口、北條、清野、大塚、坂本、川又、他に理髪、森豆腐店等々 があった。其の他市街地には、鉱山倶楽部も、お寺もあって、住職は藤田氏という幌別本晃寺の住職であった。
 大きな建物としては、銅製錬所、鉄工場、鋳物場、大工場、硫黄製錬所、事務所(配給所) 倉庫場、電気場、荷造場、合宿、病院,炭小屋、馬小屋などあった。明治の末期から大正四、五年 頃まで活況を呈して居たが、大正九年鉱山は、硫黄会社に譲渡され、大正の末には戸数が 約半分にと減ることになった。終戦当時の戸数は、二百戸位あったという。
 昭和二十八年中学校創設され、二十九年軌道撤去され、昭和三十三年バス開通となった。 同年有名な川又温泉も集中豪雨で没したが、湧出は変っていないので脚光をあびるのが待たれるのである。



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ふるさとの挽歌は悲しい  佐藤小次郎

 昨年九月鉱山会が地元で開催され、札幌から村川、谷口両氏と、私が出席し、 幌別在住のみなさんに大へんお世話になった。小学校(今は廃校)で、一夜を明かした。 翌日有珠山の火山灰をかぶった地面を、多少気にしながら。幼い日の記憶をたどり、廃墟 の跡を歩いた。あの白く汚濁していた川は澄み、わが谷の緑はよみがえっていたが、その 緑の中、あちらこちらに、文明の排泄物のような鉱滓が無残に赤膚を残していた。古い ものが亡び、新しいものが生まれのが自然の理だが、かつては人生の生活をいろどり、 そのため人間は命までかけて守ったものが、今一顧だに値しないものであり、幼年時代 や、少年時代がもつ尊さをこのまゝすてなければならないことは、何と悲しいことであろうかと、 懸命に記憶を呼び戻す。しかし、六十年のタイムトンネル、ともするとこの記憶に相当の ずれがあるかも知れないことも恐れる。

 鉱山の全盛期は、大正の初期、私どもが小学校に入る前後であったようだ。その頃戸数 四百数十戸、学校も新築されたばかり。教室は三つ、他に教員室と、教材室があり、子供心にも 立派なものと思った。私どもは、大正九年の卒業生であり、この間学童仲間の入れ替りは かなり激しかった。もしかすると、卒業時はすでに鉱山の衰退期に入っていたかも知れない。 同級生は二十人位だったか。今、消息を確めあえるものは、村川、山木の両君だけ。 毎年の鉱山会でお互いの無事を喜びあう人数としては淋しすぎる。野口、坂東、平君等が 達者でいるやに聞くが、その他石山、桑原、森田、小畑君などがいたが、どこかでひっそり 暮らしているのやら…。もし達者でいたらお会いして、そして心ゆくまで昔語りをしたいものだ。 思い出の糸をたぐる、大正八年の晩秋さわやかな陽ざしが、髙橋校長の住宅裏にそそいでいた。 そこには収穫したばかりの南瓜が山と積まれていた。六年生の私どもが集められ、屋外社会科 教室となった。



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 先生はその中からアカネ色のマサカリ南瓜を一つ皆に示して「この南瓜の重さを 答えなさい」との質問である。生徒は順番に答える。十六貫…中には五十貫と答え、 先生の目をうかがう。遂に私の番にきた「一貫五百〆」そして私の答がズバリ的中 した。「お前どうして一貫五百〆が判ったか」の先生の質問に、「私は、毎月購買に ミソを買いにやらされる。そのミゾの量が一貫五百〆です」皆が、どっと笑ったが、私は 真剣だった。
 私の顔をみて先生は、うれしそうにうなずいてくれた。

 銅鉱道、岩の崎から掘り出された鉱石は、川向いの銅精錬所に運ばれ、水洗され、 巨大な溶鉱炉で製銅された。三十キロの粗銅が出来上がると、馬鉄で下の幌別駅まで 運ばれる。監視のため警官が同乗した。この粗銅の精度を分析監識するのに色々な過程 があり、中に溶鉱炉の下部(マブキと称した)から灼熱の一塊を取り出す作業があった。 長い鉄棒の先端に杓文字(しゃもじ)ようなものが付いていてこれですくいとる。 パチパチ火花が飛び散る。男達は、スッ裸で頭からダラダラ水のしたたる筵をかぶっている。 素早く仕事をしないと耐えられない。灼熱の地獄だ。命がけである。私ども子供たちは、 遠くから目を見張った。



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 硫黄の粗鉱は硫黄山(黄渓、今は廃鉱)から鉱山まで索道で運ばれ、ここから馬鉄 で幌別の駅に運んだ。急勾配、急カーブ、これの運転がまた壮観だった。ギイギイ異様な 音をたてゝ制倫器(ブレイキ)が木製だったので、キナ臭い匂いがした。不思議にこの馬鉄 の事故は聞いたことが無かった。硫黄の一部が鉱山で精錬された。そのため時には山中 この匂いが広がる。川の汚染で幌別浜の漁師から抗議が出て、鉱山が賠償金を出したそうだが、 この硫黄の精錬場と、銅精錬所から出る煙(亜硫酸ガス)のため、四キロ下の農家の杉が枯れると、 今度は農家から抗議が出た。その結果は、どうなったか私は知らない。多分、農家が漁師の 補償に便乗した抗議であったのかも知れない。

 この硫黄精錬所で働く人達は悲惨だった。釜の蓋を開けてかきまぜる作業をする時である。 黄色い炎が舞い上がる。風が横なぐりに吹くときでないと、こんな仕事はとうてい出来ない。 地獄の蓋あけとはこんなことかと思った。遠く離れて見ていたが、目がチカチカ、喉が ヒリヒリする。そこで働く人達は、毎日黒砂糖を食べないと労働が続かないとも聞いた。 付近一帯は草や木は枯れてしまった。このころのこうした尊い労働者の犠牲も、又止むを 得なかったと、今昔の感に堪えない。
 岩ノ崎坑道の入口に大きな建物があった。ボイラと皆は言った。坑内に湯を通す機械があり、朝、 昼、晩三回、巨大な音の気笛が全山に木霊した。この建物のすぐ前に私の家があった。ある時、このボイラ の屋根に火の粉が落ち、危く大火事になるのを、私がみつけ、通報して、事なきを得て喜ばれた。 時計が貴重品の時代、この役割は大きく、私どもと遊び疲れた夕方「ボーが鳴った」と言って帰宅した。



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 街のはずれ(今の学校であったあたり)一帯が毎午薪の一大工場となった。溶鉱炉で コークスにまぜて燃やす分と、山の住民が燃料とする量は、膨大な容積となる。岡本さん という人が、別会社を経営して、これを供給した。私は、ここに積まれた薪の匂いが大好き だった。ここで遊ぶとき、ひそかにこの匂いを嗅ぐときには、薪の山に椎茸や、そのほかの 茸を見つけ、友と歓声をあげた。
 岡本さんは、山から帰ってくる途中、何かに驚いた馬が狂奔し、落馬し、無惨な最後を 遂げた。私の父はこの岡本さんに使われた。

 街の中央(今の山木君の家の向いあたり、子供の私には、相当広い街と思った)に劇場があった。 私どもは芝居小屋と言った。毎月四、五回位に、芝居や、活動写真がかかる。旗を立てゝ、 クラリオネットを吹き、太鼓をたたくジンタが山の主要路線を練り歩く、この旗持ち をすると入場無料の資格を得られる。あるときこの旗持ちをして、母にひどく叱られた。芝居や、 活動写真がクライマックスになると野次が飛ぶ。すると二階に陣どっていた勇みはだの兄さん連中 が、必ず大立ち回りの喧嘩となり大騒ぎとなり、大騒ぎとなる。巡査がおっとり刀でかけつけ、 屋外に連れ出される。勿論この間、芝居中止である。だから私は二階には行かなかったし、ここは又、 上席になっていたようだ。これらの連中は、酒を持って来てご丁寧にも、呑み乍らの観劇だから、 喧嘩になったら始末が悪い。警官が必ず臨席するようになった。私は「巡査はいいなァ」毎日只で 映画をみられると思ったりした。



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 やがて秋祭りともなれば、全山あげて祝う(今の校門前、道路をへだてた所に 神社の第一鳥居が形ばかり残されている。あれは私共の年代に建てられたものでないかも知れない) 祭の日が来て、何段もある階段を昇りつめると、山の頂に神社があった。この階段の 両側にズラリとご神燈が建つ。墨黒々と、ご神燈と書いたものゝ他、漫画や、狂歌を書いた のが灯篭が並んだ中を夢ごこちで上ることが神秘的であったが、その中に「かわいそうだよズボン のオナラ、右と左に泣き別れ」と書いたのがあり、子供心にも随分と面白いなあと感心して暫く見とれていた。

 二股沢の魚釣り、校庭で雪合戦、川向いの坂でゲロリ滑り、野草摘み、ランボッケ浜 (冨浦)の見学や、カルルス、登別温泉までの山越え遠足、バチラー博士が来て街でお話しを していたこと、スペイン風邪が流行し心配したこと、七夕で社宅にローソクを貰って 歩いたこと、夏ともなれば川向いの淀みで泳いだこと、父を亡くし野辺送りをしたことなど、 哀歓こもごも脳裡を去来する。
 ふるさとの山よ、木よ、草よ、私は生ある限り、アイドルのお前を愛し、思う続ける。そして 心からここに住む人達の幸を乞いねがう、又会いましょう。そしてまた語り明かしょう。
   五十三・二・二十



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第十三回鉱山会に出席して  雨夜秀明

 廃校間もないブロック造りの、元の幌別鉱山小学校に幹事と共に到着したのが 午後2時過ぎ、早や会場は出来上がり、お手伝いの地元夫人数名が食事などの準備中、 校内には歴史を語る写真、校旗を始め記録が廊下に整然と貼られ、職員室には思い出 の戸棚と中には用具類があり、もし開校されるとなれば直ちに授業開始することが できる状態のようす。これらをなつかしく眺めたり、窓越しに見る運動場、遠くの 山々、昔に変らぬ自然の姿、只々ありがたい思いだった。
 定刻近くになって、会員の元気な顔が急に増え始め、久し振りに見るが、変らぬ 姿、心安さで打ちとけた声があちこちではずむ。やがて大塚氏の挨拶と司会で会は 始まり、谷口氏のあいさつ後、折箱と、地元鉱山の山菜や、椎茸など豊富なご馳走で、 会長の音頭で祝宴に入る。会場には、大正時代の旭尋常小学校の卒業、修業証書、 写真などのほか、鉱山十周年記念の銀盃が展示されてあった。どれも思い出の品で なつかしい。宴の最中、お互いの健康や、現在までに至る話など、なごやかな 雰囲気。そのうち、のどの披露がはじまり、賑やかさが一段と盛んになった。

 その内鉱山に永らく伝わり、郷土芸能に数えられ、保存会なども結成されている 獅子舞の太鼓が、千葉、斎藤両氏により打ち出された。「獅子の出初めから神鎌 を持って之に立ち向かう若者と勇壮な戦になる。…遂に双方共疲労の色が見え、お互い 一歩、又一歩と退き、勝敗はつかず別れ行く。…その後再び平和な村となる」これを バチさばきで熱演、他に見られない見事なリズムに会員トロリとして聞き入っていた。 時間も相当経過したので、一応乾杯となったが、腰をおちつけた同志は、また飲んだり 話をしたり之が夜明けまで続く。



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 二日朝、五時半~六時起床。希望者は二台の車に乗り、旭鉱山の昔を尋ねて出かける。 朝霧もあり丈余の樹木繁る処、然も有珠山爆発の降灰を受けた草木は地面に伏し、歩くには、 第一服装が出来ていないので、見通し出来るなるべく近く迄行き、この辺に、事務所、 学校教場、社宅、かじ屋など記憶を呼び起こしての話や、あの山の斜面は、よく辷った所だ。 この辺にかじ屋、この辺に飯場があったと、飛び出すことばは、昔を発見した歓びの声が あり、満足感にあふれた力強い声であった。また、ヤマベが釣れたとか、カジカを乾して 冬に備えたとか、少年の頃を思い出し、当時の食糧事情をなつかしく語る人もいた。

 一行は記念にと、大塚氏のカメラに収められ、なつかしの昔を背に下山、朝食はもう準備 されていた。朝酒をたしなむ者、語り足らぬ者など…など。札幌居住会員の発言あり、「 いつも地元の方に厄介になっている、来年は札幌で」の動議あり。遂に誠意に賛成、 札幌開催に決定し、出席の有無まで確認、本年欠席者も来年は出席するよう要請し、多くの 方々の出席を募ることとした。また鉱山小学校卒業名簿と、昭和三十三年迄はあるが、それ以後 がないので集録することに決まり(雨夜)来年までには出来上がる予定で進めることにした。
 思い出は、つきることなく子供時代から、五十、六十年の歳月を経ているので、当然だろう。 折にふれ思い浮べていた、あの山や川、再び訪れることを楽しみに、ひる近く、建替中の幌別駅から 室蘭方面と、札幌方面に別れ行く会員、昨日、今日の数々の思い出を車窓にうつして ……お元気で………



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旭鉱の思い出  中村俊子

 それは今を去る事七十余年、明治四十年余りの頃だったと思います。旭鉱と申しても、 鉱山で働く人達が住んでいた部落から山奥に入った所が旭鉱ときいていました。まだ 小さかった私は、現場に行ったことはありません。おぼろげではありますが当時をたどって みたいと思います。
 旭鉱に関係のある人達の住んでいた部落には、事務所、社宅、長屋、飯場、学校、事務所 の横に販売所があり、酒、煙草、日用品、雑貨、衣料品が販売され、幅五センチ、長さ十センチ 位の白い通帳を持って買物にゆくのです。ただしお菓子がなかったのを子供心にはっきりと 覚えています。子供のいる親達は、工夫をしておやつを作ったのです。お芋をつぶして作った のを頂いたことがあります。皆んなが鶏をかって野菜を栽培して自給した生活です。私の家 では、玉子とメリケン粉でビスケットをよく作りました。都会生活をしてからは、あの時の ようなおいしいビスケットには出合いません。

 春がそこまでやって来たけはいを感じと頃になると、雪をかきわけて野性のミツバ取り にゆきます。フキ、ワラビ、タケノコ豊富な食料です。家々には多くの花が咲き乱れ、小鳥 は囀り、のどかな毎日だったと記憶しています。川のせゝらぎの聞える所に社宅があり、そこへ遊びに 行くのが日課でした。飯場にも行きました。小犬位の熊の子がミルクを呑んでいました。それから 一年後熊祭りをするとの事でその前に熊を見にゆきましたが、以前と違って丸太の檻に 入れられ見違える程大きくなっていました。



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 その頃は労働基準法などない時代ですから、朝は六時から十二時間労働です。上下なく全員が、 高丈、ゲートル、鳥打帽子に首には手拭といういで立ちで、トロで現場へ出勤です。トロの線路を 歩いて旭鉱へ行って見ようと思い立ち出かけたのですが、大変叱られました。
 事務所内に分析室がありいつも錠がかかっていました。黒っぽい洋服のおじさんがいつも一人 居りました。つまりその部屋が旭鉱のシンボルだったのではないかと思われます。一度すきを見て 入ったことがありますが、今でもはっきり覚えて居ります。旭鉱の金は良質だと聞いて いましたが、金は一度も見た事はありませんでした。

 旭鉱に関係のあった部落の人員は、私の知る処ではないのですが、それぞれの分野において将来 に夢をいだいて一生県命働いていたのではないでしょうか。大自然に恵まれて心おだやかに、 自分に正直に生きていたのではないでしょうか。あの社宅の裏の川のせゝらぎ、熊の 足あと、ザルガニを取って遊んだ事、いたる処に名もない花が咲き乱れていた事、見るもの、 耳に入るものすべて遊びの道具でした。幼なき日々の思い出は何年たってもなつかしく、 美しく思い出として消えないでしょう。願わくば今一度訪ねて見たい心で一杯です。



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~思い出の記~ タランボの刺と金玉  谷口定吉

 私達の家族は、明治四十四年然別鉱山から幌別鉱山に移って来たと父母から聞いて居る。 私は、翌年幌別鉱山尋常小学校に入学したが、大正三年、三年生のとき、金先である旭鉱業所に 転居したので、旭鉱特別教授所に転校、大正七年十三才の春、尋常小学校を修了したのである。
 旭鉱業所は、従業員家族少ないので、全生徒毎年四十名位であった。校舎は一教室と、先生の 住宅となっていて、教室には一年から二年生と縦列に机を並べ授業が始まると、先生は年組順に十分 間位ずつ教えて、後は自学自習するのであった。腕白ざかりであるから自習どころか騒々しい授業風情 であった。このような勉強振りだから、学力のつく筈もなく、小学校教育の義務を果したと言う だけで、小学課程を終ったのである。

 修了後志ざすところあり、室蘭武揚尋常高等学校高等科に進学することになり、親元を離れて 室蘭の生活となった。以後春夏の休暇、正月休みに帰るだけで、鉱山との生活は疎遠となり、思い出は 小学校時代の時しかない。それも遠い昔の幼少年時のことで、子供心に楽しく遊んだことのほかは 定かな記憶はない。同級生は多分七名だったと思うが、心に残る交遊もなかったので、どうしても、 名も面影も浮んで来ない。申し訳ないことである。家庭的に付合いのあった柿下カズさん、竹原 キヨさん、金吉さん姉弟、下林吉成さん、キタさん兄妹、皆さんの幼なじみの童顔は 懐しく瞼に浮んでくる。長谷川温先生も思い出される。髭濃く、鼻髭を生やして居られたので、子供 心でお年の程は見当つかなかったが、まだお若いと思われた。笑うと白い歯が見え優しい面立ちで、 生徒達はなつき慕っていた。一人暮しで居られたので、家が近かったから時折、母の作り物など届けに行った。 そんな時、先生は、郷里は岡山であることや、名前の温という字は「タカシ」と 読むのだよと話されたことが記憶に残っている。



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 以来六十余年の歳月流れ、思いもせぬ故郷遠き関西地区西宮市に根を下す身の上となり、 齢も既に七十ニの年を数え、自適の生活余命を探る時、郷愁の思いに偲ばれるのは、友も少なく、 絵本玩具もない山奥暮し、学校引ければあの山、小川と山猿のように自然を友として、ひたすらに 遊び廻ったことである。
 春は、竹の子、ウド山菜採り、夏は、熊の沢辺りの渓流に、ヤマベ、カジカ釣り、秋は、ブドウ、 コクワ、茸採り、冬は橇ゲロリ滑り、四季それぞれの遊びは楽しいものであった。作業場に子供の好きな 大工さんがいて、遊びに行くと、心安く鋸や、カンナを貸してくれたので、三角定規や、●などを 器用に作ったものである。トロ曳きの馬にもよく乗った。製錬所まで一鞭あて、駆け下りるのがたまらなく 壮快であった。大曲りの所で父に見つかり引き降ろされたこともあった。
 大工仕事が上手なのと、馬の好きなのも、此の時の手習いとも思っている。
 懐古すれば、雄大な幌別岳山峡に在る旭鉱業所を囲む、豊かな、美しき自然は、遊びの中に、 父母の慈愛のように包容され、今日の健体と人生を、天与育成してくれたことと、有難く思っている。
 旭鉱業所は積雪の多い所で、二月、三月の頃は、木立だけ見える白●々たる雪山景色となる。家は雪中に うずくまり、子供等吹雪の日は家潜み、静かな朝には、家のまわりに鼬(ねずみ)や、兎の足跡が残されて いることもあった。父に叱られて、雪の中に放り投げられたこともあったが、雪の季節の懐しい思い出である。



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 春近き三月頃今で言う春一番の嵐であろう。これがやって来ると暖風吹き込み、 雨が降ってくる。雪溶かしの走りであろう。雪山は溶けビショゝに水を含む。其の 夜は逆にきびしく冷え込み、翌朝雪山は、カンカンに凍りついて、子供等跳び歩いても 埋もれない氷山となってしまうので、堅雪と言って喜んだものだ。
 朝早く橇を曳いてスロープを選び、山の上へゝと登り程よいところから橇に股 がり金玉丸出しに開いた足で梶をとり、木立を避けながら滑り降りて来た。麓近き ところで、不覚にも梶を取り損ねタランボの木立に突込み衝突してしまった。
 タランボは根元から折れ前に倒れた。その上に股を広げたまゝ滑り落ちてしまったのだから、 オロシ金でオロスかのように金玉から股ぐらをタランボの木に擦ってしまった。刺で 切り傷を負い刺がささっている。かなりの負傷をしてしまった。

 ガニ股で泣き泣き家に辿りつき、母にこの次第を告げると、大事とばかり驚きコタツの 上に立たせ、毛抜きを持ち出して、叱るやら苦笑するやら痛々しい真顔で、タランボ の刺を抜き取ってくれた。この時の聲と慈愛に満ちた母の顔は、以来心から消えたことは ない。事が事だけに誰にも話したことなく、母と私の秘密として心秘かに偲び 懐しんで来たが、過に女房と、子供の頃の遊びごとを語り合ったとき、この失敗談を 打明け大笑いしたことがある。



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 母は、昭和五十一年九十三才で逝ったが、その二年前の冬の頃、長々の無沙汰を詫び、 又見舞に尋ねたが母は大変喜んでくれ、これが最後の語り合いになるであろうかと予測してか、 滞在中ずっと私を枕元に呼び寄せ、自分の一生を語り聞かせていた。
 岐阜県高山市の生まれで、少女の頃城山公園の辺りで遊んだこと、父との出合い、 北海道に渡って来たこと、鉱山の人々や生活のこと、喜びと悲しみも踏み越えて、九十才の 長き人生の数々の出来ごとを如何にも満足そうに、懐しげに、その日に帰り追憶していた。

 ●々旭鉱の生活に及んだとき、「あんたはタランボの刺を金玉にさして泣いて帰った ことがあったが、刺を抜いてあげたね。金玉は大丈夫かね、子供のできないのもその せいでないかね」と、つぶらな目を輝かせ、あの時と同じ慈顔でしげゝと見つめ、 懐しさの笑みを浮かべて語った。母も忘れずに居たかと心熱く涙せずには居られなかった。 これが最後の母との会話となってしまったのであるが、この思い出こそ終生忘れられない 山での出来事であり思い出である。私の行末とともに、この思い出は歩んでくれることであろう。
 追。当時は、冬になると、母手作りのネルの股の空いた股引(ももひき)をはいており、パンツ など見たこともなかった。よくも風邪をひかなかったものである。 -完ー
 昭和五十三年 三月末



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野球の想い出  谷口達三

 大正六、七年頃が幌別鉱山の全盛期であったが、第一次大戦後の不況のあおりを 食って同九年、金、銅鉱の旭坑、岩の崎坑は閉坑となり壮瞥の硫黄坑のみが残されたのである。 鉱山野球チームは、全盛期の六年頃に結成されたものである。  私は七年、確か小学校五年生の時であったかと思うが、室蘭の日鋼チームが來山、 地元鉱山チームと、鉱山小学校のグランドで対戦することになった。この時私は、鉱山の 一里山奥の旭小学校に在学していたのだが、全生徒二十名が、加藤金三郎先生に引率され、 トロッコに乗って応援に出かけた。
 面白いことに、鉱山校と、私共の旭校の生徒が合流すると、前列と後列に分けられ、 前列の者は鉱山チームに、後列の者は日鋼チームにと、それぞれ前もって造られていた 小旗を持たされ、所属の塁側に陣取って応援することになった。私はそれまで野球たるものの 智識は皆無、生れて初めてユニフォーム、グローブ、ミット、バットなるものを見た次第で、 勿論ルールなどは知るよしもなく、なんのことはない、まるでわからぬままに小旗を打ち振り、 他の人たちに合わせて歓声を挙げていた。
 新聞やテレビで、王選手がホームランの世界記録に挑むニュースを見聞きするにつれ、 六十数年前の野球のこんな想い出がこみ上げてくる今日この頃である。
   <五三・二・三記>



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鉱山の想い出  大塚辰次郎

 明治三十七年一月八日、幌別郡幌別村オカシベツに生れ、幌別鉱山に移住したのは 明治四十三年であった。その頃の鉱山の状況は、資本金四○○万円で大溶鉱炉を建設し、 馬車「トロッコ」鉄道は五里余を敷設し、一ケ年四万トンを産出するに及んだと言う。 明治四十四年には、壮瞥硫黄山も、小田良治氏の所有となり、索道により鉱石を降し、 製錬をし搬出したものである。
 大正三年頃の長屋は、一棟六戸で柾屋根であり、ハーモニカ長屋と言われた。WCは屋外 共同だった。
 大正五年に尋常小学校第1回の卒業となり、同年四月幌別小学校補習科に入学することと なり、客トロや、荷トロに便乗し通学したが、雪害の日には「ツマゴ」仕度で早朝出かけたが、 時により遅刻し、伊勢西松校長先生に叱られたことがあった。また帰り道には夕暮となり、 第二の橋にさしかかった処で狐の啼き声が聞え、淋しい気持で後振り返りながら三、四人 で帰ったものだった。

 明治の末期から大正五、六年頃迄活況を見た鉱山は、硫黄会社に譲渡され大正九年には、 戸数も約半分に減ることとなり、友人も転出し自分も鉱山を去ることとなった。
 大正九年以来三十年間、炭山「萬字」市街生活も終り、再度昭和「二十六年」生まれ 故郷へ帰ったわけで、鉱山会の歩みも、元水族館長谷口達三氏宅より始まったので、昭和 二十九年より、昭和五十二年十月まで通算十三回の会合を催したことになります。幌別鉱山 時代を回顧するに、楽しく遊んで呉れた友達のこと、川に沢山魚が上ったこと、先生のこと、 職場で働いた先輩や同僚のことなど沢山思い出があります。子供の頃、春先は山菜と言えば、 ヨメナ、タランボの芽、アサズキ、旭鉱中間の熊の沢之竹の子とりに行ったものです。



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 夏には、マス、アカハラ、ヤマベなど沢山登って来た川でよく泳ぎに行ったものでした。 秋には、ブドウ、コクワ取りが楽しかったものです。しかし、熊も鹿もいたが幸い危害 はあまりなかったようです。川又温泉に行く途中熊が木に登った跡がよく、見かけられましたし、 温泉の附近には蛇が沢山おりましたし、お湯の質は、特にヤケドとか、切キズには特効が あるが温度が低いので、入浴には、沸かさなければならないのが残念といいましょうか、 何とか開発の名案が欲しいところです。
 学校の屋外運動場には、樹齢何百年も経たと言うナラの木が有り、ドングリ拾いのことも 忘れないことです。娯楽として想い出に残っているものは、幻燈写真会が学校の教室で一般に 見せたのだったが、街まわりの楽隊のクラリネットの奏でる‟天然の美”のメロディが、 今だに忘れることが出来ず、子供の頃風船飴をなめながら楽隊の列に後からついて歩き 廻ったものです。
 自分らの同級生と言っても十二、三人で中学へ進んだのは、阿部戸君一人だけで、 後輩では長谷川亀雄君で、彼は特待生で北大医学部卒でもう一人加賀要助君、これは 学校時代わんぱくで有名だったが、戦時中飛行機のパイロットであり、終戦後操縦士の 教官となり、九州の福岡飛行場でダグラス機の試験飛行で墜落し負傷、九大病院に 入院したそうである。戦時中の資格は大佐だったとのことである。



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 人生は、七、八十年代で終り鉱山会の会員で故人になられた下林吉成、長谷川清一、 金井抱二、古川たま、高橋一、奥山よね、渡辺よしの、金井郁子、本間千代江の諸氏、 逐次古い会員の姿に接することっが出来なくなって行くことが何より悲しいことで、 幌別鉱山は、逐次開発されつゝあることは、誠に慶ばしいことですと言うのは、風光明媚 な鉱山、あの元の合宿の附近に、ニジマス養殖場を設備する予算として(初年)本年 一千万円を投ずること、また旧小学校には、八千万円の予算を計上し、青少年レクリエーション の場を拡充のため整備されることになっており、鉱山会員の奮起を要望されている現状で あります。
 地下資源を益々活用し、エネルギーの開発が何より大切なことゝ考えられます。登別市 の発展と共に幌別鉱山会も命のある限り永生きして頑張り抜こうではありませんか。
 会員各位のご健康を祈り鉱山の想い出の記を終ります。(五十三年五月二十八日)



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幌別鉱山会の誕生  谷口達三

 昭和二十九年夏、道立水族館公宅の拙宅に、奥山俊次郎先生御夫妻をお迎えした 機会に、先生の旭鉱山小学校時代の教え子である竹原金吉、川上ユキ、柿下美紗子 の各氏が集い、回顧談に花を咲かせ、次回から広く鉱山関係者に呼びかけることに したのが、そもそも鉱山会の発足のきっかけとなったのであります。
 その後も、天野昇、鉄矢兄弟、中塚庄三郎、井上浩氏等が拙宅に集り、会合を 重ねましたが、正式に鉱山会として招集をかけたのは、三十六年十月一日、道立水族館 構内の裏庭に於ての開催でした。
 この時の会合で会長は、田中昌五郎、副会長、中塚庄三郎、大塚辰次郎、理事には 井上浩、竹原金吉、長内栄久の各氏が推薦されました。
 第三回は、私の札幌転任の機会に送別会を兼ねて、室蘭浜町‟三華”に於て開催されました。 出席者の顔ぶれはほぼ前回と同様でした。
 第四回目かに札幌在住者を加えることに、会則を変更、会長に中塚庄三郎、幹事長に大塚辰次郎の両氏、幹事は、 登別、室蘭、札幌から各一名ずつ推薦することに決定され、前理事は幹事と名称を改められました。  昨年会長が交代となり、大塚辰次郎氏がこの大役を引き受け、種々お世話して下さる ことになりました。
 私は、このような会が二十四年間にわたって、今なお続いているということは、同じ 山奥で風雪を共にし、衣食住も同じ生活をした想い出がお互いの心にしみ込んでいるようだ と思います。今後、何年続くかはわかりませんが、出来得る限り継続して、老の身を 楽しませて頂きたいものと念願しております。



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